桜が満開になる時期と日曜日が重なり、今年の花見は絶好調だ。
昨年は1週間以上も開花が遅れて、佐倉城址公園散策の日取りを決めるのに苦労し
ていた。今では、懐かしい思い出だ。
家から自転車で20分位のところに福星寺(ふくしょうじ)がある。その寺の境内で
”360余年前から咲いている”との由来がある桜が、写真の枝垂れ桜。
権僧郡宥照(ごんのそう・すゆうしょう)が元和(げんな)2年(1616年)に福星
寺を創設した時に、親寺である金光院(こんこういん)本堂の前にあった枝垂れ桜
から株分けした桜である、とも言い伝えられている。
御成街道(おなりかいどう)を四街道(よつかいどう)方面へ向かって北上すると
金光院から福星寺までは、歩いて半刻(はんとき・1時間)ぐらいで行ける。
大坂の役で豊臣一族を討伐しながら、安房の里見氏の動静を探る腹積もりから、家
康は鷹狩りを東金辺でやる意向を土井勝利に伝えた。佐倉城主だった利勝が主君の
鷹狩りをする道路に造成したのが御成街道で、その街道沿いに金光院がある。
そこから東金方向へ10分位歩くと、総勢100余人の鷹狩り一行が休憩・宿泊し
た「お茶屋御殿」の跡がある。
元和元年11月15日東金辺の鷹狩りをするため江戸城を発った家康は、16日金
光院へ立ち寄った。本堂前の枝垂れ桜を観て、家康は”珍しい桜だ”と讃え、しば
しの間桜の木に手をかけていた。それから、金光院の檀家の人達から「お手かけの
桜」と呼ばれるようになったが、今は観る事ができない。
本堂前にある枝垂れ桜は、お手かけの桜を伐採した後に植えたものです、と住職が
話してくれた。
金光院は正応(しょうおう)2年(1289:鎌倉時代)に創建しているが、天文(て
んぶん)20年(1551)に火災で喪失したので、20町歩の山林を原胤清(たねき
よ)から寄進を受け、現在地に移転し再建されている。
山林の伐採と整地に2年、建物の建立に10年と想定すると、現在ある金光院は文
禄(ぶんろく)6年(1563)足利義輝が将軍の安土桃山時代に完成している。
お手かけの桜は、再建された金光院の竣工記念に植樹された可能性は高く、家康が
鷹狩りの途中で観た時は、樹齢53年目を迎えていた。
これからの話も、独断と偏見で進めたい。
人生50年時代に、家康は天下統一を目指し、信長、秀吉と熾烈な戦を繰り広げ、
勝利者となった。家康が生まれたのは天文11年(1542)だから、金光院の枝垂れ
桜に出会ったのは73歳。晩秋も過ぎ冬支度をして春を待っている老木にお手かけ
をした真意を忖度できないだろうか?
徳川譜代の重臣大久保忠隣(ただちか)は、馬場八左衛門の進言、幕府に対する謀
反を密かに企んでいると訴えられて、家康に改易された。家康から信望が厚かった
忠隣を改易することで、本多正信らとの政権争いに決着をつける。
その8ヶ月後、忠隣と縁戚関係にあることを言い掛かりにして、里見一族を伯耆国
(ほうきのくに・鳥取県倉吉市)に国換えした。江戸のお膝元に刺さっていた棘の
始末もした。
徳川長期政権を確立する前に立ち塞さがっている障害が、忠隣と里見一族の存在だ
った。その邪魔者を追い払い、長期安定政権樹立への地固めを成し遂げた。
徳川300年の幕開けには、ふたつの犠牲は不可避だった、と心の葛藤を金光院本
堂の前に佇む老木に告白し、人間として肩にのしかかっていた重荷を降ろしたのだ
ろう。
「戦国の乱世を治めるために理不尽なことも数多くやってきたが、天下泰平の世に
向かう兆しが見え始めている。あと一押しではないか。この老桜は、来年54歳に
なっても、その次も、またその次の年も、春になると花を咲かせるのだ」
ホトギスが鳴くまで辛抱強く待って、勝機が訪れるのをじぃ~っと窺う家康が、天
下統一の夢を追い続け、一歩手前まで辿り着いた家康の生き様には、血生臭い戦の
臭いが染み付いている。でも、無言で春を待つ晩秋の枝垂れ桜には、それがない。
だから、家康は、金光院本堂前でじぃ~っと春を待つ老桜に”綺麗ごとだけでは天
下は治められない”と本音を告げて、挫けそうになる自分を奮い立たせていたのだ
ろう。
しかし、家康は、金光院でお手かけした老桜に出会った翌年、元和2年4月15日
74歳で他界し、久能山に葬られた。
もう解りましたね。郡宥照は、家康と福星寺との間に潜んでいる不可思議な縁起を
担いで、金光院の親桜から、私を株分けしたのです。
「福星寺のシダレザクラについて」
看板の説明書きを読んでいると、樹齢360有余年の老木は、親桜と縁の深い家康
との絆を嬉々路と語りかけてくる。
私の親桜は、お手かけした家康に、
「私は上総(かずさ)の片隅でひっそりと暮らしています。春になると私の姿を観
てみんなが喜んでくれるんです。それだけが生甲斐。毎年花を咲かせるのが楽し
いんです。
家康公さま、あなたは、去年1月7日に私と逢いましたが、忠隣と里見氏との処理
対策に頭がいっぱいで、心の余裕がありませんでした。だから、私に眼もくれず
お茶屋御殿へ急ぎましたネ。
今年は、大公さまにとってゲンの善い東金での鷹狩りを堪能して、江戸へ帰って
ください。冬来たりなば春遠からじです」
と、激励したんです。
「自分の信念に向かって老体に鞭打ち、懸命に働く家康公を最後まで見届けられた
こと、家康公がお手かけしてくれたことを誇りにして、私の親桜は、それを語り
継いできました。だから、福星寺に株分けされた私も、家康公との絆を語り継い
だ親桜の心意気を受け継ぎ、今も誇らしく語り伝えているのです」
私は、満開の花を観て歓喜する金光院の檀家人たちや、お手かけしてくれた親桜と
家康との良縁に支えられ、、福星寺で360有余年生きながらえてきました。
そして、これからも、ずう~と風雪に耐え、春になると家族や故郷の歴史の語リ部
として生き続けるんです。
「元気印さん、シニアの生活には、夢が溢れているんですよ」
淡い桃色の花に包み込まれて、春を謳歌している老枝垂れ桜に精気を貰ったエープ
リル・フールだった。
昨年は1週間以上も開花が遅れて、佐倉城址公園散策の日取りを決めるのに苦労し
ていた。今では、懐かしい思い出だ。
家から自転車で20分位のところに福星寺(ふくしょうじ)がある。その寺の境内で
”360余年前から咲いている”との由来がある桜が、写真の枝垂れ桜。
権僧郡宥照(ごんのそう・すゆうしょう)が元和(げんな)2年(1616年)に福星
寺を創設した時に、親寺である金光院(こんこういん)本堂の前にあった枝垂れ桜
から株分けした桜である、とも言い伝えられている。
御成街道(おなりかいどう)を四街道(よつかいどう)方面へ向かって北上すると
金光院から福星寺までは、歩いて半刻(はんとき・1時間)ぐらいで行ける。
大坂の役で豊臣一族を討伐しながら、安房の里見氏の動静を探る腹積もりから、家
康は鷹狩りを東金辺でやる意向を土井勝利に伝えた。佐倉城主だった利勝が主君の
鷹狩りをする道路に造成したのが御成街道で、その街道沿いに金光院がある。
そこから東金方向へ10分位歩くと、総勢100余人の鷹狩り一行が休憩・宿泊し
た「お茶屋御殿」の跡がある。
元和元年11月15日東金辺の鷹狩りをするため江戸城を発った家康は、16日金
光院へ立ち寄った。本堂前の枝垂れ桜を観て、家康は”珍しい桜だ”と讃え、しば
しの間桜の木に手をかけていた。それから、金光院の檀家の人達から「お手かけの
桜」と呼ばれるようになったが、今は観る事ができない。
本堂前にある枝垂れ桜は、お手かけの桜を伐採した後に植えたものです、と住職が
話してくれた。
金光院は正応(しょうおう)2年(1289:鎌倉時代)に創建しているが、天文(て
んぶん)20年(1551)に火災で喪失したので、20町歩の山林を原胤清(たねき
よ)から寄進を受け、現在地に移転し再建されている。
山林の伐採と整地に2年、建物の建立に10年と想定すると、現在ある金光院は文
禄(ぶんろく)6年(1563)足利義輝が将軍の安土桃山時代に完成している。
お手かけの桜は、再建された金光院の竣工記念に植樹された可能性は高く、家康が
鷹狩りの途中で観た時は、樹齢53年目を迎えていた。
これからの話も、独断と偏見で進めたい。
人生50年時代に、家康は天下統一を目指し、信長、秀吉と熾烈な戦を繰り広げ、
勝利者となった。家康が生まれたのは天文11年(1542)だから、金光院の枝垂れ
桜に出会ったのは73歳。晩秋も過ぎ冬支度をして春を待っている老木にお手かけ
をした真意を忖度できないだろうか?
徳川譜代の重臣大久保忠隣(ただちか)は、馬場八左衛門の進言、幕府に対する謀
反を密かに企んでいると訴えられて、家康に改易された。家康から信望が厚かった
忠隣を改易することで、本多正信らとの政権争いに決着をつける。
その8ヶ月後、忠隣と縁戚関係にあることを言い掛かりにして、里見一族を伯耆国
(ほうきのくに・鳥取県倉吉市)に国換えした。江戸のお膝元に刺さっていた棘の
始末もした。
徳川長期政権を確立する前に立ち塞さがっている障害が、忠隣と里見一族の存在だ
った。その邪魔者を追い払い、長期安定政権樹立への地固めを成し遂げた。
徳川300年の幕開けには、ふたつの犠牲は不可避だった、と心の葛藤を金光院本
堂の前に佇む老木に告白し、人間として肩にのしかかっていた重荷を降ろしたのだ
ろう。
「戦国の乱世を治めるために理不尽なことも数多くやってきたが、天下泰平の世に
向かう兆しが見え始めている。あと一押しではないか。この老桜は、来年54歳に
なっても、その次も、またその次の年も、春になると花を咲かせるのだ」
ホトギスが鳴くまで辛抱強く待って、勝機が訪れるのをじぃ~っと窺う家康が、天
下統一の夢を追い続け、一歩手前まで辿り着いた家康の生き様には、血生臭い戦の
臭いが染み付いている。でも、無言で春を待つ晩秋の枝垂れ桜には、それがない。
だから、家康は、金光院本堂前でじぃ~っと春を待つ老桜に”綺麗ごとだけでは天
下は治められない”と本音を告げて、挫けそうになる自分を奮い立たせていたのだ
ろう。
しかし、家康は、金光院でお手かけした老桜に出会った翌年、元和2年4月15日
74歳で他界し、久能山に葬られた。
もう解りましたね。郡宥照は、家康と福星寺との間に潜んでいる不可思議な縁起を
担いで、金光院の親桜から、私を株分けしたのです。
「福星寺のシダレザクラについて」
看板の説明書きを読んでいると、樹齢360有余年の老木は、親桜と縁の深い家康
との絆を嬉々路と語りかけてくる。
私の親桜は、お手かけした家康に、
「私は上総(かずさ)の片隅でひっそりと暮らしています。春になると私の姿を観
てみんなが喜んでくれるんです。それだけが生甲斐。毎年花を咲かせるのが楽し
いんです。
家康公さま、あなたは、去年1月7日に私と逢いましたが、忠隣と里見氏との処理
対策に頭がいっぱいで、心の余裕がありませんでした。だから、私に眼もくれず
お茶屋御殿へ急ぎましたネ。
今年は、大公さまにとってゲンの善い東金での鷹狩りを堪能して、江戸へ帰って
ください。冬来たりなば春遠からじです」
と、激励したんです。
「自分の信念に向かって老体に鞭打ち、懸命に働く家康公を最後まで見届けられた
こと、家康公がお手かけしてくれたことを誇りにして、私の親桜は、それを語り
継いできました。だから、福星寺に株分けされた私も、家康公との絆を語り継い
だ親桜の心意気を受け継ぎ、今も誇らしく語り伝えているのです」
私は、満開の花を観て歓喜する金光院の檀家人たちや、お手かけしてくれた親桜と
家康との良縁に支えられ、、福星寺で360有余年生きながらえてきました。
そして、これからも、ずう~と風雪に耐え、春になると家族や故郷の歴史の語リ部
として生き続けるんです。
「元気印さん、シニアの生活には、夢が溢れているんですよ」
淡い桃色の花に包み込まれて、春を謳歌している老枝垂れ桜に精気を貰ったエープ
リル・フールだった。