豆の育種のマメな話

◇北海道と南米大陸に夢を描いた育種家の落穂ひろい「豆の話」
◇伊豆だより ◇恵庭散歩 ◇さすらい考
 

ハリス江戸出府の道程,「ヒュースケン日本日記」から

2012-10-09 09:35:37 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

下田の玉泉寺(柿崎)にアメリカ総領事館をおいたハリスは,日米修好通商条約を締結するため三度江戸に出ているが,陸路を辿ったのは初回(安政4107日~安政5122日)の往路のみである。帰路は病気のため幕府の軍艦観光丸で下田に戻っている。二回目(安政535日~58日)は幕府の軍艦観光丸を往復とも利用,三回目(安政5617日~624日)はポーハタン号(米国海軍の外輪フリーゲート艦,後に艦上で日米修好通商条約調印)を利用している。

艦なら12時間程度の航海であるが,陸路では1週間の道程。途中には,何しろ天城越えと箱根越えの難所が控えている。どんな道中だったのだろう? ヒュースケンの日記1)から,道程を辿ってみた。

 

そのコースは,玉泉寺(柿崎)~下田奉行所中村邸(下田市東中)~稲生沢川に沿って下田街道を上り~日枝神社で休憩~小鍋峠越え~慈眼院(河津町梨本)泊~天城峠越え~茶屋で休憩~弘道寺(湯ヶ島)泊~三島泊~箱根峠越え~茶屋で休憩~小田原泊~藤沢泊~万年屋(川崎)泊~皇城(江戸)である。詳細は添付「ハリス江戸出府の道程」に示した。

 

例えば,1日目の道程

1.玉泉寺を出たハリスらは,中村の下田奉行所(中村邸と呼ばれていた。御役所,白洲,官舎,稽古所などがあり9,792坪の広さがあったと言う)で隊列を整え(約350名),江戸に向け出立(この奉行所は現在の下田市東中14番地,下田警察署前に奉行所跡の碑がある)。

 

2.一行は,稲生沢川に沿って下田街道を北上する。街道の両側には小さな棚田が広がっていたことだろう,ヒュースケンは豊かな稲穂の稔に感嘆している。箕作の集落を過ぎるころ,ハリス一行が休憩した「日枝神社」がある。実は,この地域内のごく近い所(箕作,椎原,宇土金)に同名の「日枝神社」が祀られている。

 

3.更に,谷を分け入るように一行は進み,北の沢から小鍋峠を越える。河津町梨本の慈眼寺に到着するのが午後2時半。10km弱の道程である。日枝神社を過ぎてから梨本に至る地方は,稲生沢川の沿線に見られた豊沃な谷ではなく,土地は痩せ貧困,陰鬱かつ単調な景色であったと記されている。

 

ハリス江戸出府から100年後の頃,中学生であった私はこの辺を歩いていた。「日枝神社」と「北の沢」の間の国道を通学のため毎日往復し,下田で連合体育大会などの催しがあると「箕作」から「下田」まで全員が隊を組んで歩かされた。米山薬師,落合,松尾,お吉が淵,河内,蓮台寺口,高馬の反射炉跡,本郷・・・集落の佇まいが思い出される。稲穂が稔る穏やかな風景は当時も健全であった。

 

小鍋峠は,小学生時代の「河津七滝」までの遠足を思い起こさせた。当時の子供等にとって山歩きは苦にならなかったのだろう。その後,新道をバスが運行したため小鍋峠の古道は山に埋もれていたが,整備の動きもあると聞く。古道散策の愛好者も増えている。

 

既に半世紀以上が過ぎた平成24年,駕籠で行くハリスの隊列を想いながら私はこの道を辿った。歴史や文学に想いを馳せながら,あなたも下田街道を歩いてみませんか?

 

以下,詳細は原著に譲ることにするが,①田園風景(豊かな稲穂の稔り,天城のわさび等),②自然の美しさ称賛(富士山等),③日本文化への憧憬,西欧との比較考証(内戦でも田畑が荒廃しなかった,身分格差はあるが質素な着衣や住まい,社会秩序・・・),④幕府との交渉(条約締結に向けた幕府役人の強かさと戸惑い・・・)など,ヒュースケンの日記には興味深い内容が記されている。

 

日米交渉の立役者であったハリスについては,伝記や「ハリスの全日記」など多くの研究があるが,ヘンリー・ヒュースケン(Henry Heusken)の記録は少ない。オランダ生まれ,ハリスの通訳として応募し,優秀な秘書官として活躍したが,万延元年125日(1861115日)芝赤羽古川ばたで斬殺された。その日は,29歳の誕生日目前であったという。

 

当時,日本人に対して最も好意的であったと思われるヒュースケンが,攘夷の犠牲になったとは何と皮肉なことか。「ヒュースケン日本日記」は異国を訪れた若者の感性を感じることが出来て面白い。

 

参照:青木枝朗訳「ヒュースケン日本日記」岩波文庫,ほか

 

Img_3964web 

 

  ハリス江戸出府の道程(安政4107日~安政5121日)1)  
  年月日 道 程 記    事  
  安政4
(1857)
107
(1123)
玉泉寺(柿崎)
~慈眼院(梨本)
菊名仙之丞(下田奉行支配調役並)出立準備万端整う旨告げる,午前8時江戸に向け玉泉寺(柿崎)出発  
  中村の奉行邸(第三期奉行所,現在の下田市東中14,下田警察署前に下田奉行所跡の碑がある)で若菜三男三郎(下田副奉行支配組頭)の挨拶を受け出立(隊列は約350人),隊列の先頭は菊名仙之丞,殿に若菜三男三郎  
  稲生沢川に沿って進む,豊かな稲穂の稔りに感嘆する  
  日枝神社(現在国道に面しているのは箕作の日枝神社であるが,ごく近くの椎原,宇土金等にも日枝神社がある,何れか)で休憩(半時間,お茶と煙草)  
  約三千フイートの山(小鍋峠,北の沢から八木山を経て小鍋に抜ける)を越える,これまでの豊沃な谷間と異なり痩地にみえる,陰鬱かつ単調な風景,65フイートほどの見事な滝に慰められる  
  午後2時半梨本に着く(6マイルの行程),慈眼院(河津町梨本)に泊まる,菊名は「この地方貧困で人煙隔絶しているため良い旅館がない」と恐縮する  
  108
(1124)
慈眼院(梨本)
~弘道寺(湯ヶ島)
午前8時慈眼院を出発,天城越え,高さ約五千フイート,ほとんど垂直の崖に狭く鋭角的な路がついている,杉の木立が深くなった両側に「西洋わさび」「野生かぶら」が一面に生えている  
  山頂の茶屋で30分の休憩  
  山を下り1時間後茶屋にて昼食  
  田畑が開け,渓谷の向こうにみえる富士山の姿に感嘆する  
  湯ヶ島の天城山弘道寺(伊豆市湯ヶ島)に泊まる,6里の道程  
  109
(1125)
弘道寺(湯ヶ島)
~三島宿
朝,湯ヶ島出発,平坦な路になり馬を駈ける  
  修善寺(福地山修禅寺)で休む  
  三島宿に泊まる,三島神社を見に行く,ハリス神殿建築の寄付に応ずる(地震で倒壊)と神官が礼を述べに来る。キリスト教神父やアジア諸国僧侶の態度と比較して感想を述べている  
  1010
(1126)
三島宿
~小田原宿
朝,三島を出発,箱根の山を上る。この国は,内乱で国土が荒廃することなく,肥沃な田畑が軍馬に蹂躙されることなく,農家が放火されることもなかった,持ち前の礼儀正しさが残っていると印象を語る  
  四里ほど登って山頂に達し,半里下って箱根村に着く  
  村のはずれの関所を通る  
  9時ごろ小田原に着く  
  小田原泊  
  1011
(1127)
小田原宿
~藤沢宿
8時半,小田原を出発,道は手入れされて平坦,両側は水田が広がる  
  8里の旅をして藤沢に着く  
  藤沢泊  
  1012
(1128)
藤沢宿
~万年屋(川崎)
朝,藤沢山浄光寺を訪れ,その後出発  
  神奈川の茶店で休憩  
  夕方,川崎に着く,本陣での宿泊を望まず万年屋に泊まる  
  1013
(1129)
川崎滞在 安息日のため川崎に滞在  
  午後,川崎大師平間寺を訪ねる  
  1014
(1130)
万年屋(川崎)
~皇城(江戸)
早朝出発,関所を出ると小舟に乗って六郷川を渡る  
  梅園(北蒲田村梅林久三郎)で休憩,梅の塩漬などで接待される  
  品川の近くで刑場を通り過ぎる  
  品川で威儀を整え,駕籠で進む,品川から宿舎まで7マイルの道2)の両側は人垣で埋まっていた,群衆の秩序,寛大な友情,礼節をもった歓迎に感服する  
  宿舎は皇城の第三郭の中にあり,午後4時到着  
  1015日~
翌年
120
江戸 この間,大使歓迎会,将軍家定に謁見(1021日登城),宰相堀田備中守らとの会談,条約締結交渉を続ける  
  安政5
(1858)
121
(36)
江戸~下田 ハリス病気のため,午後2時観光丸(オランダで建造,わが国最初の洋式軍艦)で下田へ出発,翌朝2時下田に着く  
  1) 参照:青木枝朗訳「ヒュースケン日本日記」岩波文庫ほか,作表:土屋武彦2012.10
2)
品川から高輪通り,芝車町,同所田町,本芝町通り,金杉橋を渡り,芝浜松町,芝口通り,芝口橋を渡り,尾張町通り,京橋を渡り,南伝馬町通り,日本橋,室町,本町三丁目を左折,同町二丁目,お堀端通り,鎌倉河岸,三河町,小川町通り,牛ヶ淵の蕃書調所のコースと言う(同書注釈)
 
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 日露交渉の真っ最中,下田を... | トップ | 須原小学校(下田市),「長... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

伊豆だより<歴史を彩る人々>」カテゴリの最新記事