寺嫁な日々

嫁・妻・母・坊守として日々感じた事、大きな声じゃ言えない本音の所・・・お話しします

仮病

2009-02-27 18:22:12 | 日々徒然
朝からずっと調子が上がらない


ふと思い付いて、頭が痛い風を装ってみた

蒲団によこになって
『頭が痛いから夕飯頼むよ』ってこども達に言う



こんなときいつもなら、婆ちゃんが私の代わりに全部やってくれるので、こども達も父さんも全然困らないんだけど、今日は婆ちゃん居ないのだ


どうやら娘を助手にして兄さんかチャーハン作ってるらしい

父さんが鎮痛剤持ってきたとき教えてくれた
よしよし思惑通り

痛くもないのに薬を飲むのは予定外だけど、これであと30分ぐらいしたら『薬が効いたよ』って起きていけばいいしね


イシシ…おぬしも悪よのう~

孫をめぐるおとなの作法

2009-02-27 08:36:48 | 子育て
はぁあああああああ・・・・・・・

朝から沈んで浮上できないワタクシです



久しぶりに家庭内バトル


最近の兄さんの大人への依存(つまり、遅刻するけ送って~ってこと)が目に余るようになったので
親子で話し合って
『朝は車で送らない、自分でどうにかしていくように』
と言うことになった



・・・・・なのに・・・・次の日・・・・寝坊・・・・・・

理由が理由だし
当然、父、母は送らない


・・・・・が、婆ちゃんがいそいそと送っていった・・・・



今日は、起きるには起きたが、雨だった
自転車でいくつもりにしてた兄さん・・・・間に合わない・・・・・
一本遅い電車で行って走ればぎりぎり間に舞うはず


父、母は送らない


走りたくない兄さん、『今日は想定外だから送って』と甘える
『天気に対応するのも想定内のこと』と
ここで折れては折角の協定が有言無効になってしまうと、
親子で必死の攻防


ヤイヤイ言ってる横で
ばあちゃん車の鍵を取り出し
『送るから』って・・・・・・・・



ある小児科医の先生の本には
年寄りと若夫婦の孫育ての流儀に違いがあるのは当然で
そもそも『絶対的な正解』のない子育てに
一つのやり方に固執する理由はそんなにない訳で
いろんな大人がいろんな育て方をしてもこどもは大抵「ちゃんと」育っていくものです
いろんな価値観の中で育てられて
案外こどもは賢い目で大人達を理解しているのかもしてません
って書いてあった

・・・・・そうだなぁ

結局、譲れないのは「子育て」ではなくて
「嫁姑の関係」なんだよなぁ・・・・



ちなみにこの本は
毛利子来さんの『孫をめぐるおとなの作法』
昨日タイムリーに図書館で見つけて借りてきてたの
非常に当たり前な事をかいてあって、特に新しい発見も感動も無かったんだけど
当たり前な事がスムースに運ばない事情ってのがいろいろあるんでね
それは子育て以前の別分野なんだし


さて、やる気がでなくても、ゴミ出しだけはしてこなきゃ・・・・

今回記事は子育てじゃなくて、久々愚痴カテゴリーかな?

お講

2009-02-25 13:05:32 | 
1月は
地区毎にご門徒一軒一軒のお内仏で報恩講参り月間です
それが終わると
今度は2月いっぱい、
各地区の婦人会、壮年会、老人会、仏教婦人会etc.・・・・・
様々な会が主催するお講が始まります

農村地帯のこの辺は
二月はまだ田畑、その他の外仕事が手隙で
そういう事情があるからだろうね
お講が一気に集中する

お講は地区の公民館やお説教所、安置寺等に集まってお勤めをして
お説教を聴聞するというスタイル
門徒講ではなくて、地域主催の講なんかだと、
参加者の宗旨はバラバラ
お勤めも、法話も多宗派から毎年順繰りに僧侶が呼ばれてやってたりする
各宗旨が、人間の苦悩や悲しみにそれぞれどんな風に応えているのか
興味深い

人が求めるところ、願うところは宗派を超えて一緒でも
信仰は一つしか選べない・・・・はずだ
宗派を超えた信仰なんてものは無いと思う
ま、そんな屁理屈かんがえながら聴聞してる人はあんまり居ないと思うけど
でも、それぞれがやっぱり無意識にでも何かを選びながら法話をきいてるんだろうな


でね、
お寺の法要には一座しかお参りなさらん方でも
地区のお講の出席率はものすごくいい
先日、住職が勤めたお講は
3日間、昼席、夜席計5座あって、昼は1時から夜は9時半まで勤めるんだけど
殆どの方が6席皆勤なんだとか
住職が
『3日間5座の法話はするほうも大変だけど、
 いつもならもう寝床で休んでいる方も多いはず
 聴聞される方も大変ですね』と話したらしい
村付き合いのしがらみが足を運ばせている・・・ってのはたぶんそうなんだろうけど
「家の宗教」とか「勤め参り」とかいう理由だけでは片付けられないものが働いているんだと思う
法座皆勤はその証
なかなか出来ることではないです



さてさて、
この地区はあまおう農家の密集地
1座ごとにあまおう2パックずつのお土産をいただいて
嬉しい寺嫁家なのでした
ありがとうございます

揃って夕食

2009-02-24 19:54:02 | 日々徒然
今日は
娘は一時間早めの帰宅
Pは塾がお休み
お兄ちゃんは学年末考査最終日で早めの帰宅、
みんなのんびりくつろぎモード

お通夜も、勉強会も、お講も、会議も無い


だから・・・・・

みんな揃って久しぶりの夕飯
しかもちょっと早め


だから・・・・・

こーんなに早く台所仕事から解放された~


このペースで行けば10時にはお風呂に入れるかも


3人仲良くスマブラやってるし



今夜は夜が長いぞぉおお~


これ読む予定




追記
映画の脚本だったのでサクサク読めた
「納棺夫日記」ではなくて「私は貝になりたい」をチョイスするあたり
流行にいつも波に乗り遅れの私らしいんだけど

「絶望」ということを考えた

特別な予定の入った日を楽しみにして
職場のカレンダーの日付けを毎日一日ずつ消していた私に
『死ぬ日が近づくのがそんなに待ち遠しい?』って言った先輩がいた
その先輩は今、「うつ」から抜け出せずに苦しんでいる
とても感性の鋭い人だった
そんな事を思い出しながら最後の場面を読み終えた
房江が署名を集めていたときの日本人の反応が印象的だった



Perfume

2009-02-23 08:46:50 | 音楽とか映画とか
youtubeで遊んでいたら
Perfumeにたどり着いた



今更なんだけど
このリズムが耳から離れなくなっちゃって・・・・・
これは絶対掃除はかどる音楽

・・・・で、レンタル&I-podにトランス~

まだちゃんと聴いてないけど
チョコレートディスコもええよ
評価基準は掃除の時の体のきれ具合・・・そこなのね


でも、あの振り付け
忘年会とかでやりたくなるね
かつて職場の忘年会の為に
居残りして、ビデオ再生何度もやって、
スリラーや少年隊の振り付け練習した時と同じ血が騒ぐよ
今もし現役なら、去年の忘年会は絶対これやったと思う



ま、今の私が実際やったらかなり痛いけどね

門徒と檀家

2009-02-21 02:14:26 | 
先日の門徒会でのこと

83歳になる男性が新しくメンバーになられました

『新人ですのでよろしくお願いします』とご挨拶でした
このお歳にして『新人です』と言える場なんてそうそう無いですよね

そして更に座談の時に
『門徒とはどういう意味ですか?檀家という言葉がありますがどう違うのでしょうか?』と尋ねられました

性分というのも有るのでしょうが
83歳のかたが「新人です」、「わかりません」言える場所がある
おそらくそこに居られた方々は殆どこの方より歳下の方ばかりだったと思います

いいなぁ
って思いました。



・・・・・で、その質問を受けて今日の『お経の会』(婦人会)は
『門徒と檀家』についてのお話でした


門徒とは『一門の徒輩(トモガラ)』という意味です
門徒の門は宗門・一門の門という意味です
つまり、浄土真宗の教えを信仰する宗門の門に入った者・・・・つまり信仰の自覚を持った個人ということです


それに対して
檀家というのは梵(ボン)語のダーナパティという言葉から生まれたもので、元の意味は布施をする人ということらしいですが
日本の歴史の中では信者の所属する寺院を檀那寺と呼び、寺に所属する者を檀家と呼んで世襲的に寺院を維持する体制を作りました。いわゆる寺檀という制度ですね

『門徒』には僧侶、在家(・・・・なんかいい言葉が無いですかね?)の区別はありません、お寺あるいは宗門と門信徒の関係はどこまでも個の横繋がりです
それに対して『檀家』はお寺と檀家が家制度に支えられた縦(上下)のつながりを意味していると思います

現在の真宗寺院は門徒といいながらも寺檀制度に支えられ、そこにどっぷりつかっています

83歳の新人の方の問いかけに
言葉の持つ願い、歴史、悲しみを改めて問い教えられたように思います


追記
『門徒と檀家はどう違うの?』というようなお話は
非常にみなさんの食いつきがいいです

ちなみに参考サイトのURLを載せておきます
http://www.posteios.com/PROJ_C064.htm
http://www.icho.gr.jp/faq/q_a_075.htm


春の味

2009-02-20 00:20:34 | 料理


Pが学校の授業のたけのこ堀りでゲットしてきました
シーズン初!
木の芽も出てないこんな早い時期に・・・・ってのも初めてです
Pお手柄です!
わかめが無かったのであおさのりで

それから


村のおばちゃんからいただいた「わけぎ」のぬたと
「せり」胡麻和えです
せりは量が少なかったので、切干大根でかさを増やして



おまけ

チロルチョコの宇治まっ茶
メッチャ美味しかったよ

若坊守学習会

2009-02-19 14:01:21 | 
再度
いざ22願!

還相回向
私を念仏へと背中を押すもの

親の深い願いに気がつかないように私達にも仏様の本願は判らない
しかし自分はわからなくてもそういう願いに支えられている。願いの元にある。
昔の人はそういうことをご縁と言った
色んな苦しみも一つの仏縁になるという考え方
色んな悲しみや苦しみに出会ったことでお念仏に出会えていたということになる
ただし、
ありがたいのはお念仏に背中を押してくれたということがありがたい訳で
押してくれたもの(貧困とか老い、病気、差別etc.)をありがたがるのは真宗ではない、信仰にしてはいけない
ご縁をそこだけ重視すると
仏縁に出会わせてくれた出来事が
ありがたいものでなくても
ありがたいと思えなくても
自分の気持ちを偽って「ありがたい」と収めてしまう
発想を変えるとか、気の持ちようとか言ってね
(妙好人の暴走

お念仏に出会ったから腹が立たなくなった・・・・それは嘘です
嘘だけど念仏に出会った証をそういうとこにたて安心を求めようとする
貧乏でも「ありがたい」と生きられるところに信心の証を求めようとする
それは間違い
病気や貧困、差別等は念仏に遇い得る縁とはなるが
この縁を心の始末をつけるためにありがたがることは違う




貧乏だから嫌だ、とか病気、老いが嫌だという気持ちは無くならない
簡単に手放してはいけない
宗教に出会ったからといって
苦悩や欠乏感、不安感が無くなってもないのに、無くなったみたいなことを言っちゃいけない
そういうところに信仰の証を立ててはいけない
親鸞は苦しさや悲しみを抱えながら生きたし
簡単にこれでよかったとは言わなかった
そういうことの問題を追求した
本願に出会えた事だけは「ありがたい」と生涯言葉を尽くしてのべているが
その境遇を喜んだ言葉は無い
不安感や絶望感から安心を希求する・・・それがあり続けるからこそ念仏も働き続ける
それが無かったら念仏は用がない
ありがたくなったら念仏は要らない
今居る場所が丁度良いというのには到底納得できないはず
苦しくて悲しいからこそお念仏がある
人間の苦悩があるから本願が働く
                 by N野先生




私たちは貧困や老いや差別が念仏の勧めのものとして働いていのにも気がつかず
いかり、はらだち、そねみ、ねたみの愚痴ばかりこぼしている
そのくせ念仏のすすめのものそのものをありがたがっている言葉なぞに感動し
勘違い人生を迷っている
そこに物事の正しい是非は立たない
いわんや真宗の開放論をや
である

今回22願を再度お願いして本当によかった


ワタクシ事でいうなら
どうもN先生を本尊教祖としてしまい
ありがたがっているなぁ・・・・という事を最近思う
迷惑なことだろう
そしてそれではダメなんだよね


※加筆訂正のご指摘よろしく

原因は・・・・・DS

2009-02-19 00:20:12 | 日々徒然
「母さん大丈夫?」

娘が布団にもぐりこんでる私を心配そうに覗き込んでる

「父さんに兄ちゃんのお迎え行ってって言ってくれない?」

  
「どうしたんか?」
「気分悪い・・・・吐きそう・・・・・」
「迎え何時か」
「9時半に駅・・・もう駄目・・・・・」



恥ずかしくて、後ろめたくて布団被って丸くなる母



病気じゃないのよ



DSのやりすぎ!!
回転ボードに落ちてくるピースを繋げて消してくテトリスやってたら
はまって、はまって夢中になった
ステージ60まで行ったからどうしてもクリアしたくて
・・・・・そしたら目が回って・・・・ゲロッ・・・・・・。





かつて近所の小学生達に「おばちゃんすげぇ!」と言わしめた
『コロコロカービー』の攻略も
深夜2時過ぎ
一人必死にやってる私をトイレに起きた夫が発見
「おまえ、なんか怖いよ」
と言われたこと思い出した


アホですね

春待つ季節

2009-02-18 01:06:46 | 日々徒然
気持ちが悪いほど生温かった週末

今朝起きたら

あらぁ
うっすら雪化粧
寒いはずです


でも、Pの同級生の約半分には嬉しい春のお知らせが届きました

『頑張り足りなかったんだよ』なんて言いたくないから
『頑張れば必ず叶う』って叱咤激励はしたくない

一般試験を控えた仲間達
今、頑張ってることは、結果を超えてそのもっと先に繋がるものだから
安心して頑張っていいよ