田舎生活実践屋

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長網良明氏 こわい(畏)友(2010/3/3)

2010-03-03 00:25:58 | 先生・友人
ペンネーム、昔のメキシコのおやじさんから、コメントをいただき、忘れていた、こわい(畏)友人を思い出しました。この友人が亡くなった時の、追悼文(この友人と暮らした小さい学生寮の会報に寄稿したもの)、ご参考です。


長網良明兄を天に送る          昭和48年卒 竹田慶幸
 
 同志会で、昭和46年から48年まで一緒に生活した長網良明兄を、平成11年7月26日天国に送った。61歳だった。亡くなった原因は、脳溢血、前の日までお元気だったのが、次の朝洗面所で倒れているのを、仕事に出ないので心配して一人暮らしの兄のマンションに駆けつけた仕事仲間に発見された。兄も私も偶然に福岡県の北九州住まい、昭和55年兄が北九州市で弁護士を開業して以来、同志会時代と同じお互いに言いたいことを自由に言えるお付き合いを続けることが出来、「私は長網兄の多分4番めくらいの子分だ」と言っていたのが「子分だった」と過去形でしゃべらなくてはならなくなった。
 兄と同志会で信仰を供にし、遅くまで議論し、啓発しあった当時の同志会の友人達とともに兄の事を思い出し、兄がこの世で仕残したことを代りに果たしたいと思い、追悼の文を書くことにした。
 兄が同志会に入寮されたのは昭和46年の秋だったと思う。当時の同志会は定員18名のところに10名程しか寮生がおらず何度も募集をかけていたとき、長網兄が登戸学寮から移って来られた。入寮願書を見ると年齢は33歳とある。同志会の上の階に住んでおられた高瀬先生に相談すると、「君達と年齢が離れすぎてアイソレイトするかも知れない。登戸学寮の舎監の方に推薦書を書いてもらって、それから許可しなさい」とのご意見。登戸学寮の前野先生が推薦書を書いてくれたのを見ると、達筆で「長網兄は性、温にして重、貴会にとって必ずや無くてはならない人物となりましょう」と書かれていた。この手紙の一節は30年たった今も忘れない。
 入寮してからの兄の部屋はいつも誰かが上がり込んで、出がらしの紅茶をすすりながら、兄の豊富な知識に聞き惚れたり、お国自慢を聞いてもらったり、ワイワイと人の絶えることがないありさま。アイソレイトは杞憂であったとホッとした次第。長網兄は中学2年で結核のため入院。中学の卒業証書はお情けでもらったが、高校には行けなかった。10年で退院し、高校卒資格検定試験を受けて、東大を受験、3度目で合格、しかし入学時の身体検査でまだ完治してないと診断され、休学し2年入院という我々寮生には信じられない経歴の持ち主と判明。兄の部屋に居座る寮生は日に日に増えたのでありました。
 昭和47年の春休み、兄は中学の時中耳炎を患い聴力が落ちていたのを、東大病院で見てもらうと手術すれば進行を押さえることが出来る、と言われ入院・手術することとなった。郷里に帰る金惜しさに寮でゴロゴロしていた私と河野兄に付き添いのお鉢が回って来た。手術が成功裏に終わり、同志会の暇な面々が病室に集まって、ワイワイ駄弁っていて、長網兄のこれまでの手術の回数の話しになった。「結核で2回、盲腸で1回、中耳炎で2回etc.まあ、切られの与三郎よ」と兄が話すので皆笑った。兄はどんなに苦しくてもユーモアで苦しさを突き放す強さと巧みさがあった。
 兄は昭和51年同志会卒業となっているが、昭和51年、司法試験に落ちて、郷里の福岡県直方市に戻っている。私も北九州の会社のサラリーマンで、近くに長網兄が戻って来たので喜んで何度も直方のご自宅に遊びに行っては、兄の母上から腹一杯夕食をごちそうして頂いたものである。そのころ兄が言うには、「東大に行く時は病身でも東京に出れば何とか、自活出来る術を身に付けれると思って出た。しかしこうして職もなく郷里に戻ることになって、電車の窓から懐かしい福智山(北九州地方の名山)の山並みが見えた時、思わず涙がチョチョギレタ」とのこと。ここでも兄はユーモアの人であった。
 兄は父上を殊のほか慕い愛していたようである。同志会でのダベリングの時「兄弟3人で近くの町に父に連れられて出かけたことがあった。その時父が3人にアイスクリームを買ってくれた。あの時のおいしさは忘れられない」と話してくれた。兄が甘えるような気持ちを外に出したのは、私の記憶ではこれが最初で最後である。
 兄が弁護士を開業したのは北九州市であった。当初、どこかの大きい弁護士事務所の雇われ弁護士を考えていたのだが、たまたま私が日曜集会で毎週お邪魔していた山口伊左衛門先生の所に一緒に相談と挨拶に行った時、「最初から独立してやりなさい」と励まされ開業、しかし仕事が無く、電話とお客を待つ毎日。時々山口先生から仕事をまわしてもらって食い繋いでいると兄が話しておりました。山口先生は弁護を頼まれても報酬のことはとやかく言わず、出されたお金を黙って受け取る、欲のないお賽銭弁護士と言われていたそうだが、山口先生も兄の事を「僕とよく似ている」とよく私に話してくれていました。長網兄もお賽銭弁護士だったようです。
 葬儀が終わって一週間して、長網兄の兄上から、兄と親しくしていた方に集まってもらって偲ぶ会を持ちたいと案内があった。下関に住む、同じく同志会の岡崎新太郎兄と一緒に出かけて行った。税理士、司法書士、不動産鑑定士、中小企業経営者といった方が10人程集まって、長網兄を酒の肴に大いに食い・飲み・しゃべりました。弁護士は一人も来ていない。兄の地位・肩書きと無関係に誰とでも心底対等に付き合う人柄を改めて認識した。皆さん、「長網弁護士が、右と言えば確かに右に、左と言えば左に結果はそうなった。結論・本質を見抜く洞察力は誰にも真似出来ない。あんな弁護士はもういない。」「会社の顧問弁護士をお願いしていたが、代わりの務まる人はいない。もう顧問弁護士はおかない」「一人で亡くなっていたので直ぐ警察の検視があったが、担当官がああ惜しい人を亡くした、いい先生だった、と話していた」とのこと。同志会入寮の際、「性、温にして重、貴会にとって必ずや無くてはならない人物となりましょう」との前野先生の推薦の言葉の正しさを改めてかみしめて会場を後にした。
 長網兄亡き後、同志会精神を間近に感じさせてくれる唯ひとりの人になった下関在住の岡崎新太郎兄も私も、時がくれば天に召される。その時まで、回りの人から無くてならない人だと思ってもらえる人生を送りたいものである。

下は、昭和48年の早春、同志会近くの小石川植物園で。向かって右が長網氏35歳、左がtakeda23歳



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