くない鑑

命を惜しむなっ!名こそ惜しめっ!!前へぇ、前へーーーぇっ!!!

一目あったその時から...

2009年12月27日 | 知識補給
出会いは先日。
場所は、丸の内のオアゾに在る丸善東京丸の内本店の3階。
一目見て、その「名」と「親」を知り、思わず触れてみてみると・・・思ったとおり!
実に素晴らしい!!
ただ、この日は一緒に帰ることをグッと我慢して、少し考えてから・・・と思い、元居た場所へ返そうとしたら、は、入れない?!
隣近所のやっかみか,元居た場所へ入ることが出来なかったので、これも運命か!?と得心して、一生涯、私の手元に置くこととしました。

藤田覚『田沼意次-御不審を蒙ること、身に覚なし-』
(ミネルヴァ書房,2007年)
を(笑)


田沼意次公は、私が大学在学中に研究していた御方で、その成果を卒業論文に書き上げました。
世上、とかく悪評高い意次公ですが、調べれば調べるほど、実に興味深くて面白く、我ながら、その評価を多少なりとも覆せたか?!と、思っていました。

それから、早10年...。
正直、この一冊がその時有れば、より深く、より充実した卒論が書けたのでは?!と思い巡らすほど、私の探究心を奮い起こさせ、初手から、もう、読み耽ってます。
ただ、あまりに充実した内容なので、1時間読み耽ったら、もう、知的満足度が一杯になります(笑)
ミネルヴァの日本評伝選の1つで、それほど肩肘張らずに読める本なのですが、如何せん、私が研究対象としていた御方の本なので、あれやこれやと考えながら読み耽っているので、他書以上のえねるぎーを要しているようです(^^ゞ
それこそ、自分が学生時代に書き上げた卒論が恥ずかしく、「これを読んで、もう一度書き上げたい!」と思うほど、今回、これを読んで知ることが多かったです。
恥ずかしながら(^^ゞ

意次公が政権与党であった時分は、利益追求型の政策が採られ、「山師」が跋扈した時代。
多くの興利策が勘定奉行所主導で検討し、実行されるも、計画が杜撰だったり、数値目標が大雑把だったりして、いずれも頓挫...。
やがては、これが、意次公失脚の要因ともなるのですが・・・なんだか、同じようなことをここ最近も聞いているような気がしてなりません。
空米切手=先物取引の横行と、それに伴う武家方財政の逼迫や、貸金会所や両替商などへの御用金負荷など、取り易い所からの徴税。
それに反発する当事者の、お上(要職)への運動=手入,口利きなどなど。。。
読めば読むほど、「これ、ホントに江戸中期の話?!」と疑ってしまうほどです。

やはり、歴史は繰り返されるということなんでしょうか(苦笑)

みなさんも、ご興味があれば手にとって、パラパラと読んでみてください。
面白いこと間違いなし!だと、思います(^^ゞ

余談ですが...
著者の藤田覚先生にお会いしたことはありませんが、卒論の史料面での「師」であり、直接の恩師よりもお世話になったお方。
その後も、私の琴線に触れる著書ばかりを上梓され、いずれも、買うか借りるかして読んでいます。
(『幕末の天皇』『遠山金四郎の時代』)
私に、かなりの知恵と勇気があったら、直接お教えを乞いたい・・・と、思います。

そういえば...
先日、意次公(隆興院殿様)が眠る巣鴨の勝林寺へ、初めて行って来ました。
都立染井霊園の一画に在るそこは、寺務所兼住宅と墓地しかなく、檀那以外は入ることが出来ませんでしたが、意次公の、一際大きく立派な墓碑は、路地から確認できました。
正面から見ることは出来ませんでしたが、側面には、命日の「天明8年7月24日」と刻まれていたので、それと確認できました。
世上では、賄賂塗れで悪の権化的な扱いを受けていますが、遺訓案などを読むに、およそそれとはかけ離れた、謹言実直な人柄が見られます。
しかし...
600石の旗本から、一気に100倍の城持大名に大出世をして、家臣に、そして、親族や与党に人を得なかったことが、返す返すも残念でなりません。
あっ、そうそう...
この近くの本妙寺には、天保期の町奉行・遠山左衛門尉景元公や、北辰一刀流の千葉周作成政などが眠っています。

p.s.
リンクを貼るのにミネルヴァのサイトを開けたら、皇學館大学岡野友彦先生が『北畠親房』を?!
よ、読みたい...。

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