いきけんこう!

生き健康、意気兼行、粋健康、意気軒昂
などを当て字にしたいボケ封じ観音様と
元気印シニアとの対話。

千鳥足でつぶやく『 映画ばなし 』 その8:大滝 秀治の演技に涙した高倉 健

2012-10-27 14:56:23 | 映画
富山刑務所で定年を迎えた倉島 英二(高倉 健、以下、健さん)は、嘱託として木工専門の作業技官に雇用され3年目に入っていた。それまで地味だと信じてきた仕事を「あなたの転職ね」と自分のように喜び、刺激のない平凡な暮らしを「これこそが幸せ」といって微笑み、口下手という短所を「沈黙は金なのよ」と励ましてくれた愛妻・洋子(田中 裕子)との15年間の結婚生活は、洋子に取り付いた悪性リンパ腫に終止符を打たれてしまう。

癌による余命宣告をなされ、53歳を迎えた年に還らぬ人となった洋子は、自分の遺言をNPO法人遺言サポートに託していた。

それは2通の封書に入れられていた。
1通は、英二が受け取ったときに開封すること。洋子の遺言を英二に伝えた後、遺言サポートが投函するようにと言い残していた2通目は、長崎県平戸市鏡川町薄香(かがみがわちょう・うすか)郵便局留めになっている。

ハガキ大の1通目の遺言書には、中央下に描かれている燈台を雀が左上側から見下ろしている図柄で、右上には「あなへ」。
燈台と雀の間の余白に、

わたしの遺骨は、故郷の海にまいてください

と記されていた。

2通目の局留め封書は、英二自身が引取らねばならず、その保管期日は12日間。
それを過ぎた封書はNPOに返送され、焼却処分にする、と遺言サポートの担当者は英二に説明する。否応なく、富山から平戸までの1,200kmをドライブする羽目に追い込まれる英二。

木工が手職の英二は、癌と闘う洋子が元気になったら一緒にドライブすると約束していた。
改造途中のキャンピングカーを仕上げた英二は、洋子の骨壺を助手席に据え、平戸への一人旅が始まる。

飛騨高山、琵琶湖から竹田城址(朝来市・あさぎし)、広島を経て平戸市までの旅程で英二が出会う人たちは、「わけあり」を肩に背負った人物ばかり。

出家得度した俳人・種田 山頭火(たねだ・さんとうか)に心酔している杉野 輝夫(ビートたけし)とは、夕日が美しい琵琶湖畔のキャンピング場で「旅」と「放浪」の違いに話が弾み門司港で再会、北海道の駅弁「イカめし」の店頭販売をしている田宮 祐司(草薙 剛)と南原 慎一(佐藤 浩市)のイカめし作りの手伝いをする関りのなかから湧き出してくる心境の変化を噛締めながら英二は、目的地へひた走る。



さて、「あなたえ」のプログラムに高倉 健出演・全204作品が掲載されているので、205作品目が「あなたえ」になる。
この204作品リストを眺めていて、昭和31(1956)年、「電光空手打ち」で銀幕デビューしてから平成24(2012)年の「あなたへ」まで、健さんの俳優生活56年間を3っつの時期に分けてみた。

健さんが、1.俳優として修業する、2.スタートして主役を張る、3.独立して映画作りをする、3期に区切って整理してみます。

まず、俳優として修業する時期は、昭和31(1956)年から昭和38(1963)年までの7年間。
健さんが、東映第2期ニューフェイスとして東映に入社してから、「人生劇場 飛車角」へ出演するまでの期間に相当します。

この間に出演した映画作品は90作あり、主演したのは33本。年平均13作品に出演している割に主演本数は36%強です。デビュー2年間では出演21作品、主演11本の52%強あるから、快調に修業時代を滑り出している。毎月2本弱の映画に出演しているのが、この時期の特徴です。

それは、この時期に映画産業は、第二黄金期を迎えていたからです。
昭和33(1958)年に製作された映画作品は504本、入場者数は12億2,750万人と最高潮に達します。興行収入も同様で724億3,600百万円です。
ちなみに、昭和33年の入場料は平均64円、翌年の65円以降は、72円、85円と値上げされ4年後には115円という具合です。入場者減少による採算確保対策が値上げの原因でしょう。従って、年度別興行収入の比較はできないので、最盛期の興行収入のみ紹介します。。

映画産業の最盛期には、松竹、東宝、大映、東宝、日活の5社が、新作を毎週2作品、年間で50週公開し、日本映画の製作本数が年間500本を超え、各撮影所は活況を呈していた時期が、昭和31年から昭和36年です。

健さんが銀幕デビューした年の東映は、松竹を抜いて業界第1位の業績を挙げて、その4年後に製作本数シエア50%を目指し第2東映を立上げます。昭和29(1954)年度に東映が製作した103作品は、当時の世界一本数ですから、その勢いに乗っていたのです。つまり、健さんはその真只中で俳優修行をしていたんです。

余談です。
この時期に健さんが共演した東映のスターに片岡 千恵蔵と美空 ひばりがいます。
映画会社として後発になる東映の設立に関わり取締役に就任しても、「時代劇の東映」の屋台骨を支える重役スター千恵蔵とは「七つの顔を持つ男」シリーズなどで9作品共演しています。千恵蔵は、重役でありながらも年間10作品で主役を演じていたようで、駆出し中の健さんが13本撮っても当たり前だった。

一方、松竹で嵐 寛寿郎(以下、アラカン)の「鞍馬天狗」シリーズで杉作役などを含めた持ち役がありスターとしての地位を固めていたからでしょうか、自分のプロダクションを設立して、昭和33年に東映と専属契約を結んだ美空 ひばりの「べらんめえ芸者」シリーズなどで16作品に共演していますが、スターシステムで映画作りをする東映では、主役を演じる作品に恵まれない境遇が窺える健さんの修業時代です。

また、時代劇に飽きて入場者数が激減するこの時期、時代劇やギャング路線からの切り替えを東映は模索し出します。映画製作本数も昭和38(1963)年には357本、入場者数も5億1,100万人まで落ち込んでいたのです。第二黄金期を迎えていた映画産業も、昭和33年度末に200万弱台のテレビが倍々ゲームで普及し3年後に1千万台を超える普及率になる速度には勝てず、映画産業の衰退が既に始まっていた。

そこで、東映東京大泉撮影所長に就任した岡田 茂は一発勝負を賭けます。
これまでに青成 瓢吉を主人公にして何度も映画化され好評を博していた「人生劇場」を、ヤクザの飛車角を主人公に据えたそれの製作を強行したのです。

そうして、昭和38年に封切られた「人生劇場 飛車角」は、この年の6位にランクされる興行成績2億8,800万円も稼いだのです。
しかも、東宝から引き抜いて以来パッとしなかった鶴田 浩二を主役の飛車角に、修業時代とはいえデビュー7年目、齢31を迎える中堅どころになっても燻っていた健さんを、若い任侠・宮川役に抜擢しての大成功でした。

ちなみに、この年の興行収入のトップは、「天国と地獄」(東宝 監督:黒澤 明)で4億6,020万円、5位「宮本武蔵 般若坂の決闘」(東映 監督:内田 叶夢)が3億241万円、健さんが千恵蔵と共演した「裏切り者は地獄だぜ」(東映 監督:小沢 茂弘)は9位で2億7,912万円です。

この成功に手応えを感じた岡田 茂は、東映の映画製作路線を時代劇から任侠映画へシフトします。
東映仁侠映画路線のスタートとなる「日本任侠伝」シリーズ第1作の製作が開始されたのが、昭和39(1964)年。宮川役で注目を集めた健さんは、主役・辰巳の長吉を演じて、ここからスターの第一歩を踏み出します。これが、健さんの修業時代を昭和31年から38年にした根拠です。

ここから、健さんが東映のスターとして主役を張る時代の話です。
昭和39(1964)年、健さんが東映から独立する昭和50(1975)年迄が対象になります。
この11年間に93作品、出演作品は年間8本強に激減しているが、出演作品の63%強を主演作が占めている。この間に公開された任侠シリーズは、日本任侠客伝11作品、昭和残侠伝9作品、網走番外地18作品あり、主役を演じた任侠シリーズの成果が表れた時代なのです。

このブログを書いている最中に、面白いデータを見付けました。
「キネマ旬報ベスト・テン 85回全史 1924→2011」に、年度別興行収入ベスト10のランキングが掲載されています。

日本侠客伝( 2作品)  4億9,310万円
網走番外地(10作品)  22億6,765万円
昭和残侠伝( 1作品)  2億円

健さんが主演した上記任侠シリーズの稼ぎ頭は、「網走番外地」。
毎年併行して製作・公開されたこれらのシリーズで、網走番外地シリーズが18作品も撮られたことがこのデータから解った次第です。18作品中10本が興行収入ベストテンに入っているのは、それだけ観客に受けた証ですから。なお、1億円弱の興行収入があった任侠シリーズ作品もありますが、ランク外なので集計から除外しました。

ところで、網走番外地シリーズには、八人殺しの鬼寅という、強烈な印象を受ける脇役がいます。
映画の先達・日活時代から時代劇スターとして君臨したアラカン、極め付きの十八番「鞍馬天狗」と「右門捕物帳」を持っていたアラカンが、網走番外地の主役・橘 真一の脇を固めている。
この鬼寅は、映画史に残る名キャラクターとも言われており、番外地シリーズの高い興行収入をアラカンが稼ぐ要因になっていることは、否定できませんね。第1作をレンタルDVDで観て、昔取った杵柄に裏打ちされたアラカンの貫禄というか、スター・アラカンを彷彿とさせる、その存在感に圧倒されてしまった。
「男はつらいよ・寅次郎と殿様」(第19作:昭和55年公開)では、殿様役に出演しているので、お馴染みのフアンも多いことでしょう。

東映スターとしての地位を固めた当時の健さんとのインタビューが「日本映画俳優史 男優編」(猪俣勝人・田山力哉共著:現代教養文庫 初版第17刷)に掲載されているので、引用します。

「ぼくも前にはサラリーマンの役をやらされましたが、やはりピッタリしなかったような気がしますね。ああいう安定した会社員などより、ギリギリに追いつめられ、社会から外された人間のほうが似合うらしい。これはどういうわけですか・・・やっぱり「網走番外地」が成功したということですか。そういう点で、石井 輝男監督が今日のぼくを作ってくれたといえるかもしれない」(同書183頁)。石井 輝男は、新網走番外地シリーズを除く同シリーズの10作品を監督している。

こうして彼の役どころを見ればわかる通り、任侠路線時代の東映で、高倉 健は実にサマになるスターであった。それだけに仁侠映画がようやく観客に飽きられ、実録やくざの時代が来た時、東映のエースの座を菅原 文太にゆずり渡すことになり、彼はやや宙に浮く存在になったのである。(同上186頁)

最後は、このような状況にあった健さんが、東映から独立してから今日までになります。
東映から独立した昭和51(1976)年から平成24(2012)年までの36年間では22作品しか撮っておらず、年平均2本弱にしかならない。勿論、その全作品は健さんの主演映画です。

これまでの俳優生活56年間(昭和31年~平成24年)における年平均出演作品は、3.7本。決して少ない本数ではないでしょう。

「君よ憤怒の河を渉れ」(監督:佐藤 純弥)などで大いに頑張っているが、いまひとつ本領を発揮していない。この時期(昭和52年)に「八甲田山」(監督:森谷 司郎)に出演、山田 洋次監督の「幸福の黄色いハンカチ」に出演が決まるなど、大いに意欲的なところをみせているが、今が曲がり角にさしかかっているところだ。フアンとして健闘を祈りたい。
なお私生活では江利 チエミと離婚してから独身を続けている。ほとんど女性関係のゴシップなども出ないところは真面目というべきなのだろうか。(同上)

引用した男優編は、昭和52(1977)年11月15日に初版が刊行されているので、健さんの評価は同じ時期の状態と見て良い。

また、東映独立以降の健さんは、作品の内容、スタッフ、ギャラなど自分が本当に納得できる作品を選んで出演しているようです。

余計なテクニックを廃し、最小限の言葉で演じる人物の心に込み上げるその瞬間の心情を表す台詞、動きを表現する芝居を真骨頂とし、基本的に本番は1テイクしか撮らせないのは、

「より厳しい状況に身を置いて、役者としての自分を磨くこと」「映画はそのときによぎる本物の心情を表現するもの。同じ芝居を何度も演じることは僕にはできない」

とする健さんの役者哲学によるもの。

なにはともあれ、東映を独立してからの主演映画の成果は、既にご存知の方が沢山おられるはずです。
「八甲田山」の徳島大尉の演技で、ブルーリボン賞主演男優賞。「幸せの黄色いハンカチ」の島 勇作では、第1回日本アカデミー賞 最優秀男優賞を受賞、併せてブルーリボン賞主演男優賞に耀く。

これ以降も、「動乱」「遥かなる山の呼び声」「駅STATION」「あ・うん」、そして「四十七人の刺客」と「鉄道員(ぽっぽや)」で日本アカデミー賞 最優秀男優賞を受賞する。さらに「鉄道員(ぽっぽや)」では、ブルーリボン賞 主演男優賞を併せて受賞し、俳優・高倉 健としての名声は揺るぎないものになった。健さんは、映画専門(脚本と映画評論)家の期待に応えたのです。

話は「あなたへ」に戻します。
健さんの出演した映画リストを眺めたことで、千鳥足に運ばれっ放しになった話に迷い込み、やっとこさ、書きたいことを整理出来ました。長々の話にお付き合い下さり感謝感激です。

洋子の遺骨を海に撒く漁船を出す老漁師・大浦 吾郎(大滝 秀治)と英二とが船上で交わすシーンがあります。

『このあたりでよかろう。わしの家族も海の底で眠っている』と言って吾郎は船を止める。

『今日の海は、優しいかね。奥さんも喜んでおるじゃろ』

洋子の遺骨を海へ撒き終えた英二に、花束を差し出す吾朗。それを受け取り海へ落とす英二。

小説「あなたへ」では、この情景を次のように表現している。

「荒れた海に出漁した卓也の両親は7年前にここで遭難し、奈緒子の父(南原)も同じ年に遭難している。毎年、それぞれの親の命日になると、卓也と奈緒子はじっちゃん(吾郎)の船で沖へ出て、献花と合掌を繰り返している。二人にとって、この静かで美しい海は、漁場であると同時に墓場でもあった」(森沢明夫著:あなたへ 69ページ)。

洋子の遺骨を海へ撒く英二の姿に、この場所で毎年息子たちと家族を慰霊する老漁師・吾朗の心情が重なっていると感じます。吾郎のふた言の台詞と花束を英二に差し出す行為がそれを物語っている。

散骨を終えた漁船が薄香に帰港した際、英二が謝礼の入った封筒を吾郎に差し出す。

『卓也(三浦 貴大)、お前が貰っておけ』と甥っ子に指示する吾郎。

『こんなに綺麗な海は、久し振りじゃった』と、笑顔で英二に胸の内を打ち明ける吾郎。



この台詞を聴いて健さんは涙したと告白している。気が乗らないと台詞を言わない健さんには、この台詞の中に監督の想いもライターの想いも全部入っていることが解っていた。この台詞に込められた意味を監督に念を押していた大滝さんを見ていたので、久し振りに美しい海を見た、と吾郎が言った瞬間、英二は感に詰まったのです。

脇役がしっかりしている映画は締る、とは良く聞きます。
英二の散骨に協力する渋い吾郎を演じた大滝さんは、10月2日に他界してしまった。
鬼寅でスターの貫禄を振りまいたアラカン同様、渋くて人情味あふれる老漁師・吾郎を演じた大滝さんには、もう、レンタルDVDでしか逢えない。

「そんなガラガラ声は使わない」と劇団民芸の創立者・俳優・演出家の宇野 重吉 に言われた大滝さんは、その声を努力の末に味わいに変えた、と逝去を伝える新聞で読んだ。

東映のニューフェイスに合格はしたものの、健さんも同じような体験をしている。
映画デビュー前にニューフェイスたちは、俳優座研究所で6か月、さらにエキストラ出演などで6か月の修業期間を得なければならないのです。俳優座養成所に委託研究生として入所した健さんが自己紹介をした途端、

「小田君(健さんの本名)、挨拶はいいから、まずパントマイムをやってみなさい」

周囲がすべて壁で囲まれている場所で火災にあった男をパントマイムで表現するように指示が出されても、素人だから「すみません。できません」と正直にいった。

「小田くんは俳優を目指して稽古にきているのに、できませんとは何事かね」

と健さんだけ怒られたことを告白しています(文・構成:野地秩嘉 高倉健インタビュー)

大滝さん、健さんは俳優としてスタートする際、共に順調ではなかった。そんな二人が名優として俳優人生を生き抜いていることに、元気印は感嘆しています。

洋子が遺言に託した本心を英二が心底から理解する話で本稿を終りにします。

薄香郵便局留めの遺書に描かれていたのは、灯台を眼下にして大空に舞い上がる雀が描かれ、「さようなら」のメッセージを書き添えただけの絵手紙。

2通目の絵手紙に描かれた風景が見える丘に立った英二が、洋子が遺言として残した2通の絵手紙を空中に放り投げた英二は、「さようなら」に書き込めた洋子の心に触れて、愛妻の散骨に踏み切り、彼女亡き後の自らの人生を選択します。

映画は、自分の意思に従って人生を生き抜こうと歩みだした英二を追って、大円団へ向かいます。
薄香漁港で女手ひとつで食堂を切り盛りしている濱崎 多恵子(余 喜美子)と奈緒子(綾瀬 はるか)が過ごしている何の変哲もない日常生活との触れ合いから、下関港に南原を呼び出す英二は、これまでとは違った行動を起こします。

洋子に託された人生を生き抜こうと決断してからの英二の生き様の味付けは、吟味どころです!!
中華料理か日本料理、あるいはフランス料理かイタリア料理なのか・・・。映画を観てのお楽しみに残します。



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