
仕事の関係で長野市方面へ取材に出向くことに。
目的の取材を終えた翌朝、信州善光寺で「お朝事」を参拝してから、御開帳の大回向柱を毎回奉納する松代町へ行こうと決めていたので、駅前でバスに乗る。
松代行バス路線の途中には、上杉謙信と武田信玄が一騎打ちをした川中島古戦場跡があるので、一時間ほど探索してから松代へ入ります。
松代町では、真田宝物館や関が原・大阪冬の陣で家康の心胆を寒からしめた真田幸村(ゆきむら・信繁)の出身藩・松代藩の居城であった松代城址などを巡って、千葉へ帰る途中諏訪大社に立ち寄ります。
長野から篠ノ井線で松本へ抜け茅野で一泊し、諏訪大社本宮・上社、下社へ参拝して下諏訪へ向かいます。諏訪大社上社・秋宮と下社・春宮を参拝する下諏訪へは列車に乗って・・・。
信州善光寺と諏訪大社との関係は説明を省きますが、かなり深い縁があるようですし、8月1日は、春宮の「お舟祭り」が行われるので、茅野で一泊すると参拝を兼ねた探索に好都合でした。
朝8時過ぎの春宮境内は、「お舟祭り」の準備を始める人達で埋まっています。
お祭りが始まるまで3時間以上の時間があると説明を受けたので、春宮周辺の見所を案内看板で当たってみます。
近くに「万治の石仏」が・・・。「まんじのいしぼとけ」って何だろう?
諏訪大社下社・春宮の西脇を流れている砥川(とがわ)対岸沿いに、岡本太郎画伯が絶賛した「万治の石仏」があります。石仏は、「いしぼとけ」ではなく、「せきぶつ」と読まれています。
ちなみに、前長野県知事・田中康夫の脱ダム宣言で中止になった「下諏訪ダム計画」の対象にされていた砥川は、下諏訪町西部を流れている、豊富な湧き水を誇る一級河川です。
春宮の旧参道から石仏へ行く砥川沿いの小道の入口には、岡本画伯の揮毫「万治の石仏」を中央に縦に彫った板状の石碑が設置されています(写真)。
いつものように、帰宅してからが一仕事です。
「万治の石仏」をキーワードにネットサーフインです。
下諏訪町ウエブサイトで生涯学習情報を見付けましたので、引用します。
『この地を東山田の小字石仏(こあざ・いしぼとけ)といい、延宝3(1675)年の地検帳や享保18(1733)年の『諏訪藩主手元絵図』には「えぼし石」と、下の原村の文化2(1805)年の「山の神講歳代記」には「みたらしの石仏」と記されている。
地域の人々は「あみだ様」と敬愛の念を込めて信仰継承してきたが、現在では「万治の石仏」が一般的な呼び名になっている』
「世界中歩いているが、こんな面白いものは見たことがない」
岡本画伯の絶賛に後押しされて世に出た「万治の石仏」。
下諏訪町は、地元で「あみだ様」として敬愛されている石仏を、町の文化財に指定するよう始動します。とはいっても、アメリカ大統領や日本国総理大臣がオリンピック開催招致のプレゼンテーションを行っても、IOC委員を納得させられなかったことが証明しているように、岡本画伯の賞賛だけを柱に申請しても、文科省は、「あみだ様」を町の文化財として認可しないでしょう。町のプレゼンの味付けは、次回に書きます。
ところで、万治の石仏がある場所は個人が所有していた田圃でしたが、何らかの理由で手放すことになり、今は国有地になっています。
下諏訪町は、公園として整備したのですが、綺麗に整備された人工的な公園のなかに鎮座する「万治の石仏」では、周りの風景から浮き上がってしまい、見学者などから不評をかい、元の田圃に戻しています。
田圃の中に鎮座する石仏に、岡本画伯は遭遇して驚嘆した、と思います。
しかも、石仏造りの常識を爆発した作仏をしています。
そうでなければ、揮毫する気持ちは起こらなかったでしょうし、揮毫した石碑の趣きとの調和が保てないでしょう。
目的の取材を終えた翌朝、信州善光寺で「お朝事」を参拝してから、御開帳の大回向柱を毎回奉納する松代町へ行こうと決めていたので、駅前でバスに乗る。
松代行バス路線の途中には、上杉謙信と武田信玄が一騎打ちをした川中島古戦場跡があるので、一時間ほど探索してから松代へ入ります。
松代町では、真田宝物館や関が原・大阪冬の陣で家康の心胆を寒からしめた真田幸村(ゆきむら・信繁)の出身藩・松代藩の居城であった松代城址などを巡って、千葉へ帰る途中諏訪大社に立ち寄ります。
長野から篠ノ井線で松本へ抜け茅野で一泊し、諏訪大社本宮・上社、下社へ参拝して下諏訪へ向かいます。諏訪大社上社・秋宮と下社・春宮を参拝する下諏訪へは列車に乗って・・・。
信州善光寺と諏訪大社との関係は説明を省きますが、かなり深い縁があるようですし、8月1日は、春宮の「お舟祭り」が行われるので、茅野で一泊すると参拝を兼ねた探索に好都合でした。
朝8時過ぎの春宮境内は、「お舟祭り」の準備を始める人達で埋まっています。
お祭りが始まるまで3時間以上の時間があると説明を受けたので、春宮周辺の見所を案内看板で当たってみます。
近くに「万治の石仏」が・・・。「まんじのいしぼとけ」って何だろう?
諏訪大社下社・春宮の西脇を流れている砥川(とがわ)対岸沿いに、岡本太郎画伯が絶賛した「万治の石仏」があります。石仏は、「いしぼとけ」ではなく、「せきぶつ」と読まれています。
ちなみに、前長野県知事・田中康夫の脱ダム宣言で中止になった「下諏訪ダム計画」の対象にされていた砥川は、下諏訪町西部を流れている、豊富な湧き水を誇る一級河川です。
春宮の旧参道から石仏へ行く砥川沿いの小道の入口には、岡本画伯の揮毫「万治の石仏」を中央に縦に彫った板状の石碑が設置されています(写真)。
いつものように、帰宅してからが一仕事です。
「万治の石仏」をキーワードにネットサーフインです。
下諏訪町ウエブサイトで生涯学習情報を見付けましたので、引用します。
『この地を東山田の小字石仏(こあざ・いしぼとけ)といい、延宝3(1675)年の地検帳や享保18(1733)年の『諏訪藩主手元絵図』には「えぼし石」と、下の原村の文化2(1805)年の「山の神講歳代記」には「みたらしの石仏」と記されている。
地域の人々は「あみだ様」と敬愛の念を込めて信仰継承してきたが、現在では「万治の石仏」が一般的な呼び名になっている』
「世界中歩いているが、こんな面白いものは見たことがない」
岡本画伯の絶賛に後押しされて世に出た「万治の石仏」。
下諏訪町は、地元で「あみだ様」として敬愛されている石仏を、町の文化財に指定するよう始動します。とはいっても、アメリカ大統領や日本国総理大臣がオリンピック開催招致のプレゼンテーションを行っても、IOC委員を納得させられなかったことが証明しているように、岡本画伯の賞賛だけを柱に申請しても、文科省は、「あみだ様」を町の文化財として認可しないでしょう。町のプレゼンの味付けは、次回に書きます。
ところで、万治の石仏がある場所は個人が所有していた田圃でしたが、何らかの理由で手放すことになり、今は国有地になっています。
下諏訪町は、公園として整備したのですが、綺麗に整備された人工的な公園のなかに鎮座する「万治の石仏」では、周りの風景から浮き上がってしまい、見学者などから不評をかい、元の田圃に戻しています。
田圃の中に鎮座する石仏に、岡本画伯は遭遇して驚嘆した、と思います。
しかも、石仏造りの常識を爆発した作仏をしています。
そうでなければ、揮毫する気持ちは起こらなかったでしょうし、揮毫した石碑の趣きとの調和が保てないでしょう。
個人的には「せきぶつ」より「いしぼとけ」の方が素朴な感じがしますが、ならわしですから其のまゝでかまいません。
大分県の磨崖仏も好いですょ。
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/509f3f2c16102b7c0ef8de8ac6728f7c