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雑感録

福岡なるほどフシギ発見~出張編~ 長州の二つの町に行ってきた(その2)防府の巻

 
防府、というか三田尻は、杉 文改メ久坂文が玄瑞の没後およそ20年たって小田村伊之助改メ楫取素彦と再婚した後、晩年を過ごした町。
幕末の毛利の殿様・毛利敬親、通称「そうせい候」は正義派(革新)が主導権を握ると山口の政事堂に移り、俗論派(保守)が盛り返すと萩に戻ったそうで、先述の萩往還は萩から中国山地を越えて山口・三田尻に至る重要な道だったらしい。
三田尻は、関ヶ原後に下松を本拠とした毛利水軍が移って来たところで、それから港を中心に発展し、幕末には長州海軍の拠点になったそうな。

そういう訳で、朝、を発って、小郡萩道路から中国道・山陽道を通って防府に行こうと思ってたんだけど、どういう訳か道を間違えて、高速を使わずほぼ萩往還に沿って防府に入ってしまった(山口市街に入ったところで気づいたけど、時間はそんなに変わらんかったんじゃないかな?)。



参勤交代の際の藩主の宿泊所や迎賓館として使われた三田尻御茶屋。七代藩主・重就(英雲公)が隠居所としたことから英雲荘とも呼ばれる。八月十八日の政変で都落ちした七卿(福岡では二人減った五卿として知られてますが)が最初に滞在したところでもある。藩主の側近だった小田村伊之助は七卿の世話や他藩との交渉などでこの屋敷を使っていたと考えられる。市の職員と思しき人が丁寧に案内してくれたけど、庭が発掘調査中でちょっと残念。
建物はたびたび造り直されているが、中央部分の「大観楼棟」は少なくと天明年間(江戸時代中期)には造られていたものだとか。書院~一ノ間~二ノ間と連なっていて、いかにも時代劇に出てきそうな雰囲気。
「大観楼棟」の二階。七卿の居室になっていたらしい。
江戸期の毛利水軍の拠点・三田尻御舟蔵の跡。萩往還の終点にあたり、山口の玄関口としても栄えた。幕末、御舟蔵は長州の海軍局となった。四境戦争後、倒幕に向けて事態の押し迫る中、素彦は緒隊参謀として藩兵を率い、京に向けてこの港を出発している。江戸時代から周囲は干拓が進み、さらに埋め立てで海岸線は遥か彼方に行ってしまったので、今では住宅街のただの溜め池に成り下がっている。


藩命によって小田村伊之助が楫取素彦と名前を変えたのは、幕末も押し迫ってのこと。
長州人(に限らないけど)はよく変名を使ってるし、伊之助は坂本龍馬などと会って倒幕のための諸藩との調整役をやっていたらしいので、刺客に狙われるのを警戒したのかもしれない。
あるいは伊之助が第二次長州戦争の際に幕府方に捕われとなった前科?があるためか。
明治に入って初代群馬県令となった素彦は最初の妻・寿を亡くし、杉家の肝っ玉母さん・滝の強いススメで妹の文が後妻となって、名前も美和子と改めた。
その後二人は三田尻に戻り、素彦は養育係を務めた貞宮内親王(わずか3歳で夭折)の遺品を収める遥拝所(探してまわったんだけど、見つけきらんかった)を境内に設けたり、千年大祭の総裁を務めるなど、防府天満宮の発展にも寄与したらしい。




防府天満宮は、なんと日本最初の天神様なんだと。太宰府に下る際に本州最後の寄港地・防府に立ち寄った道真は「ここはまだ都と陸続きやけん、できることならここに家ば建てて無実の報せば待っときたか~」とぼやいたとか。道真逝去の翌年(904年)にその願いを叶えるべく建てられたのが起こりだそうで、太宰府が919年、北野が947年だから、なるほど「扶桑菅廟最初」ということになるらしい。
雅びな楼門。七夕まつりのために梅の紋入りの竹灯籠が並べられていた。
本殿(拝殿・幣殿)はいささか地味ですな。
江戸後期の神仏習合の時代に五重塔として造り始めたけど途中でうっちゃられ、明治になって楼閣に変更して完成したという『春風楼』。防府の街を一望できる(雨で霞んじゃってますが…)。向こうに見えるのがおそらく桑山。その向こうに三田尻の港があった。
境内にある歴史館こと宝物館には素彦の史料も展示。素彦のひらがなの印を押した書面もあり、「正しくは『もとひこ』ではなく『●●●●』だった」とあったが、これが「のりよし」だったか「ふみよし」だったか何だったか…。

ちなみに、素彦は高杉晋作亡き後、我らが平尾探検隊名誉隊長の野村望東尼女史を預かったらしい。
望東尼は志士たちの倒幕成就の祈願のために病を押して防府天満宮に七日詣りして、無理がたたって維新を見ることなく亡くなってしまった。
境内にある野村望東尼の歌碑と胸像。失礼ながら、胸像は平尾山荘のものと比べると、いささかザツな気がするんですが…。


素彦は望東尼の没後26年たって、三田尻の街を見下ろす桑山の南麓に望東尼の立派な墓碑を建てた。
楫取夫妻も望東尼とは少し離れた大楽寺の旧墓地に眠っている。



桑山のてっぺんから見下ろす三田尻の街。たいがい埋め立てられてるが、昔はすぐ下まで海が迫ってたんだろう。(雨で霞んじゃってますが…)
大楽寺は英雲公の分骨が祀られている寺。望東尼の位牌もあるらしい。ちなみに夏目雅子の墓もあって、墓地の隅っこに「夏目雅子さんのひまわり園」と称するひまわり畑もあった。
大楽寺の境内にある『足王権現大菩薩』。「足の悪い方はおまいり下さい」とあるけど、もう機械のカラダにしちゃったしねえ…。

素彦が建てた、望東尼の立派な墓。裏には素彦の撰文が刻まれている。
でも、あくまでよそ者扱い…。
楫取素彦(向かって右)と美和子(左)の墓ということになってるが、美和子の方は「楫取家之墓」ということでくくられちゃってます。

今のところ、杉文/楫取美和子については、萩より防府の方が力を入れてるような気がする。
まあ、萩時代は「松陰の妹で久坂玄瑞の嫁」というだけで特に記録も残ってない(というか記録されてもいない)し、防府時代の方が若干現代に近いからかな。
大河ドラマもおそらく『八重の桜』みたいな感じで、前半は文のことと言うより、吉田松陰の妹、久坂玄瑞の妻の目を通した松下村塾門下生(小田村伊之助、桂小五郎を含む)の維新の物語、って感じになるんではないでしょうか。
ちなみに吉田松陰が伊勢谷友介ってのは、『龍馬伝』の高杉晋作と思いっきりかぶっちゃうんですけど…。
あ、高杉晋作といえば、次は下関をまわってみなきゃいかんなあ。

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