意思による楽観のための読書日記

司馬遼太郎対談集1 この国のはじまりについて ****

国民的作家である司馬遼太郎が日本とその歴史について学者や作家達と対談した記録を全集にした全10巻の第一巻。

林屋辰三郎との対談では日本と朝鮮半島とのかかわりについて。4-5世紀頃の朝鮮半島は北から高句麗、新羅、百済と分かれていて、大和政権は任那と呼ぶ日本の出先的地域を支配していたと言われている。日本への流入経路は大きく言って3つあったと。高句麗系は越前若狭、百済系は北九州筑紫、新羅系がその中間の出雲だったのではないかと二人で推察する。当時の日本では百済系、その後高句麗系の文明を柔軟に受け入れてきているが、新羅系はそうでもない。やはり出雲系の神話というのは、4-5世紀の大和政権から見ると異文化的な側面があった。こうして考えると、古事記・日本書紀に記されていた高天原と葦原中国の神話や神武東征、神功皇后朝鮮征伐、そしてその後の越前からの継体王権招聘などの朝鮮半島とのかかわりにもこれらのルートが関係していると想像できる。

もうひとつ、林屋辰三郎は大和政権当時から戦国時代まで琵琶湖地方が東西南北の文化的商業的結節点になっていたのではないかと言う。若狭越前から京都へ入り、そのまま大阪湾までつながる経路であり、東海道では都と美濃をつなぐ、そして京都を経て瀬戸内へもつながる。近江商人や伊勢商人が京都や江戸で活躍できた要因に琵琶湖が交通の要衝であったことを上げる。さらに、卑弥呼の弟が国の統一をしようとしても服しないので、その後裔が山城から和束、琵琶湖畔の三上山の麓で統一を図る。これが実は開化天皇の皇子彦坐王(ひこいますおう)、その後景行、成務、仲哀と近江に宮廷を定めてその間に倭健命もでてくる。倭健命は近江から始まった全国統一の動きであるとする。四道将軍の話も大彦命が北陸道を通り東に出る。息子の武淳川別命(たけぬなかわのみこと)は東海道を通り東国で会う。出発点は近江。林家はヤマト王権が崇神王朝の時代にも開化天皇の後裔が近江地方で王朝を立てていたはずと考えている。

関西は母系社会、関東は父系社会、という見立てを司馬遼太郎が紹介する。西日本には若衆宿や妻問いの風習があり、これは南方系母系社会。鎌倉政権以降は都の貴族がもつ荘園を武家政権が自分の土地とするために戦う父系社会。ちなみに頼朝も義経も京都生まれではあるが、頼朝は父系社会を代表で義経は母系社会を代表する。父系社会では長男が絶対的家長、京都の公家的に考えると兄も弟も同格のはず、そこに二人の確執が生まれたと。二人の話は時代と場所を自由自在に飛び回り読者を引きずり回す感じ、それが心地よい。

湯川秀樹との対談では、美人談義。出雲には美人が多い、これはヤマトの昔から言われていた、だから出雲の阿国というのは美人の阿国という意味だったと。薩摩では美人を見た時に「コーライおごじょがごとある」という。おごじょとは娘、コーライとは高麗。平安の昔はウリザネ顔を美人としたが、その後時代を経るごとにウラル・アルタイ型の朝鮮型からインド・ヨーロッパの彫りの深い顔に移行してきたと。

永井路子とは「鎌倉武士と一所懸命」について。一つ一つ土地を開拓していって自分のものになっていく。弱者と強者がいれば戦いの結果として強者が弱者の土地を奪い家来にしていく。家来は次の戦いで活躍すれば褒美に土地を手に入れる。これが関東武士のやり方。鎌倉政権の成立にはこうした土地の獲得と拡大があったという。平安から京都の貴族や寺社が荘園として所持していた土地、これを地頭が守っているのを保元の乱、平治の乱を通して徐々に武士が手に入れていく。というより、土地を手に入れた農民たちのなかで、強いものが生き残り武力を持って武士となっていく。公家は褒美として位と利権しか与えられない、庶民が公家国家に対して土地の所有権を主張しぬいた事が鎌倉時代の特徴であり、御恩と奉公という言葉が今でも生き残っている。徳川時代には戦いがなくなり報奨として与えられる土地がなくなったので御恩は土地を維持してもらえることで奉公すべしというのを武士道とした。

ライシャワー博士ともこの鎌倉時代のことを対談。朝鮮半島との大きな違いはこの鎌倉政権の成立だったと評価。それ以前は日本も朝鮮も律令制度、つまり土地は公のもの。鎌倉政権はそれを開拓した人の所有とした。だから鎌倉政権の大きな仕事の一つが訴訟の取扱だった。これがヨーロッパ封建制と日本の封建制の共通点で、封建制のもとでの土地所有は地場経済の発展につながる。アジアの他の国ではこうした封建制が確立できなかったことが経済的な発展速度に影響を与えた、とライシャワー博士は主張する。頼朝は日本の封建制を確立した立役者だという評価である。また日本は多様な文化の流入を認めたと。鎖国していた徳川時代でさえ、儒教でも陽明学や朱子学、孔子や孟子、幕末には蘭学も受け入れた、朝鮮半島では儒教学のイデオロギーに縛られて拒絶してしまった。

網野善彦とは浄土真宗について、仏教諸派のなかで唯一教義のある宗旨だったと。仏教諸派では悟りを開く、修行というものはあっても教義はなかったのが、浄土真宗では教行信証がありその後の歎異抄があったため、在家の信者にも理解しやすかった。そして地方への布教を通じて京都の文化や言葉が地方に伝わっていった。

原田伴彦とは関が原の戦いについて対談。関が原の戦いは豊臣政権内の派閥争いだったと。石田三成の官吏官僚派と七部将(加藤清正、福島正則、黒田長政、浅野幸長、池田輝政、細川忠興、加藤嘉明)の武断派が戦った。秀吉子飼いの福島、加藤らの尾張派とその後登用した増田長盛や石田三成という近江派に感情的対立があり、家康がそれらを束ねたと。

司馬遼太郎は対談の前にどんな人物や時代について話をするかという事前準備があったにせよ、ありとあらゆる話題に話を飛ばしていて小気味いい程である。それにしても日本という国の成立が、神話の時代から連綿とつながる撚紐のように現代にまでつながるさまを対談で見せてくれているような気もする。この司馬遼太郎対談集は読み応えがある。


↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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