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雑感録

福岡なるほどフシギ発見~その28~ 幻の薩“筑”長同盟(後編)


本当にあったのか、筑前勤王党。<br> 維新前夜に惜しくも壊滅。

延寿王院ほか筑前勤王党ゆかりの史跡

みなさん、こんばんはぞなもし(そりゃ土佐やのうて『坊ちゃん』の愛媛・松山ぜよ)。
前回に引き続き、今週もミステリーハンターはワシ・サカモトリョーマぜよ。
前回も話した通り、平野さんは思いを遂げずに獄中で処刑され、長州は朝敵の汚名を着せられて薩摩への敵愾心を募らせてしもうた。
この頃から、福岡では加藤司書(ししょ/徳成=のりしげ)さん、月形洗蔵(せんぞう)さん、早川勇(いさむ/養敬=ようけい)さんら筑前勤王党が、平野さんと入れ替わるかのように台頭してくる。
ちなみにワシは武市さんの起こした“土佐勤王党”に血判を押して参加したけんど(すぐ辞めたけんど)、“筑前(もしくは福岡)勤王党”という組織が実際にあったのか、単に福岡藩の勤王派を指してそう呼んだだけなのかはよう分からん。
まあ、そんなことはどうでもええじゃろう。

筑前勤王党のリーダーといわれる加藤さんは、如水以来の黒田家譜代の家臣の家柄で、1830年生まれ。
11歳で家督を継いで中老になったエリートで、他の志士とはちょっと格が違う。
1853(嘉永6)年、ペリーの浦和来航に続いてロシアのプチャーチンが長崎に来て開港を迫った際に、兵500を率いて長崎を警固。
外国奉行の川路聖謨(としあきら)を助け、水を与えたのみで引き上げさせたことで名を上げちゅうお方じゃ。

筑前勤王党の実践部隊の中心人物といわれる月形さんは1828年生まれ。
藩の儒学者の月形一門ちゅうことで若い頃から勤王思想を身につけ、平野さんがお尋ね者になっていた1860(万延1)年、尊王論の建白書を福岡藩主・長溥公に提出。
翌年には藩政を批判するなどして捕縛され、辛酉(しんゆう)の獄で幽閉されてしもうたけんど、1863(文久3)年に加藤さんの進言で自宅蟄居になっちゅうがじゃ。

早川さんは1832年、遠賀の庄屋に生まれ、少年時代に月形さんの父君のもとで月形さんとともに学んぢゅう。
医学を志して江戸留学を体験しとって、勤王派の藩医・鷹取養巴とも知古の間柄じゃった。
その後、宗像・吉留村の医師・早川家の養子になって村医となるが、相変わらず月形さんや鷹取と国の行方を議論しとったそうじゃ。

赤坂・桜坂の「ふくろうの森」周辺は武家屋敷があったようで、勤王党関係の屋敷跡がいくつかある。ちなみに「赤坂」というのはもともとこの辺り(赤坂2~3丁目?)の地名で、地下鉄赤坂駅は赤坂方面に向かう「赤坂門」があったところ。

加藤司書公屋敷跡の碑。
山手にある月形洗蔵居宅跡の碑。 早川勇は遠賀・宗像の人なので、市内には史跡はなさそう。宗像には早川勇像があるらしいけど…。
道ばたに立つ野村望東尼生誕之地の碑。望東尼の生家・浦野家の屋敷があったところだと思う。

 ※各石碑の場所はコチラ
1863(文久3)年、八月十八日の政変で長州に逃れた七卿から福岡藩の勤王派の重役宛の書簡を、福岡の脱藩浪士・中村円太が早川さんに送ってきた。
中村円太は早くから脱藩して京で活躍し、攘夷派の公卿に取り入っとったんじゃ。
七卿の復権に協力を依頼する内容で、早川さんは重役から藩の使者の一人に指名され、長州に渡った。
七卿に拝謁し、長州や他藩から亡命してきた志士たちと出会った早川さんは、尊王攘夷の最先鋒の空気に触れ、倒幕・王政復古のためには諸藩の連合、特に薩摩と長州の融和が不可欠と考えたんじゃ。
早川さんは福岡に戻ると蟄居中の月形さんを訪れ、そのことを話し合っちゅう。
薩摩と長州という二大雄藩が手を組んでくれれば、とは、冷静に考えれば誰でも思いつくことじゃが、この頃は薩摩と長州の対立は激しく、特に薩摩に京を追い落とされた長州の恨みは一方ならぬものがあって、そんなことができるなどと考える者など誰もおらんかったころじゃ。

1864(元治1)年、沖永良部島に流されちょった薩摩の西郷さんが復帰。
福岡の月形さんも蟄居を解かれ、藩職についた。
7月には禁門の変が起こり、獄中の平野さんが処刑されたのは前回お話した通りじゃ。
朝敵に仕立て上げられた長州に対し、幕府は長州征伐の勅命を得て、諸藩に出兵を命令。
尾張藩主の徳川慶勝(よしかつ)を総督に、西郷さんは参謀に任ぜられ、36藩15万の兵が広島に集結した。
これに対し、長溥公は「国内で戦いよう場合じゃなかたい。長州を許した方がよかろうもん」と、長州擁護というよりは、開国佐幕派としてしごくまともな平和主義で、建白書を加藤さんに持たせて広島の総督に提出させちゅう。
喜多岡勇平は広島、岩国、大坂を奔走して、薩摩藩士などから情報を集めよった。
加藤さんは西郷さんと協力して、山口城の破却と禁門の変の責任者・三家老の切腹、長州が匿っていた五卿(七卿のうち錦小路頼徳(にしきのこうじよりのり)卿は病没、生野の変に参加した澤宣嘉卿は潜伏中)を長州から移すなどの条件を受け入れれば征長軍を撤兵することを決めた。
西郷さんはこの前に勝先生と会って話をし、弱体化した幕府の内情を知り、長州と戦(いくさ)をする愚を悟っておったぜよ。
余談じゃけんど、ワシが勝先生から紹介されて西郷さんに会ったのも、この頃の事じゃ。

一方で、長溥公は早川さんら筑前勤王党の面々を長州に派遣し、長州が解兵の条件を飲むよう工作を指示しちょる。
時に長州では高杉さんのいうところの俗論派(保守派)と正義派(尊攘派)の対立が激化し、幕府に恭順すべしとする俗論派が正義派を追いつめちょった。
高杉さんは俗論派に追われ、中村円太の案内で福岡に逃亡。
月形さんによって望東尼さんの山荘に匿われちゅう。
ちなみに、この頃望東尼さんは病がひどく本宅にいて、庵は空き家になっていたちゅう話もある。
勤王党の密議や潜伏にたびたび山荘が使われたと言われちょるけんど、空き家を勝手に使っちょったのか、望東尼さんの許しを得て借りちょったのか、はたまた本当に望東尼さんが病を押して勤王党の世話をしちょったのか…。
ほとんどの資料には山荘が勤王党のアジト状態になっていたことが書いてあるので、単に望東尼さんが勤王党に関する機密を記録しなかった、あるいは処分しただけなのかもしれんがのう。

とにかく、高杉さんは10日ほど山荘に潜伏した後、正義派再挙のために下関に旅立った。
ちなみに、この間、西郷さんは黒田家の箱崎茶屋に長溥公を訪ね、月形さん、早川さんらが饗応に同席したそうじゃ。
斉彬公子飼の西郷さんは、長溥公にも顔が利く存在じゃったんじゃ。

望東尼さんの山荘跡。望東尼さんは、お家騒動で亡命してきた対馬藩の勤王派・多田外衛の子ども二人を預かり、対馬藩士数名を山荘に匿ったこともある。
箱崎の網屋天満宮の敷地にある「旧御茶屋跡之碑」。このあたりに箱崎茶屋があったといわれている。

この頃、長州の俗論派は既に山口城を破却し、三家老を処刑して恭順の姿勢を見せちょった。
残るは五卿動座の問題だが、幕府は五卿を九州5藩に分けて移動させるよう要求。
俗論派は即座に従うよう正義派に要求するが、五卿を預かる正義派は、当然の事ながら尊王攘夷のシンボルである五卿の移転に強硬に反対しちゅう。
藩の特使として五卿に謁見し、高杉さんらの強硬な態度に驚いた喜多岡勇平らは、志士同士でないと話はできんと判断。
早川さんは五卿動座問題担当を任ぜられ、月形さんも長州に派遣されちょる。
長州に入り込んだ早川さんは、五卿の護衛を担当していたワシの友だち・中岡慎太郎と知り合っちゅうがじゃ。
中岡は早川さんらの薩長融和策に賛同。
早川さんの従僕に化けて早川さんに従い、小倉の薩摩下陣で西郷さんに会って五卿移転について話し合っちゅう。
月形さんと早川さんは五卿に謁見して五卿揃っての九州移転ということで了解を得ると、高杉さんを動かし、会談のため西郷さんが下関に潜入することになった。
月形さん、早川さん、中岡の同席のもと、高杉さん(あるいはその使者)ら正義派諸隊の隊長と西郷さんが会見し、ついに五卿動座が了解されたぜよ。
この頃幕府は五卿移転では生温いとして引き渡しを求めていたが、早川さんらから報告を受けた加藤さんと広島に戻った西郷さんの働きで、解兵後の五卿移転で総督の徳川慶勝が了承。
この後、高杉さんは俗論派を破り、征長軍は12月に解兵となっちゅう。

年が明けて五卿は九州に入り、2月に太宰府延寿王院に入っちょる。
太宰府は尊攘派の聖地となり、諸藩の志士が訪れるようになった。
京と情報のやり取りを続けていた望東尼さんも、京の状況を綴った『都だより』を託され、五卿に拝謁してこれを渡しちゅう。
志士たちの会合には、先に月照和尚が匿われていた松屋も使われたことじゃろう。
ワシも後に五卿に謁見した際に、松屋には世話になっちゅうからの。

太宰府の延寿王院(TOPの写真も)。太宰府の仲見世(参道)の突き当たりにあって、現在は天満宮の宮司家の住まいになっている。
庭から見た松屋の建物。3階は明治になってから建て増しされたものらしい。

チャラチャチャ~
<CM>

加藤さんは長州征伐の戦争回避の功で、家老に昇進。
月形さんは五卿守護の担当となった。
しかし、幕府は未だに総督・徳川慶勝の処分は手ぬるいとして五卿を江戸に護送せよと迫り、総督は総督で五卿を九州五藩に分散せよと命じてきちゅう。
月形さんは太宰府で五藩(薩摩、佐賀、久留米、肥後、福岡)会議を開き、京で総督の真意を質すことに。
五藩会議に参加し上京する事になった西郷さんは、長溥公に月形さん、早川さんの同行を求めよった。
西郷さんはすでに幕府の長州再征の動きを察知。
薩摩、長州の連携に福岡藩を加えて兵を京に進め、一挙に倒幕する秘策を考えちょって、月形さんに福岡藩の先頭に立ってほしいと考えちょった。
月形さんのことを「志気英果なる、筑前においては無双というべし」と評価しとったんじゃ。
しかし、すでに藩の佐幕派に目をつけられちょったのか、月形さんだけは上京を却下されちゅう。
西郷さんは出発の際に薩“筑”長連合の秘策を早川さんに打ち明け、大坂で三藩連携について話し合われることになった。
ところがじゃ。
たまたま早川さんに同行していた長州藩士と筑後の脱藩浪士が幕吏に捕まってしもうて、西郷さんと早川さんは計画の露見を見越して、三藩連携の計画は頓挫してしもうたんじゃ。

これをきっかけに幕府は福岡藩に「長州の次は福岡」と圧力をかけ、藩内の佐幕派は勤王党への攻撃を強めちゅう。
早川さんらは帰国を命じられ、福岡ではすでに月形さんが五卿守衛の役を解任されちょった。
加藤さんは藩論統一のため長溥公に建白書を出しちょったが、これが長溥公の怒りを買い、5月には家老を罷免。
6月には月形さんら勤王党が一斉に謹慎処分となった。
さらに加藤さんが犬鳴山に建築を進めていた御別館が、クーデターを起こして長溥公を閉じ込めるためなどと糾弾され、閉門を命じられちゅう。
勤王派の重役も次々と幽閉され、望東尼さんまでもが自宅に幽閉されてしもうた。
望東尼さんのお隣さん・喜多岡勇平は、佐幕派に通じたなどとして福岡藩の脱藩浪士・藤四郎ら過激派に暗殺されてしまう。

そして10月、いわゆる乙丑の獄で、加藤さんら重役が切腹。
月形さんら中下級武士は切腹さえ許されず、打ち首となってしもうたんじゃ。
常に「藩士」として行動してきた月形さんは、処刑に臨んでついに「3年の内、筑前は黒土となるであろう」ち叫んだっちゅう。
藩医の鷹取養巴ですら処刑されたが、早川さんはなぜか極刑を免れちょる。

[左]加藤司書が切腹した天福寺の跡には歌碑が建てられている。天福寺は昭和58年に移転し、現在は油山にある。[右]西公園にある加藤司書銅像(跡)。銅像は戦時中に供出され、代わりに丸い玉が置かれている。
[左]加藤家の菩提寺・節信院。お寺を営んでいるのも加藤司書の子孫だそう。[右]節信院にある加藤司書の墓。
親富孝通りの少林寺(少林寺拳法とは関係ない)にある月形三代の墓。真ん中が祖父・鷦窠(しょうか)。あとは右が父・深蔵、左が洗蔵の墓だと思うけど、どうでしょう…。

早川さんが“発意”、月形さんが“一藩の論”に高めたとされる薩長同盟は、その後中岡とワシが引き継いで奔走し、1866(慶応2)年1月に成立したぜよ。

望東尼さんは乙丑の獄で糸島半島の西の沖にある姫島に流されとったけんど、1866(慶応2)年9月、藤四郎や対馬藩出身の多田荘蔵、乙丑の獄で長州に逃れていた博多商人の権藤幸助など奇兵隊関係者らが望東尼さん救出作戦を敢行。
藤四郎は喜多岡勇平暗殺後、喜多岡が藤の親友だった平野さんの遺志を引き継ぐ仕事をしていたことを知って、二人に縁のあった望東尼さんを救う事で償いをしたいと思ったんじゃろう。
多田荘蔵もかつて対馬藩の者が望東尼さんに世話になったことを恩義に感じちょった。
救出作戦には、山荘に潜伏したことのある高杉さんの指示があったとか、藤四郎が計画して高杉さんが賛同したとか言われちょる。

望東尼さんは早くから尊攘派の情報拠点として知られた長州の回船問屋・白石正一郎宅に預けられ、その後高杉さんの療養宅に移っちょる。
結核が悪化した高杉さんは、翌年4月、望東尼さんらに見守られながら亡くなった。
高杉さんと望東尼さんの合作ともいわれる高杉さんの辞世については、コチラをご覧あれ。
望東尼さんの方はといえば、それからおよそ7カ月後、王政復古の大号令の1カ月ほど前に、藤四郎に見守られながら亡くなっちょる。

望東尼さんの墓は防府市の桑山というところにあるが、野村家の菩提寺で、望東尼が得度を受けた(出家した)明光寺にも墓が設けられている。

太宰府の五卿は王政復古の大号令で帰洛することになり、三条卿の働きかけで、早川さんは獄を出された。
維新後、ワシが太宰府で謁見した際にワシの事を「偉人なり奇説家なり」と評した東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)卿は、筑前勤王党の生き残りの一人・林元武(もとむ/泰=ゆたか)に宛てて
 連衡薩長北筑功 
  總是王政開基業
(薩長連合は筑前の功績であり、王政復古はここから始まった)
ちゅう感状(下関市立長府博物館蔵)を贈ったそうじゃ。


旧御茶屋跡之碑(網屋天満宮)
福岡市東区箱崎2-10-20

延寿王院
太宰府市宰府4-7

天福寺跡(加藤司書歌碑)
福岡市博多区冷泉町5-35(博多祗園第一生命ビル敷地)

節信院
福岡市博多区御供所町11-20

加藤司書像
福岡市中央区西公園13

月形三代の墓(少林寺)
福岡市中央区天神3-6-14

明光寺
福岡市博多区吉塚3-8-52

つづく


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