「おまつり」ときくと、みんなは夜店が出ててわいわいいってにぎやかな様子を思い浮かべるのでしょう。
僕は小さなころから神社で生活しているから、「それは縁日の出店やん。」と思ってしまう。
お祭りと言えば神様が存在していて、神様を「奉る」「祀る」という感じで、わいわいの感じとは程遠いような感覚で育ってきたのです。
当然、昨日行った父の五十日祭も僕にとっては「おまつり」。父も神様になったんだなあって、昨日まではしのび手だった拍手も音を立てて拍手を打てるようになったことを少しだけ喜んだりもした。いなくなった悲しみがまだ十分に浸透していなくて複雑な思いもあったけれど。
七五三や地鎮祭もおまつり。
そう、神様がそこに存在して、何かを頼んだり、奉告したりすることすべてがおまつりなのです。
だから逆に言うと、「○○の夏祭り」ってよく地方公共団体が人集め、村おこしでするじゃん。何も祀ってもなく、崇めてもないのに。
あれをまつりと呼ぶことに抵抗があるのです。
「今日は、ここのまつりとは、何をおまつりしてあるのですか?」って、知ってて意地悪な質問をしてやろうとも思ったりするのです。
僕は小さなころから神社で生活しているから、「それは縁日の出店やん。」と思ってしまう。
お祭りと言えば神様が存在していて、神様を「奉る」「祀る」という感じで、わいわいの感じとは程遠いような感覚で育ってきたのです。
当然、昨日行った父の五十日祭も僕にとっては「おまつり」。父も神様になったんだなあって、昨日まではしのび手だった拍手も音を立てて拍手を打てるようになったことを少しだけ喜んだりもした。いなくなった悲しみがまだ十分に浸透していなくて複雑な思いもあったけれど。
七五三や地鎮祭もおまつり。
そう、神様がそこに存在して、何かを頼んだり、奉告したりすることすべてがおまつりなのです。
だから逆に言うと、「○○の夏祭り」ってよく地方公共団体が人集め、村おこしでするじゃん。何も祀ってもなく、崇めてもないのに。
あれをまつりと呼ぶことに抵抗があるのです。
「今日は、ここのまつりとは、何をおまつりしてあるのですか?」って、知ってて意地悪な質問をしてやろうとも思ったりするのです。