新専貨回想

平成の世を駈けたヤード系輸送の末裔

奇蹟の再会-後編-

2008-06-07 11:10:09 | 化成品タンク車

(前編から続く)
 それは、1996年夏のことでした。魚津から長岡まで北陸特急に乗車中、途中黒井駅を通過しようとしていた時、ヤードの彼方に一瞬見えたのでした。夕刻の逆光線下ではっきり見えなかったので、その時は見間違えかな?とも思いました。しかし心の奥底では奇跡を願っていました。。。

 後日、一つの情報が私の許に届きました。

 「北一産業のタキ85759と85760、神岡鉱業に転属」

そうです、生き延びることが出来たのです!あの日見たものは幻覚ではなかったのです! その後の春先、羽越本線の中条駅で、「神岡鉱山前駅臨時常備」と独特な書体で書かれた札も誇らしげに、冷たい雨の中佇むタキ85759と再会できたときは、正直嬉しかったです。神岡転属後は、吉原の岳南ヤードにも時折姿を見せてくれ、2003年に2輌揃って廃車となるまで、すっかりお馴染みになりました。

 冒頭の写真は2000年5月4日に神岡鉄道の終点、奥飛騨温泉口駅で撮影したものです。同鉄道は列車本数が何分にも少なく不便なので、列車利用で訪問した貨車ファンなら、神岡鉱山前で下車し、鉱業所を見て、そのまま猪谷へUターンしたくなるところですが、終点まで乗り通すと良いことありますよ。。。そう、かつて、ここから原木が無蓋車に積み込まれて、各地へ発送されていたであろう同駅の側線は、遊休タンク車の置き場となっており、バラエティ豊かな硫酸タンク車を良い条件で撮影できたのも懐かしい思い出です。


かつて原木を貨車に積み込んでいたであろう貨物ホームから。


シンプルだけど力強さすら感じる北一の社章


「汽車型軽量タンク車」の象徴、ハット断面の台枠中梁。


当日は僚車タキ85759の姿もあり、全2輌(!)揃っていました。


当日いた珍車その1、タキ6252。稀有なキセ付き濃硫酸専用車ですが、無水硫酸専用車時代に装備されていた、特徴的なドーム上プロテクタが専用種別変更後に撤去されたので、まるでタキ7750型カセイソーダ専用車みたいです。


当日いた珍車その2、タキ1337。当時は既にタキ300形式現存最若番でした。昭和31年日本車輌本店製造。
(写真は全て2000年5月4日 神岡鉄道奥飛騨温泉口駅で撮影)


奇蹟の再会-前編-

2008-06-01 23:38:13 | 化成品タンク車

 私有貨車に限らず、「撮り潰し」を実行された方なら必ず何度も経験しているであろうとは思いますが、目の前にいて撮りたいのに撮れない、というのは何度経験しても悔しいものであります。夜間のホームで乗り継ぎ列車を待っている時、目前を通過して行く貨物列車に未撮影の形式が入っていたり、ヤードで両サイドを他車に挟まれた所謂「ゼロ線空き」だったり、手前をコンクリの塀やトラックにブロックされていたり。。。

 そこで今回取り上げる北一産業運輸所有のタキ85790と60、同車は昭和45年に汽車会社東京支店で落成以来、長らく北海道内で運用されてきましたが、恐らく平成4年頃にはるばる大分県の幸崎に異動し、日鉱金属佐賀関製錬所で生産された濃硫酸を、山陰、山陽方面の需要家に輸送していました。同駅は古くより珍車や旧車の姥捨て山(失礼)として知られ、戦前製タキ300やタム400最終ロットの終焉の地でもありました。

 その「愛しの彼女」との出会いは1995年の暮れ、新南陽駅のヤードの真ん中でした。第一印象は、汽車独特の細身のドーム付きタンク体と、このタイプでは珍しい帯金の無い押さえ金式受台と相まって、大変スッキリしたフォルムに、シンプルだが力強いデザインの「北一」ロゴがとても格好良く映りました。一緒にいた日鉱商事のタキ14079共々、絶対撮りたい、しかし、両サイドをコキ5500とトラ45000にブロックされ、たとえ入構許可が得られて間近に寄れたとしても、まともな形式写真はとても撮れない状況、日程上時間も限られていたので、周囲の道路より望遠でロングショットしたのが、このお粗末な写真です。そんな彼女との再会を誓い、新南陽を後にし、次の目的地に向かいました。


一緒にいたタキ14079もご覧の通り

 

 今なら後日、都合を付けて飛行機なり新幹線なりを駆使して幸崎まで追い掛けるでしょうが、当時はまだ自分の自由になる金に乏しい学生、居住する関東から南九州は余りにも遠く、「青春18きっぷ」で行くにも非常に不便な場所で、とうとう1996年3月の幸崎駅貨物扱廃止の日まで行くことは叶いませんでした。タキ85759・60も当然、当時既に珍しかった、日鉱金属のタキ300などと一緒に南九州の地に消えたものとして諦めかけていました。

(後編に続く)