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アジア・アフリカの旅日記と、ネパールの孤児院(おしん)日記。現在は日本での日常生活を書いてます。

29-31

2004-08-31 17:14:22 | Oshin(孤児院)日記
 昨日NHKで台風の映像を見てびっくりした。今年はいろいろとすごいね。
バングラの洪水の情報を最初に流してからだいぶ時間が経ってしまいましたが、募金のお願いのページを紹介したいと思います。東京YMCAのページです。僕の元職場です。9月11日には渋谷で街頭募金もやるので、(詳細はこちらで)お時間がある人は是非参加してみてください。街頭で募金を呼びかけるのは、とてもよい経験になると思います。では、ここ数日分の日記、まとめてどうぞ。

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8月29日
 朝、タメルの街角でチャイを飲んでいると、突然大勢の男達が走ってきた。路上のサモサ売りやチャイ屋も、急いでガスバーナーやバケツを持って、横の小道に駆け込んだ。今日はバンダ(ゼネスト)である。ネパーリコングレス党などによるもので、反対派との衝突で負傷者も出たらしい。道の向こうから来たバイクは、その集団を見ると、急いで引き返していった。そのバイクに向かって、スピードを上げて走る男達。翌日のネットのニュースには20台もの車が壊されたと書いてあった。駆り出されたのか、集団の中には少年の姿も目につく。店もほとんで閉まっている。開けているのがストの集団に見つかれば、大変なことになるからだ。5月に来た時は、火(松明)を持って走る集団を見た。公共機関はストップしているし、リキシャもここぞとばかりにふかっけてくるので、歩いてOSHINに行った。午前中はCAFEでバングラに行ったことのある日本人2人と話し込み、さらにそれからOSHINのホームページの作業でネット屋に行ったので、OSHINに着くのがかなり遅くなってしまった。子どもたちは僕が来なくて泣いていたらしい。申し分けないことをした。


8月30日
 午前中にアティティツアーズという日本人向けの旅行会社に行った。ここには日本人サロンがあり、沢山の日本語書籍がある。本を2冊持っていくと、1冊と交換してくれるのだ。竜馬狙いで行ったのだが、面白い本を沢山発見してしまった。ここで本を読むことも出来るし、お茶も出してくれたりする。ここで知り合った女の子がOSHINに興味をもってくれて、今日早速一緒に行くことにした。チベット料理屋ギリンチェでトウクパを食べて、OSHINに向かう。


 最近は子どもたちから「何時にくるの?」と聞かれる。今日は2時に行くと答えていたのだが、アディティで沢山の日本人とあって話し込んでしまったりして、着くのがだいぶ遅れた。アティティでは協力隊員の人とも出会った。日本の旅行会社をやめて協力隊員になった人で、政府が主催するトレッキング会社同士の横のつながりの組織で仕事をしている。いかにして日本人客を獲得していくかという事業等に取り組んでいるとのこと。「観光」という分野での隊員募集もあるとは知らなかった。観光分野で隊員を募集している国は少ないらしい。


 OSHINに着いて、すぐに子どもたちと外に出る。今日は新たに新しい子どもが来ていた。名前はショビン。もう既にショビンという名前の子がいるので、他の子どもたちは「この子はショビン2だよ」と言っていた。あだ名を考えなくてはいけない。ショビン2が来て、こどもは7人になった。しかし今日話題になったのはショビン2ではなく、ショビン1であった。足をひねって歩けなくなってしまったのである。おぶってOSHINに帰り、クリニックに連れていった。ショビン1はいつも明るく素敵な少年だが、足をひねってからは一言も口を聞かなかった。目には涙を浮かべていた。


8月31日
 午前中はCPSへ。再度の料金交渉と具体的な子どもたちの入学日程を決めることが目的であった。料金はやはり50%までしか下がらなかった。しかし、他にコンタクトを取った学校は2人だけ無料とか、5人まで無料といった条件であったので、CPSは良い条件を出してくれているのである。実際、とても協力的である。子どもたちは次の日曜日にクラス決定の試験を受けることになった。ネパールでは年齢でクラスを決めることはない。飛び級もある。写真を沢山撮って帰る。帰りのバスの中で、ホームページの打ち合わせをした。

 これから昨日アディティで知り合った男の子をOSHINに連れていく約束をしている。最近OSHINに興味をもってくれる人が多く、いろんな人を連れていっている。


 いわゆる国際協力活動に関心がある人は多い。最近そういう人達と良い話を沢山しているので、どこかでまとめてシェアしたいと思う。





worship

2004-08-29 01:49:36 | Nepal 2
 朝からOSHINへ。先日もOSHINに来てくれたヨウヘイ君がまた来てくれた。彼はバイクで長旅をしている。今日は子どもが3人も泣いて(フリスビーが顔面に当たった、足をひねった、他の場所に行きたいとだだをこねて泣いた)、ちょっと大変だった。外に遊びに行ってぐったり疲れた後、教会へ。ヒマラヤホテルで月に1度の日本語での礼拝があるのだ。ヨウヘイ君がそこの牧師さんを知っていて、一緒に彼のバイクでヒマラヤホテルへ向かう。1泊100ドルもするホテルで、その奇麗さにびびる。部屋には冷房が入っていた。冷房にあたるなんていつぶりだろう?少し寒かった。


 今日のメッセンジャーはネパール人の牧師さんで、それに日本語の通訳がついた。久しぶりに日本語で賛美歌を歌えたので、嬉しかった。礼拝後、お茶会があり、全員簡単に自己紹介。JICAの医療関係で来ている人と知り合いになる。何かあったらいつでも連絡してくださいとのことで、心強かった。最近こちらで友達になった女の子がE型肝炎で帰国したり、腸チフスになった人から話を聞いたりしていたところだったのである。E型肝炎なんて僕は全然知識がなかった。その女の子とは病院にいく前日に一緒にご飯を食べていた。その時もかなり調子が悪そうだったけど、E型肝炎なんて誰も考えもしなかったのである。知らないということは恐いことだ。その他にも3年間JICAでネパールに滞在していた人や、NGO関係で来ている人とお話することができて、充実した時間だった。


 今日の礼拝メッセージには、ルカによる福音書6章38節が出てきた。
「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量り(はかり)をよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」
最後の一文「あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」には、いつもどきっとする。本当にその通りだと思う。


 海外に来て、生活が変わり、やることも変わり、日々の中でいろんな自分の一面を見る。「旅で自分の足りない面やいやな面をたくさん見るでしょう」と出発前に予言してくれた人がいるが、本当にその通りになっている。旅に出て自分や人生を考えるなんて人事のように思っていたが、思っていたよりもいろんなことを考えている。そんなことも気が向いたらそのうち綴ろうと思う。




days

2004-08-27 01:34:50 | Oshin(孤児院)日記
 孤児院からツーリストエリアのタメル地区に拠点を移した。ここから毎日孤児院に通っている。


 OSHINに行くには、タメルから23番のマイクロバスに乗る。マイクロバスといってもやって来るのはただのTOYTOTAのハイエースだったりする。しかしそのハイエースに20人もの人が乗るのだ(一時期毎回人数を数えていた)。チャイルドシート着用の日本とは大違いである。ひどい時はドアから3人くらい人がはみ出している。しかしはみ出している時はまだましで、一番悲惨なのはバンの中で立ち乗りしなくてはいけない時だ。立ち乗りといってもバンだから、腰をL字に曲げて乗るのである。これははっきりいって悲惨である。「早く誰か降りてくれー」と思いながら乗っている。はみ出し乗りは短時間なら爽快である。スケボーやスノボーをやっている時のように、体が横を向いている。これで風を受けて走るのは結構気持ちがいい。ただし長時間乗ると疲れる。


 同じ23番でも途中からルートがいくつかに分かれる。何回か乗ってやっと気が付いた。僕はこの23番のマイクロバスが何故か好きなのである。窮屈だからみんな譲りあって上手に乗る。そこでコミュニケーションがあるのが面白いのだと思う。体は密着している。乗っている人全員の顔が見える。その距離感がいい。生活の匂いがする。「ダイ!(お兄ちゃん!)」と声を掛けて、お金を払う。


 20分ほどバスに乗る。バスを降りて、OSHINへの道を歩く。マナマイジュというエリアなのだが、この辺までくると、カトマンズ中心部と違って、雰囲気が落ち着いていている。細い道を抜け、川を渡り、田んぼを見ながら歩く。この道が好きだ。


 OSHINが見える。たいてい窓から誰かが覗いていて、手を振ってくれる。子ども達はよく窓の外を見ている。「ナマステ!」「ナマステ、サー!(最近はサーとも呼ばれる)」。誰かが外に行こうと言い出す。ペットボトルに水を入れて、フリスビーをもって外に出る。スニタやディペンドラが手をつないでくる。手を握って歩く。今日は岩や石を切り出している工事現場に行って、ちょっとした崖を登った。高いところからカトマンズが見渡せて、景色は最高だ。


 夕方、院に戻ると勉強をする。机がないので、床にノートをひろげる。ある程度できると僕に見せに来る。良く出来ていれば「ラムロ(=good)」と言って、ノートを返す。間違っていたら直してあげる。プロシャットウさんの娘息子たちも、ここで一緒に宿題をやっている。

 
 7時頃、プロシャットウさんの奥さんが呼びに来て、ご飯を食べる。3Fのキッチンの中にゴザを敷いて食べる。僕も子ども達と同じように手で食べる。食べ終わるとお皿を流しに持っていき、歯を磨く。8時半頃が終バス(時刻表はない)なので、僕はここらで院を出る。夜の風が気持ちいい。夜は近くまで来ているバスがないので、リングロードという環状ロードまで歩き、そこからバスに乗る。タメルに着くと、ネットカフェに寄ったり、朝ご飯の買い物(夜になると半額になるベーカリーでパンを買う)をしたりして、ホテルに戻る。フロントでスタッフの人と話す時もある。今の部屋はテレビがないので、本を読んだり、ダウンロードしておいたHPをパソコンで読んだり、この日記を書いたりする。テラスや屋上から夜のタメルを眺める時もある。


 大体こんな一日を送っています。もう完全に生活です。


Sweet Child O' Mine

2004-08-24 14:21:18 | Oshin(孤児院)日記
 昨日はずっと食べたかった酢のものを食べた。感動した。自分には「酢」が必要だったのだと分かった。
日本食万歳!ついでにNHK国際放送万歳!(NHK,見れるんです)

(写真はこの間と同じものですが、子どもの紹介。左からシャガル・赤いペコちゃんシャツはプロシャットウさんの息子・シャビン・ギター持っているのはプロシャットウさんの息子・スニタ・ラム・ショビナ)
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 子ども達同士はとても仲が良いと言うわけではないが、決して悪くはなく、一緒に遊んでいる。女の子が2人しかいなくて、年が少し離れているので、ちょっとかわいそうに思う時がある。上のショビナ(9才)は、みんながボール遊びをしていても、ほとんど参加しない。ハウスオーナーの娘アシュミタ(10才)が帰ってきて、一緒に遊んでくれると嬉しそうだ。ショビナは普段は割とおとなしいが、言うことははっきり言う。


 下の女の子スニタ(多分5or6才)は男の子に混じって仲良く遊んでいる。スニタはアルファベットが言えるし(発音はかなり怪しいが)、なんとか読める。楽しそうに読んでいる。字が読めるのが嬉しいのだろう。CPSに通うことになると、授業で英語を使うので、なるべく僕も英語を教えながら話す。以前も書いたが、この国で英語が使えるというのは、僕たちが考える以上に意味があり、大事なことなのである。それだけ仕事口が増えるのだから。英語熱はかなり熱い(これについてはいろいろ議論も必要なように思うが)。ちなみに日本語熱も結構熱い。ハウスオーナーの子どもたちアシュミタ・サンディップ(13)とは、かなり英語で意志疎通ができる。日本のこどもは、文や単語は読めるが、しゃべることは苦手だ。この違いにびっくりする。OSHINの子ども達も、いつの日か英語を自由に操るようになるのだろう。


 男の子はやっぱりわんぱくだ。女の子もだが、物怖じする子はいない。ネパールの子は、日本の子よりも芯が強いように思う。一番上はショビン(9)。彼は頭がいい。僕の言おうとしていることや、やろうとしていることを理解しようとしてくれる。一番初めに自主的に掃除を始めたのも彼だ。その後にラム(8か9)、シャガル(8)、ディペンドラ(6)と続く。ラムは頭がいい。でもシャガルと共にやんちゃ坊主だ。くすぐりにとても弱い。シャガルはショビナの弟である。今日は外に遊びに行った時に、一人で勝手に帰ろうとして僕に厳しく怒られ(言葉が出来ないので、真剣さを表すために強い調子になってしまう)、しょげていた。ディペンドラは遅れて先日来た子である。他の子に比べてまだ分別がつかないので、調子にのって悪いことをして、他の子に叩かれている。叩くことも含め、子ども達の人間関係やネパールの教育については、もっと子ども達を観察したり、大人達にインタビューをして、別の機会に書こうと思う。


 子ども同士は良い友になって欲しいが、やはりその前にこの子達は家族なのだと僕は思う。帰るところは親戚の家か(親戚もいない子もいる)、ここなのである。僕たちはこの子達が大きくなった時に、新しく入ってくる子達の面倒を良く見てくれることを期待している。子ども達はある一定の年齢(まだ確定はしていない)になったら、孤児院を出なくてはならないが、子ども達の世話してくれる子を、本人が希望すれば孤児院に残そうと考えている。今は一緒に住んでいるアシュミタやサンディップがその役割を果たしてくれている。


 僕は「TAKASHI‐SAN」と呼ばれている。初めは「TAKASHI」だったのに、誰が教えたのか、いつのまにかそうなってしまった。みんなよくなついてくれてかわいい。この間はみんなでダンスパーティをやった。といってもみんな好き勝手に自分の踊りたい踊りを踊るだけだ。僕もメチャクチャな踊りを踊った。とても楽しかった。子ども達は歌うのも踊るのも大好きである。暇になるとやっている。


 夜、子ども達が寝静まると、大人達で話をする。今の一番の課題はお金だ。CPSが無料で生徒を受け入れてくれることを計算してスタートしてしまったので、今になって頭を痛めている。プロシャットウさんが今日もう1度学校に交渉に行ったが、結果は芳しくなかった。粘り強く交渉を続ける予定である。とにもかくにも来週から学校に行けるのは喜ばしいことだ。学期の途中だし、うまく溶け込めるか不安はあるが・・。







Great Adventure Family

2004-08-24 00:26:54 | Oshin(孤児院)日記
 あんまり子ども達の様子を書いていないので、今日は子どもの生活の様子を書こうと思う。学校が始まってからスケジュールを固定する予定なので、今は日々のスケジュールがきちんと固定されていない。

6:30頃 起床
7:30頃 朝食(チヤ<ミルクティ>にトーストやクッキーを浸して食べる)
10:00頃 昼食 ダルバート キッチンの中にござを引いて食べる。食べる時だけはみんな静かである。「いだたきます」「ごちそうさま」などはない。食べ終わった子からお皿を流しに持っていく。
16:00頃 おやつ(クッキー、バナナ、など)
19:30頃 夕食 ダルバート。正直に書くと、LFNと違ってバリエーションもあり、おいしい。夕食後はもちろん歯磨き。
21:30頃 就寝


 合間の時間はほとんどフリータイムである。が、勉強の時間もある。先生役は、OSHINのスタッフがやったり、プロシャットウさんの娘シタがやったりと、そこにその日にいる人がやるという感じだ。僕も教えるが、ネパール語が分からないので、教えるのもちょっと苦戦する。アルファベットはみんな大体読めるが、発音はあまりよくない。書くのは大きな子はほとんど完璧にできる。小さな子は、まだこちらが読めないような字を書いたり、大文字と小文字を混同したりする。出来た子には赤クレヨンで○をつけてあげた。ネパールでは2重丸や5重丸や花○は(みんなの学校ではあったよね?)ないらしい。○か、very goodのサイン(ιみたいな印)をつけるのだそうだ。英単語も意外と知っていた。買ってきたアルファベット表はAならappleとリンゴの絵が書いてあるので、「A! apple!」とみんなで発音して、書き取った。


 数字も、たまに間違いがあるが、みんな100までの数字を書くことが出来た。数を英語で読むのはちょっと苦手な子がいた。発音はやっぱりあまり良くない。みんなノートや鉛筆を買ってもらって嬉しそうだ。暇な時間に自分でアルファベットを書いたりしている。昨日、CPSへの入学許可が出た。ただし、料金についてはまだ交渉が続いている。子ども達は来週から学校に通うことになった。嬉しいニュースだ。


 子ども達は毎日元気よく遊んでいる。年上の言うことを聞く社会になっている。お互いに結構強く叩きあっているが、それで大人に苦情を行ってくる子どもはいない。そんなものなのだ。それでも余りにもひどい場合には注意する。当初はルールがなかったので、子ども達は部屋を汚しても、掃除をしなかった。汚したら自分で掃除をしなさいと言った。「クレヨンを使い終わったら箱に戻す」「物はみんなで順番に使う(年上の子どもが独占しようとする/この習慣はなかなか身に付かない)」「ゴミがでたらゴミ箱に捨てる」など、いろいろとルールを教えていく。僕のネパール語の語彙はほとんどないので、会話集とジェスチャーが頼りである。子どもたちはがんがんネパール語で話しかけてくるが、適当に相づちをうっている。大体が話を聞いて欲しいか、「これやっていい?」など、僕の確認を取りたい時である。本当に僕の答えが欲しい時は彼らもなんとか意志疎通を計ろうとするので、とりあえず普段はこれでいいのである。


 部屋の中で遊ぶことがほとんどなので、それがかわいそうだ。スタッフはハウスオーナーの夫妻も、プロシャットウさんの奥さんも、年がいっているからか、もしくはそんなものだと思っているのか、外には連れていかない(たまにTVは見せるが)。僕が毎日近くの空き地に連れていく。RCDPという組織があって、そこから外国人のボランティアを派遣してもらうことになった。ボランティア希望の若者をネパール国内で斡旋する組織である。ボランティアはRCDPに手数料や食事代、宿泊代などを含めた料金を支払う。RCDPからは食事代、宿泊代として、月4000ルピー(約6400円)がOSHINに支払われる。OSHINでは、英語をきちんと話せる人を頼んだとのこと。


 (長くなってしまったので、明日に続く)

If it makes you happy

2004-08-21 19:15:06 | Oshin(孤児院)日記
 オリンピック、日本のメダルラッシュはすごいね!僕は映像を見ていないので、ちょっと悔しいけれど、新聞などで見ています。みんなも元気でるんじゃないかな。

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 子どもたちは学校にまだ行けないので、毎日時間がある(暇である)。スタッフで話し合って、OSHINの中で簡単な英語やネパール語、算数を教えることになった。僕も教えるので、壁に張る大きなアルファベットポスターや数字の数え方のポスターを買いに出かけた。子どもたちは英語はできないし、ネパール語も会話だかけで読み書きは出来ない。学校に入学するにしても今は年度の途中なので、事前にある程度のことは教えておかなくてはいけないのだ。僕もいよいよ先生デビューである。


 昨日はみんなで初めて外にでかけた。といっても院から歩いて5分の川原である。ハウスオーナーの息子娘たちも付き合ってくれて、外に出す子ども達を整列させたりしてくれた。川原は水溜りだらけで、すぐにどろどろになったが、サッカーやフリスビーをして楽しく遊んだ。やっぱり子どもは外で遊ばせたい。


 ネパールに来て1ヶ月。意外な展開に、振り返ると自分でも驚きだ。怪しげなネパール語でも駆使せざるを得ない毎日に、すっかり旅気分は抜けている。日本との生活習慣の違いに戸惑うことも多々。これから先はどうなっていくのかな?なんて考えた今日でありました。


☆最近よく使うネパール語;プギョ(お腹いっぱいです)

 解説-孤児院で毎日食べるダルバートセット(ネパールの代表的な食べ物)。プロシャットウさんの奥さんは僕に沢山食べさせようとするので、この単語が必要なのです。必須単語。「タカシィ、カリー?ダル?」「プギョ。プギョ。」


 皆様もお元気で。


 

CPSへ

2004-08-19 22:44:35 | Oshin(孤児院)日記
 昨日はかなり驚いたことがあった。大学時代のテニスサークル”FELIX”の友人と再会!いや、本当にびっくりした。カトマンズで会うなんて。一緒にいた日本人の人達とも仲良くなって、みんな後日孤児院に遊びに来ることになった。嬉しい展開だ。旅っていろいろあるものだ。

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 朝からアチュートさん、プルソットムさんとCPS(Children's Paradise School)へ向かう。この2人は本当に最近激務である。アチュートさんは本業の旅行業も忙しい。オフィスの移転、そしてトレッキング業の免許の申請と大変だ。その合間にライオンズクラブ・LFN(LFNの委員をやっている)・旅行業組合のミーティングにも参加している。プルソットムさんもLFNの仕事とOSHINを兼業でやっている。安い机や椅子を探しにいったり、ガスコンロを無料でゆずってもらうように交渉したり、寄付をお願いしにいったりと大忙しだった。こういったことに協力的な人は多いそうで、ガスコンロも1台無料で、もう1台も破格でゆずってもらうことができた。


 CPSのボスは、OSHINの活動にとても好意的だったが、既にLFNの生徒達を無料で沢山受け入れているので、全員無料でというわけにはいかなかった。例えば12人の受入をするのなら、6人分の学費は出してくれといった案を出してきた。今OSHINは5人の子どもしかいないが、最終的には少なくとも35名くらいまで子どもを増やす計画がある。そうなると新たなスクールバス(院から学校まで1時間弱くらいかかる)、机や椅子などの学校の設備費用の問題も出てくる。CPSとLFNとの契約も未来永劫続くものではない。もちろんスポンサーを探す努力をしなくてはいけない。ただ、LFNは大きなスポンサーが既にいるので、無料の子ども枠を少しゆずってもらうなど、LFN側とも少し交渉をしていくような展開になりそうだ。少し時間がかかりそうである。


 午後はビザの延長申請にイミグレーションに行った。ネパールの滞在ももう1ヶ月になる。インドから来たときの国境もそうだったが、ネパールのイミグレは愛想がいい。その後フリークストリートのスノーマンカフェでクリームキャラメルを食べる。絶品。


 明日もう一人新しい子が来るそうだ。わくわく。


それでは、また。

P.s  古本屋で「竜馬がゆく(四)」を買ってしまい、久しぶりにはまった。読むのは何度目だろう。竜馬は4巻の時点で29歳だ。続きが読みたいけれど売ってない。困った。

OPEN!

2004-08-19 00:24:04 | Oshin(孤児院)日記
 OSHINオープンしました!!!パチパチパチ。


 と、一人で興奮しているが、やってきた子どもたちを見ていると、本当に感無量であった。プロシャントウさんと一緒に、元気に遊んでいる子どもたちを眺めていたら、胸が一杯になった。嬉しかった。始まったのだ。


 子どもは5人やってきた。男の子3人、女の子2人。みんな元気いっぱいだった。でも僕が来る前はみんな結構泣いていたようだ。マウイストに親を殺された子、洪水で親を失った子・・・。みんな本当に親がいない子ども達なのだ。でもびっくりするくらい元気一杯。かわいい!


 細かいプロフィールは後でもらうことになっているが、こんな子たちである。

シャビン(男の子 9歳)
シャビナ(女の子 10歳)
ラム(男の子 10歳)
シャガル(男の子 8歳)
シュニタ(女の子 9歳)

 年齢は自称で、実際は2-3歳くらい低いと思う。


 さっそく名前を聞く。聞いて同じように発音してみるが、やっぱり間違っているらしく、僕が発音するたびにみんな大笑い。何やっても大笑い。ま、とりあえず順調なスタート。その日は夕食を食べて寝た。


 次の日、まだ学校が決まっていないので、みんな朝からフリータイムである。子どもは放っておいても遊ぶ。かまってもらえれば大喜び。子どもの世話をする女性は、昨日面接をするはずだったのだが、体調不良で延期となった。実際に子ども達を見てもらって決めるのだそうだ。食事はとりあえずLFNのプロシャントウさんの奥さんが作っている。子ども達が喧嘩を始めた時に飛んで行くのもこの人だ。子どもを叱る時は結構叩いている。子ども達同士も結構手を出す。特に年上から年下へ。僕がおもちゃなどを出した時に、最初に手にするのは年上の男の子である。さらに年上の大人の男性がくると、その人に手渡さざるを得ない。余談だが、先日は町中で女の人同士が叩きあっているのを見た。すさまじかった。


 基本的にこどもだけの外出は禁止されている。今日は近くの空き地に連れていってあげようと思ったが、雨が降っていたのでおとなしく室内で遊ぶ。庭などもないので、ちょっとかわいそうな気もする。ギターを持ってきているだが、男の子はギターが大好きで、暇になると「ギター貸して!」と言ってくる。紙風船は1時間で壊れた。ま、そんなもんだ。


 ハウスオーナーの一家も結局ここに住むことになった。増築した3階部分を一家4人で使っている。ここの子ども達2人も一緒に遊ぶので、結構賑やかである。この2人は学校に通っていて、英語が多少できるので助かる。5人は英語はほとんど出来ないので(ネパール語の読み書きも出来ない)、僕も頑張ってネパール語で会話せざるを得ない。プロシャントウさんの奥さんもハウスオーナーのご夫婦も英語はほとんどできないので、昼間はネパール語で頑張るしかないのだ。会話集が大活躍。


 ずっと一緒にいると疲れてしまうので、適当に部屋に戻って休みながら子どもと遊ぶ。でも暇だからだんだん大人も子どもも集まってきてしまう。時間がゆっくりと流れていく。


 OSHINのミーティングでは、特に教育方針のようなものは熱心に話されなかった。女性がまずは住むところがあって、食べ物がある。とにかく子ども達が愛を受けて育つことだと思う。しばらく滞在するつもりなので、日本の子どもとの違いなどをじっくり見るつもりだ。基本的な方針は以下の通り。

1.本当の孤児であること(親がいる子どもを通わせてい孤児院が沢山ある)
2.私立の学校に通わせる(公立の学校の水準がとても低いため)
3.女性のスタッフが子どもの面倒を見る


書きたいことはたくさんあるけれど、また今度。明日はCPSというLFNの子どもたちが通っている学校に行きます。OSHINの子どもたちを受け入れてもらうための相談のためです。

それでは、また。

いよいよ!

2004-08-16 01:29:24 | Oshin(孤児院)日記
 いよいよOSHINの開院があさってに迫った。暫定の事務所代わりとなっているSea & Sky Travelの事務所に行く。レターヘッドが1000部納品されていた。レターヘッドなのに、総主事を始め、関係者の名前が入っていて、僕の名前も入っている。


 OSHINの正式名称は Oshin Child Development Center Nepal (OCDC Nepal)と言う。OSHINのネーミングの由来は、ネパール語のoshin(=pure)という単語から来ている。 Sea & Sky Travelのマネージング・ディレクターであり、OSHINの会長を務めるAchyutさんが考えた。10年前にネパール国営放送で放映されたあの「おしん」のことも覚えていて、これでばっちりだと思ったそうだ。僕は今まで「おしん」と書いていたが、ここからは「OSHIN」と記すことにする。


 しかし、まだまだやることは沢山ある。明日は朝から長いミーティングがある。実はまだ女性のスタッフが確定していないのだ。明日候補者の中から絞り込む作業を行う。その他、運営方針についての細かい詰めや規則の決定、候補にあがっている子どもの選定、こどもの病気や怪我などの緊急時の体制についても話し合う。


 Oさんの知り合いで、こちらで裁縫指導をしている日本人の方が子どもを2人推薦したいとのことで、僕がその方に電話を掛け、子どもの情報を詳しく聞いた。この子どもたちを迎えいれるかどうかも、明日のミーティングで話し合うことになっている。政府の機関誌に、こういった子どもの情報が載っていると言う話を聞いた。こういった子どもたちを引き受ける場合、その子どもに親や親戚がいる場合はその人、警官、そしてOSHINの三者で契約書を交わす。 契約には、どこの段階まで学校に通わせるか(例:高校卒業後に大学に行くか、働くか)をいったところまで盛り込まれる場合もある。OSHINに入る子どもたちは2ー8才なので、ここまで細かい契約は取り交わさない。


 新しくメンバーに加わってくれそうな眼科医がいるそうだ。眼の病気はネパールでは結構深刻なようだ。発展途上国と言われる国では、栄養部足のため眼の病気が多い。白内障も若いうちから多く見られるようだ。そこで様々なNGOが「アイ・キャンプ」という眼の治療のためのキャンプを開く(ネパールのアイキャンプについて詳しく知りたい人はこちらへ)。医師が訪れ、短期集中で治療をするのだ。この方もライオンズクラブの会員で、AchyutさんがOSHINに誘った。OSHINは既に2人の医師がAdvisory Committeeに入っており(小児科医と胸の専門家)、この2人が子どもたちの定期診断を行ったり、病気の時に関わることになる。ちなみに金銭サポートをするアメリカ人は動物のお医者さんなのだそうだ。もう一人のAdvisory Committeeのメンバーは台湾人で、Sea & Sky Travelが業務提携している会社のスタッフのようだ。以前からお金や服を送ったりしていたとのこと。僕も含めて全部でAdvisory Committeeのメンバーは5人である。


 まだまだ資金は足りない。軍からお米をもらえるように要請しているとのこと。明日、決めることが多すぎてきちんと話しきれるのか不安だ。明日の決定を待って、パンフレットやWEBサイトの作成が始まる。WEBサイトは僕が日本語版をつくることになっている。


  というわけで、いよいよです。わくわくしてきた!明日はリニューアルが終わったOSHINの建物で朝からミーティングです。それでは、また。

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何度も紹介しているLFN(The Light for Nepal Children's Home)のサイトです。
http://www.lightfornepal.org.np/
英語ですが、写真だけでもどうぞ。




8/14

2004-08-15 00:27:13 | Nepal 2
 先日、バングラデシュ・マイメイシンを訪れていた友人からメールが来た。訪れたのは少し前のようだが、マイメイシンあたりも大分洪水がひどかったようだ。友人の兄は日本国際飢餓対策機構(JIFH)のスタッフとして、バングラデシュで活動していた方である。僕もJIFHの会員で、その方と一緒にJIFHのオリエンテーショントレーニングに参加したことがある。ビリシリはどうだったのだろう?ビリシリはMANDiが支援しているダハパラ診療所があるエリアで、僕の友人が沢山住んでいるところだ。 


 カトマンズでの生活も、自分の日常になってきた。この時間にはこれをするといったような生活のリズムが出来てきた。昨日は実家に国際電話をかけた。衛星生中継のニュースみたいに若干タイムラグがあるので、なんだかもどかしかった。日本の友達とチャットもした。文明の利器はすごいと感心。


 喫茶店でチャイを飲んでいたら、粗末な格好をした2人の子どもが話しかけてきた。僕をネパール人と間違えたらしく、ネパール語で懸命に話しかけてくる(僕はよくネパール人に間違えられる)。手にはノートをもっているが、その字もネパール語で何が書いてあるか分からない。隣に座っていたネパール人に聞いたところ、彼らは孤児院の子どもたちだという。孤児院が外国の資金援助を受けられなくなったので、こうして子どもたちに募金のアピールを書いたノートを持たせ、歩かせているのだという。ちなみに僕が話しかけたネパール人はトレッキング会社の人だったが、この人も別の孤児院の運営に関わっている人であった。日本で言うところのNPO・NGOの活動をしている人は意外に多いようだ。


 今日はあることの資料読みに没頭。そのうち日記1回分使って書くと思います。それでは、また。 

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P.S トラックバックの欄って、日付があったらいいのにな。ベンガルさん、ありがとうございました。興味深かったです。バングラデシュモデルのページもとても良かったです。論文・資料のページ、ちょっとづつ読んでみようと思います。

HAPPY HOME

2004-08-12 21:35:36 | Oshin(孤児院)日記
 びっくりしたこと。
マーケットで水の入った洗面器の中で売られていた腕時計たち。防水機能強調か。
女物の下着を売る小さな店で、女性たちを相手に弧軍奮闘するネパール人の若い男の店員。頑張れ。
サザンを大音量で流しながら走り去っていった車。これはなんか嬉しかった。

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 HOTEL HAPPY HOMEはスタッフがフレンドリーで過ごしやすい。今日はスタッフの息子何々君(名前忘れた。かわいい子)の誕生日だとかでパーティーに招かれている。今晩はただ飯だ。ホテルのレストランでご飯食べても、「お金はいつでもいいよ」。このゆるーい感じが好きである。オーナーの中国人のおばさんは日本語の勉強中で、たまに日本語を教えてあげている。ここのスタッフの人もローカルのNGOに関わっていて、事務所に連れていってもらったりした。


  古本屋で元シャプラニール・ネパール駐在員の定松栄一さんが書かれた「開発援助か 社会運動か」を買う。シャプラニール・ネパールの立ちあげの様子が記録されていて、とても面白い。シャプラの本は「シャプラニールの熱い風」もそうだったが、失敗談がきちんと掲載されているのが良い。旅に出てから、様々なNGOの活動を見ているが、ちょっと立ち寄ったくらいでは、現場の生々しい苦労や失敗などはわからないのである。僕はそういった話が知りたいのである。


 NGOや国際協力関係の本は古本屋で沢山売っているので嬉しい。日本食屋にもこの手の本があって、読むために通ったり、閉店間際に貸してもらったりしている。もう常連になってしまい、割引カードを出さなくても割引してくれるようになった。古本屋の本のラインナップを見て、あれこれ思いを巡らすのも楽しい。推理小説や雑誌が多いのは(読み捨てだから)日本の古本屋も一緒だが、浜崎あゆみ写真集なども売られている。旅行中にお金に困って売ったのだろうか?日本の国語の教科書も売っていた(駐在員の方が売ったのか?)。ハードカバーも頑張って集めているようだ(でも高い!)。司馬遼太郎など歴史物も沢山ある。


 日本食屋はいろんな出会いもあって面白い。2年半も旅をしている若いカップル(この人達の旅情報はありがたかった)、洋服のデザイン・販売の仕事をしている人(ネパールで制作したオリジナル商品を日本のお店に卸している)、駐在員のご家族、などなど。やっぱり日本語で心おきなく語れるのは嬉しいものである。「え、今イランのビザ取れないんですか?」「9月8日にカルカッタでインド-日本戦を見ようよ!」「次は○日にストがあるよ」。旅先で交わされる情報の種類は、日本と違うのである。お店に置いてある情報ノートも楽しい。この宿やレストランが良いなどの情報から( HOTEL HAPPY HOMEのことも情報ノートで知った)、見事ぼったくられました体験談、ワールドワイドな旅行記などなど、とても参考になるし楽しい。地球の歩き方もこういうノート参考にしたほうが良いのでは?トラブル多発で有名な宿が、素晴らしい宿みたいに紹介されてるんだもん。日本人詐欺師の情報もあった。バンコクやポカラでは、行方不明になっている日本人の情報を探しているチラシも見た。


 Sea & Sky Travelに行くと、おしんの封筒と領収書とはんこが完成していた。ベッドも納品されたとのこと。いよいよオープニングが近づいてきた。一番気になる点は、子どもの世話をする女性のことである。オープニングの段階では、キッチンスタッフ1名、世話係1名である。子どもたちは昼間は学校に通うが、寝起き・食事など大半の時間をこの女性たちと過ごすことになる。365日だ。本当に父母がいない子どもたちにとって、彼女らの影響がいかに大きなものとなるか、言うまでもないだろう。子どもたちのスケジュールや生活スタイルは、おそらくLFNの現在のスタイルを踏襲になるはずだ。僕もオープニングから少なくとも数日は弧児院に泊まり込むつもりである。


 





ドラッグとストリートチルドレン

2004-08-11 01:50:40 | Nepal 2
 バングラ洪水関係のトラックバックがついていましたので、紹介します。ダッカから - from Dhaka
 青年海外協力隊でバングラに滞在している方のBLOGです。協力隊員の日々が垣間見れる本サイトが面白いです。

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22時。スーパーの前に子どもたちが7~8人たむろしていた。小学校に行く年齢にもなっていないような小さな子どもがほとんどだ。服はぼろぼろの子が多い。その中で一番大きな少年が、おなかをさすりながら「I'm hungry」と言って寄ってきた。瞳が明らかにおかしかった。僕は「ドラッグが好きなんだろ」といったら、彼は素直に「そうだよ」と答えた。


 後で顔見知りの日本人にこのことを話したら「多分やっているのはシンナーだと思うよ」と言っていた。ドラッグをやっている子どもにはお金はあげない。食べ物を買わずにドラッグを買ってしまうからだ。先日ストリートチルドレンを保護している教会のことを書いたが、ストリートは本当に危険と誘惑に満ちている。僕にドラッグを売ろうとする子どももいた。子どもの前で平気でドラックの商売をしている親もいた。僕だってストリートで生活していたら、うさ晴らしにやってしまいそうな気がする。それがどんなに危険な物かも知らずに。束の間でも、つらさや苦しさを忘れるたいからやるのだ。それは親のいない小さな子どもたちにも伝染していく。


 だから、シェルターがある。ドロップインセンター(24時間利用できる施設)や、ストリートスクール(青空学級)、職業訓練所もある。子どもたちはそこでそこで更正していく子どももいる。出たり入ったりを繰り返す子どももいる。ストリートチルドレンに関するサイトは沢山あるので、興味がある方は検索してみてください。このBLOGで紹介しているNGOシャプラニールのサイトや、ストリートチルドレンを考える会のサイトも分かりやすいです。


 全世界に3000万人-1億人いるといわれているストリートチルドレン。孤児院の存在も、そんな彼ら彼女らのために大事な存在です。




・・・

2004-08-09 00:52:43 | Nepal 2
 祝アジアカップ優勝!日本食レストラン「桃太郎」にはサッカーを見に来ていた日本人達がいて、一緒に観戦した。2002ワールドカップもいろんな人とよくお店で見ていたなあと懐かしく思い出す。中田浩二の2点目はハンドぽっくって、暴動が起きるのではないかと心配したが、3点目が入ったのでこれで文句がないだろうと思いほっとした。土曜日だったし、日本もきっとすごい盛りあがっていたんだろうね。横で若いネパール人たちが飲み会をやっていて、女の子も酔っぱらったり、タバコを吸ったりしていた。おんなの人が外でタバコ吸っているところなんてほとんど見ないし、酔っぱらいは始めて見たので新鮮だった。

(写真は建設中のおしん。屋上にキッチンを作っている。)

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 昨日の午前中は、パタンまでバスに乗り、教会にいった。ネパールは土曜日が休みなので、土曜日に礼拝がある。英語で礼拝をやっているカトリックの教会があると聞いてやってきたのだが、人に道を聞きながら歩いているうちに、全然違うプロテスタントの教会についた。インドもそうだったが、人から道を聞いてすぐにたどり着けると思ってはいけない。みんな教え方が結構適当である。間違った道を教えられることもあるので、2人か3人くらいに聞くのがベストだ。教会は元カーペット工場を改造したもので、150人くらいの人が来ていた。エレアコを使って、素敵なゴスペルを歌っていた。メッセージはネパール語だったので、全然分からなかったけど。ネパールは日本よりもクリスチャンの割合が少ない(日本は約1%)。ここに日本人が来たのは2人目だという。


 ここはストリートチルドレンのための施設も持っている。カーペット工場は、地方から出てきた女性が住み込みで働く職場である。なので、小部屋がたくさんあるのである。始めは子ども達への給食活動だけしていたのだが、ここにとどまりたいとの少年達の要望があり、現在は10数名の子ども(男の子のみ)がここに住み、昼間は学校に通っている。学校は私立のイングリッシュスクールだが、学校に頼んで学費を免除してもらっているようだ。子ども達は礼拝にも出ていて、洗礼をうけて神学校に通っている子どももいる。ランタンというリモートエリア(トレッキングで有名なエリア)の子どももここに住み込んでいる。みんな良い子達だった。


 ここはクリニックも持っている。ハワイの教会がサポートして建てられたもので、年に1~2回、ハワイの医師や看護婦達が医療活動に来るそうだ。ネパール人の医師はおらず、普段はクリニックは閉まっている。今は女性の外国人の医師が来ていて、礼拝が終わった後に、沢山の人が敷地内のクリニックを訪れていた。薬が充実していた。


 帰りのバスでは、JICA(国際協力事業団)で働いている女性と一緒になった。JICA関係で来ている日本人はかなり多いようだ。この方はネパール人と結婚して、ここで暮らしているとのこと。娘さんも一緒だったのだが、娘さんはここで生まれたそうだ。ネパール人と結婚する日本人女性は多い。そんなに魅力的なのだろうか?確かに男性も女性も顔立ちの整った人は多い。性格は・・・人それぞれだ、と思う。そういえば今日は全国ミスネパールコンテストをやっていた。サッカーが終わった後にTVで見ていたのだが、ファッションショーのように、一人ずつ出てくる。レストランにいたネパール人達も盛りあがっていた。途中で店を移ったので、誰が優勝したのか分からなかったけれど。


 孤児院のオープニングの17日までまだ時間があって、ちょっと暇を持て余している。何かプレゼントをしようと思って、子どものおもちゃなどを売っているお店を何軒か見にいった。孤児院にはいる子ども達は2歳から8歳までである。それ以降だと自分達がやりたい教育をするには遅すぎると言う。凧あげが結構はやっているみたいなので、材料をかってきて凧でも作ろうかと思う。


 それでは、また。
P.S 日記自体は書くのが苦痛ではないが、タイトルを付けるのが苦手だ。うーん。



今日は・・・

2004-08-06 01:48:59 | Nepal 2
 今日は何も予定がなく、のんびり過ごした。天気が良かったので洗濯をしたり、調べたいものがあったのでネットカフェに3時間もこもったりしていた。天気が良いとホットシャワーがでるので嬉しい(ソーラーシステムなので、天気が悪いと水しか出ない)。


 ぶらぶらと買い物にも出かけた。ニューロードの南の路上に、ビニールシートの上に商品を並べた店がずらっと並ぶ一帯がある。庶民の買い物どころだ。ここももちろん値段交渉である。みみかきを発見したので(先日無くした)、値段を聞いたら「2ルピー(3円)」と言ったのでびっくりした。嘘だと思ってもう1度聞き直してしまった。安い。パンツも買ったが、パンツは25ルピーだった。単3乾電池4本で10ルピー。何でも安いのだ。でもネパール語しかできないお店の人もいるので、苦労する時もある。数の言い方はバングラデシュと同じなので、10の数字くらいまでなら何とかなるのだが、桁が大きくなると分からない。そのお店は電卓も売っていたので、「その電卓で値段を叩いてくれ」とジェスチャーをしたら、「この電卓も買うのかい」みたいなことになってしまい、大変だった。英語のできるおじさんがあわられて、勝手に値段交渉までしてくれた。「この値段でいいよね!」とおばさんに確認していたけれど・・。



 今日はたいしたことをしていないので、最近読んで面白かった本の一部を紹介したいと思います。


 まずは「1年1組せんせいあのね いまも」(鹿島和夫・編 理論社) から、きたもりひろつぐ君の素敵な詩を。この本にはかわいい詩が沢山載っています。(関係者の皆様、勝手に引用してごめんなさい)



おはし
      きたもり ひろつぐ

ごはんのとき
おはしがなかったので
おじいちゃんが
かしてあげるていいました
でも
おかあさんのおはしをつかいました
おじいちゃんはみずむしなんです



 次は「マザー・テレサ 日々のことば」(女子パウロ会)3月20日分より


ある紳士が、
インドから貧困を取り除くために
私たちは何をすべきでしょう、
と尋ねました。
私はこう答えました。
もしあなたが貧しい人々を
愛しているのなら、
彼らと共有しなくてはなりません。
もしあなたが貧困を取り除きたいのなら、
貧しい人たちと分かち合ってください。



 最後は聖書から。久しぶりに開いた「伝導者の書(旧約聖書)」より。書いたのはあのソロモン王(ダビデの子どもです)、今から約2900年前に書かれたものです。



エルサレムでの王、ダビデの子、伝道者のことば。

空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。

日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。

一つの時代は去り、次の時代が来る。しかし地はいつまでも変わらない。

日は上り、日は沈み、またもとの上る所に帰って行く。

風は南に吹き、巡って北に吹く。巡り巡って風は吹く。しかし、その巡る道に風は帰る。

川はみな海に流れ込むが、海は満ちることがない。川は流れ込む所に、また流れる。

すべての事はものうい。人は語ることさえできない。目は見て飽きることもなく、耳は聞いて満ち足りることもない。

昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない。

「これを見よ。これは新しい。」と言われるものがあっても、それは、私たちよりはるか先の時代に、すでにあったものだ。

先にあったことは記憶に残っていない。これから後に起こることも、それから後の時代の人々には記憶されないであろう。



続きが読みたい人はこちらからどうぞ。


ではでは。