Joyous Life Navi

ストレスのたまる毎日…ホント肩が凝りますよね。たわいない話でもして、張りつめた心の凝りをほぐしましょう。

<家族の祈り>

2010年08月29日 | 前向きな人生とは・・・
◆少し古いお話ですが、以前「平成の三四郎」と言われた柔道の古賀稔彦という選手がおられましたよね。(今もご健在だと思います) その古賀選手の一本背負いのキレ味は凄まじく、気づいたときには相手は宙を舞っていると言われ、実際に、全盛時の時は技を完成させるまでにわずか0.4秒だったそうです。すごいですよね。

 その古賀選手がソウルオリンピックの時 金メダルを期待されながら早々と敗退してしまい、その結果マスコミをはじめ周りの反応が以前とガラリと変わってしまったことに大変な心の衝撃を受けられたそうなんですね。ある時、その当時の辛かった心境についてこのように語っておられました。

『オリンピック後の私は、思いもかけない敗戦に大きなショックを感じひきこもりがちになってしまい、もう何もする気力を失いかけていました。そんな時、何気なくつけたテレビで「ソウルオリンピック総集編」が放映されていて、偶然私の負け試合が流れていたのです。見るともなくその映像を見つめていたのですが、その映像の最後に私が負けた後の両親の姿が映し出されていたのです。

それを見たとき、私はものすごいショックを受けました。私が負けた後、両親は観客席に向かって一生懸命に頭を下げていました。「皆さん、どうもすいません…」という気持ちからでしょう。何度も何度も周りの皆さんに必死に頭を下げている両親の姿を見た時に何とも言えない思いがこみ上げてきたのです。

それまでの私は「おれが始めた柔道。おれが練習して、強くなって、おれがオリンピックに行って、そしておれが負けたんだ」と、そんな気持ちになっていました。しかしこの両親の姿を見て「闘っていたのは自分ひとりじゃなかったんだ」ということを知ったのです。

家族や仲間、応援してくれた人たち…そういう人達がいてくれたからこそ自分はここまでこれたんだという気持ちが強く湧いてきました。そしてこの人たちに少しでも喜んでもらいたいと「次のオリンピックで絶対に金メダルを取って恩返しをするぞ」と強く決心することができたのです…』と、このように語っておられました。

 そして実際に古賀選手は、次のオリンピックで左膝を負傷ながらも痛み止めを打ちながら金メダルを手にされたのでした。

「人は何かに挑戦する時、不安やプレッシャーでどうすることも出来なくなってしまうことがあるんです。そんな時、家族や身近な人の思いや祈りが、きっと自分を前向きに突き進む強い心を持った人間に変身させてくれるんだと思います」と語っておられた言葉がとても心に残りました。

 どんな時でも決して自分ひとりではない。自分だけが苦しいんじゃないんだ。家族が、そして周りの人達が自分と一緒に悩みながら陰から共に祈ってくれている…このことを決して忘れないようにしたいものです。

<誰かのために>

2009年10月05日 | 前向きな人生とは・・・
◆私達は自分を取り巻く環境も変えてほしい反面、自分自身の内面も変えたいと思っているんですね。以前ある研修会にいった時受講者の大半が「自分を変えたい」と言っていました。自分を変えるのは簡単なようで意外と難しいのですね。ましてや長年連れ添い培ってきた自分の性格や癖性分を変えるのは並大抵じゃないと思うのです。自分の心一つがなかなか自由に出来ない。
 
 ある時「エンパワーメント」というお話を聞いたことがありました。自分の中にある「内なる良さ」に気づこうというのです。私達は何事につけ自分の悪いところにばかり目がいくのですが、自分が今持っている内なる素晴らしさに気づけばきっと自分自身の何かが変わるというのです。

 さらに、自分の事にとらわれないで誰かのために何かをしてみようと。今何かで困っている人のために動ける事が、やがては自分の喜びにつながり、しいては自分自身の変化につながる。人は人のために役に立つ事で自分も満足するという本能があるそうです。悩んでいる人との関わり合いの中で、悩みや苦しみを共有し話し合ったり行動することによって、自分自身のおかれている境遇にも感謝が生まれ、家族、回りの人々の目に見えない「恩」に気づき、有難いという感謝の心が湧いてくるのですね。
 
<誰かのために何かを したいと思えるのが 愛ということを知った♪>雪の華でしたっけ、の歌にもありますよね。年甲斐もなくいい歌知ってるでしょ。自分のことだけにとらわれて汲々とするのではなく、誰かのために何かをしてゆく。心を外に向け、悩んでいる人のそばに身を置き、小さな事でも何でもさせて頂きたいと思う心と行いが、やがては自分自身の内面も運命をも大きく変えていってくれる種になるのではないかと思っています。

<絆>

2008年12月03日 | 前向きな人生とは・・・
◆『「おばあちゃん、今日は遠足だからね。おみやげ買って帰るからね」と幼稚園に行く前に息子がおばあちゃんに語りかけています。これが我家の日課なのです。この子が生まれた頃、既に介護を要した母は、孫を抱き上げることも出来ず、孫もまた、おばあちゃんにどこかに連れて行ってもらうこともなかったけれど、でもヨチヨチ歩きの時からおばあちゃんが乗った車椅子をおもちゃ代わりに押してきた息子は、おばあちゃんが大好きなのです。

 息子が物心ついた頃「おばあちゃんが一番だよ、ぼくは二番、だから僕は待つんだ…」とよく言っていました。我家は常におばあちゃんが中心の生活でした。
私が嫁ぐのと同時に始まった母の介護は、寝坊ができない。いわば私が躾られているようなものでした。そして7年を経て、昨年暮れに母は他界しました。最後まで在宅で介護させてもらいたい…という夫婦の誓いが通じたのでしょうか。とても穏やかな母の顔でした。そして母の介護があったからこそ、思いやりを持つ子供に育ちました。それが、きっとおばあちゃんの願いだったのでしょうね。』

『絆』というテーマで書かれたこの一文を読んで思わず心が洗われる思いがしました。頭ではわかっていても現実のこととなるとなかなかできないものです。嫁ぐやいなや毎日をお母さんの介護に明け暮れされるご苦労のほどはいかばかりかと思います。でもそんな中、幼い息子さんが素直に成長され、かけがえのない家族の絆が広がってゆく姿にまた、計り知れない大きな喜びがあるのではないかと感じました。

『絆』という字は『糸』へんに『半』と書きますよね。右側の『半』とは一体何を表しているのでしょうか。それは<自分自身>を表しているのですね。つまり、どんなに社会的な地位を持った人でも、財産がある人でも、仕事ができる人でも、人は常に「半人前」なのだということなのです。そしてそんな半人前の自分を支えてくれているのが、見に見えない『糸』でつながった回りの人々。『絆』という字にはそんな意味も込められてあるんだそうですね。

つい何でもできると「私がしてやっている」と思ってしまいがちです。でも自分が「完全だ」と思った瞬間から、目に見えない大切な「心の糸」が切れていってしまうような気がします。人はお互いみんな半分ずつで、だからこそ励まし合って助け合って生きてゆくようになっているのかも知れませんね。

<それでよろしい>

2008年05月20日 | 前向きな人生とは・・・
◆「世の中のことが、すべて自分の思い通りに運ぶ事を願うより、起こるがままに、起こることはすべて起こるがままに受けさせて下さいと願うほうがきっと幸せになれるでしょう」とある人が言っていました。確かに自分の思い通りに何もかもがうまくいけばこんなに嬉しいことはないですよね。自分の思い通りに全てがなってきたら、毎日楽しくてしかたがないでしょうね。でも現実は、自分の思い通りにいかない事の方がはるかに多いのです。

人生には上り坂と下り坂ともう一つ、<まさか>という坂があるらしいです。ついこの間も、振り込め詐欺まがいの電話が自宅にかかってきてあわやもう少しで詐欺に遭う所でした。<「振り込め」と 言われたその額 持ってない> そんなサラリーマン川柳に思わず笑ってましたが、笑ってる場合じゃないですよね。

このように病気や事故や自然災害など、日々暮らす中ではいつ何が起こってくるかわかりません。自分の思い通りにはなかなかいかないことだらけで、いわば選べない世界に生きているようなものです。ですからむしろ世の中は自分の思い通りにならなくても、「これでいいんだ」と思った方が楽かも知れませんね。

<どんな不運や苦しみも、一度「それでよろしい」と大肯定してみる。すると、世界のすべてが、たちどころに愛と希望に満ちるでしょう。太陽が西に沈めば「それでよろしい」月が東から昇れば「それでよろしい」冷たい風がふけば「それでよろしい」クシャミが出れば「それでよろしい」>
                 (「あなたは本当はすごいんです!」より)

なんのこっちゃとは思うけれど、もしかしたら本当にそれでいいのかも知れないと思ったりもするのです。「それでよろしい」の逆の言葉が「どないしよう」とか「えらいこっちゃ」だけれど、そのようなネガティブな言葉を使うぐらいなら「これでええんや」と一呼吸おいてポジティブな言葉を出す方が気持ちも落ち着くんじゃないかなと思うのですよね。

例えば今日はイライラするけど「それでよろしい」 今日は仕事がうまくいかなかったけど「それでよろしい」 ちょっと風邪気味でしんどいなあ「それでよろしい」 嫌なヤツがまた来るけど「それでよろしい」 思ったとおりにはいかないけれど「それでよろしい」 ちょっと何かが足りなくても「それでよろしい」 なかなか体重が落ちくなてメタボのままだけど「それでよろしい…」なんてね。

そういえば天才バカボンのお父さんも、何かあるといつも「それでいいのだ!」を連呼していたけれど、今から思えばこれももしかして、人として幸せな人生を築くための深い言葉だったのかも知れないと思うと、心なしか懐かしい気がしてくるのです。

<あたりまえ>

2008年05月10日 | 前向きな人生とは・・・
◆子供の頃、目に原因不明のホシが出来て、お医者さんから「この子はいずれ失明するかも知れない」と言われていたのですが、それが不思議にも奇跡的に助けて頂き、今まで何不自由なく過ごしてきました。が、一年前に目の異常を感じた時、その奇跡の喜びを完全に忘れ去っていた事に気付いたのです。

 見える事が「あたりまえ」になっていたのですね。あの時、両親や回りの人がどんな思いで祈ってくれていたかも知らずに。もし自分の目があの時助かっていなかったら…と思うと、今をどれほど感謝と喜び一杯に生きても足りないはずなのに、そんなこともつい忘れてしまって、喜ぶどころか、見ては不足、見ては不満を重ねている…その事を神様がお知らせ下さったんだと思います。
以前読んだ「飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ」という本の中にこんな詩が書かれていました。

<あたりまえ>
こんなすばらしいことを 
みんなはなぜよろこばないのでしょう
あたりまえであることを

お父さんがいるお母さんがいる
手が二本あって、足が二本ある
行きたいところへ自分で歩いてゆける
手をのばせばなんでもとれる 音がきこえて声がでる
こんなしあわせはあるのでしょうか

しかし誰もそれを喜ばない
あたりまえだ、と笑ってすます
食事がたべられる 夜になるとちゃんと眠れ
そして又朝がくる
空気を胸一杯に吸える
笑える、泣ける、叫ぶこともできる 走りまわれる

みんなあたりまえのこと
こんなすばらいことを みんなは決してよろこばない
そのありがたさを知っているのは
それを失くした人たちだけ
なぜでしょう あたりまえ…

「飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ」は、井村和清さんという、31才の若さでこの世を去られたお医者さんが、愛娘の飛鳥ちゃんと奥様のお腹にいた”まだ見ぬ子”へ宛てられた遺稿なのですね。骨肉腫で右足を切断され、辛いリハビリを耐え抜かれたにも関わらず、肉腫は全身に転移してしまいました。その地獄のような苦しみの中、最後まで命を振り絞って可愛い我が子に伝えられた命のメッセージなのです。

「こんなすばらいことを みんなは決してよろこばない そのありがたさを知っているのは それを失くした人たちだけ…」今あることは決してあたりまえではなく、むしろ毎日が奇跡の連続なのだと、この言葉によって気づかされる思いがします。
「知恵」とは「恵みを知る」と書きますが、自然の恵みを喜び、あたりまえに感謝出来る心こそ、人として大切な本当の「知恵」なのかも知れませんね。

こんにちは!

2008年04月30日 | 前向きな人生とは・・・
◆一年ぶりにやっとブログに戻ってきました。長い間のご無沙汰をどうかお許し下さい。実は一年程前に目に少し異常を感じ始めていまして、しかも視力が急に落ちてきていましたので心配になり、充電期間などと言いつつ休養しておりましたが、まさに光陰矢のごとしで早くも1年以上が過ぎてしまって月日の経つ早さに驚いています。
お陰様で目の方も少しずつ楽になりました。その間皆様にはたくさんのコメントを賜りましたこと誠に有難うございました。せっかくのお言葉を頂きながら、お返事も出来ずじまいで本当に申し訳ございませんでした。深くお詫び申し上げます。
せめてブログのテンプだけでも変えて心機一転しようと、夏バージョンに変更しましたが少し気が早すぎました。これからまた少しずつですが感じたことを書き留めてまいりたいと思っておりますのでどうかよろしくお願い申し上げます。

<人生の悩みに>

2007年03月05日 | 前向きな人生とは・・・
◆人は誰でも皆、生きてゆく道中には様々な悩みがありますよね。それらをどうしたら乗り越えられるのか…それが大きな課題です。心構えを変えれば…ということも頭ではわかっているのですが、でも自分の心を変えることもなかなか難しいものですね。長年の癖や性分がありますから。だからこそ人は悩んでいるのでしょうね。

それならいっそのこと悩みや問題と格闘してドタバタするのをやめて、それとじっくりつきあうようにしてみてはどうでしょう。今の悩みを解消しようとするよりも、どうせ人生は悩みや問題だらけなのだから、悩んでいる自分をも受け入れて、その問題といっしょに生きていこう!と腹をくくってみてはどうかと。もしかしたらそこから何かが変わってゆくかも知れません。

人間、生きている以上何かしら心の悩みや問題はありますよね。しかも自分だけにあるのではなく、みんな大なり小なり持っているものです。この深くて大きい悩みがなければどんなに楽だろうと誰もが思っているのですね。

でも悩みや問題が自分の人生からすっかり消えてなくなる事は恐らくないんじゃないでしょうか。いくつになっても、いつでも何かしら悩みはあるでしょう。そして人はたぶん一つ解決するとまた違う一つをいつの間にかどこからか見つけ出してくるものだと思います。

でももしかしたらそれが生きてる証なのかも知れません。その悩みや問題を持ちながらもそれをどうにか乗り越えながら今日まで生きてきたのですから…苦しみながらも…

ですから今の問題や悩みがなくなればいいなどと焦って闇雲に何とかするのではなく、それは誰にもいつでもあるものだと受け入れ、それがあるからこそ自分の人生に深みを出してくれるのだと思って、問題や悩みとじっくりと前向きにつき合っていく方が本当はいいのかも知れませんね。

<たすけあい>

2007年02月23日 | 前向きな人生とは・・・
◆小学生の時担任の先生からこんなお話を聞いたことがあります。
「みんな天国と地獄のお話し知ってる?地獄にはね、大~きなテーブルがあって、その上にはちゃんと食事が用意されていてそれが結構ご馳走なんだって。でもね、みんな青白い顔してやせ細っているの。見るとテーブルの上には自分の身長の倍もある長~いお箸が置いてあって、しかもそれを使わないと食べられないのよ」

「それで地獄の人達はそのお箸を使って食べようとするんだけどお箸があまりにも長すぎて自分の口までうまく運べなくて食べることが出来ないの。だからいつもお腹を空かしてイライラしていたのよ」

「それがね天国に行ってみると同じようにテーブルの上に食事が用意されていて、やっぱり長~いお箸が置かれているんだけど、なぜかみんな楽しそうにニコニコして食事をしているんだって」

「見てみると天国の人達はね、その長~いお箸を使って食べ物を自分の口じゃなくて、前に座っている人のお口に運んであげて、お互いに食べさせ合いっこをするらしいの。だからみんなとても楽しそうに食事をしているんだって」

先生はきっと「自分のことばっかり考えていちゃダメなのよ。もっと友達の事を考えてお互いに助け合わなくちゃね」って言いたかったんだなって思うのですよね。

人はみんな不完全な存在です。でもだからこそ人のたすけを必要とし、また人の力になる事で喜びを感じたりする事が出来るのですね。そしてその中でお互いの愛情を育み友情や信頼を培い人と人との大切な心の絆が生まれるのですね。

背中がかゆくても自分ではなかなか十分にかけませんね。自分の背中であっても…です。でも誰かに頼めばすぐに思った所をかいてもらえますよね。辛い時や悲しい時、自分の力ではどうすることも出来ないことに直面した時、さりげない人の親切が身にしみます。困っている人の力になれる…そんなたすけあいの心を持てることが人として一番の幸せかも知れませんね。

<心のゆとり>

2007年01月29日 | 前向きな人生とは・・・
◆子供の頃、学校へ行く前によく家の便所掃除をさせられていました。そんな時必ず心の中で「つまらないなぁ…弟たちもいるのになんで僕ばっかり…」ってよく思いながらしていたものです。

するとその心を察してか「つまらんことやくだらんことをさせてもらえば、きっと後々詰まらん人生、下らん人生が送れるんだよ…」って母親が教えてくれました。その時は「なんのこっちゃ?」と、その意味が全く分かりませんでした。が、今になって思えばそれも一つの人生訓だったんじゃないかなって思うのです。

人間にとって「詰まる」ことは辛いことです。体に食べ物が詰まる。排泄物が詰まる。こんな辛いことはありませんね。人生に行き詰まる…こんな悲しいこともありません。詰まらない人生とは自由で伸びやかに生きられるって事でしょう。

つまらないなあと思うこともあえて前向きに受けてゆけば、きっと自分の人生がより良い運命---詰まりも下りもしない人生---になるのかも知れないと思います。

私達は無意識のうちについ合理的な生き方を探しています。無駄のない効果的な生き方を求めているのですね。仕事でも人間関係においても…。そこには「無駄なものはダメ、空働きは損」という考えが私達の心のどこかに潜んでいるのでしょうね。もちろん税金や資源の無駄遣いはダメだけれど…。

昔は今よりももっと時間がゆったりと流れていたんじゃないでしょうか。そこら中でのどかな風景があったような気がします。でも今は何かと忙しくいつもビデオの早送りを見ているような感じがして、人としての大切な心のゆとりさえ失ってしまったように思います。そういえば「忙しい」という字は「心を亡くす」と書くのですよね。

人のいやがる糞も部屋に散らかすとただの厄介者ですが、畑に蒔くとそれが作物を育てる肥やしなるのですね。こんなつまらないことと思うことでも、その裏にはきっと何か深い意味があるに違いない、そう思って無駄を楽しみ、空働きを喜べるゆとりのある人生を送りたいものです。

<まぁるい心>

2007年01月09日 | 前向きな人生とは・・・
◆最近のテレビや新聞を見ていると、目を覆いたくなるニュースがあまりにも多くて愕然としてしまいますね。とくに親と子がお互いに傷つけ合う姿に人の命とか家族の絆ということについて深く考えさせられます。

昔から「貧・病・争」という悩みは人間にはつきものだけれど、とくに人間関係の悩みである「争」は現代の私達大人にとっても永遠のテーマですね。これからの世の中を生きてゆく子供たちのためにも、今改めて親としての生き方が問われているように思います。

「乳飲み子からは肌を離すな
 幼児は肌を離して手を離すな
 少年は手を離して目を離すな
 青年は目を離して心を離すな」
って誰かに聞いたことがありますが、人と人とはどんな形であっても目に見えない所で必ずつながりあっていなければならないものなのでしょうね。

「ヤマアラシのジレンマ」という話があります。仲の良いヤマアラシの夫婦がお互いに肌を寄せ合おうと思ったら、相手の針が刺さって痛くて近寄れないのです。だからといって離れていると寂しくなってきて近づくとまた痛い…。それを繰り返しているうちにお互いの針を寝かせて抱き合えばいいことがやっと分かった…っていうお話しです。

案外私達もこのヤマアラシと同じように、目に見えない心のトゲを立てながら人に近づいてお互いが刺したり刺されたりしているっていうこともあるのではないでしょうか。お互い多少のトゲはあってもそれをうまく寝かせてつきあうことがより良い人間関係を築いていくためには大切なことなのかも知れませんね。

私達の心はちょうど「栗」のようなものですね。「我」という渋い皮に包まれ、「癖や性分」という剛いイガを身にまとっているようなものです。しかも自分のイガには気づかず、相手のイガだけが気になってしまうのです。イガ同士のお互いが暮らしているのですから、毎日チョットしたことでひっかかってしまうのですね。

でもどんなに渋い皮やイガを持っている栗でも、根気よく皮をむいてゆけば、甘くてよい味の実が出てくるように、目に見えない私達の心のイガも、人の心の優しさに触れることによって、自然と取れて良い味わいの出せる人にならせて頂けるのではないでしょうか。

自分にイガがあれば、真綿に包まれていてもすぐにひっかかりますが、こちらが丸い心でいれば相手がイガでもひっかかりませんね。小さな事やどうでもいいことにこだわってないで、いつも「まぁるい心」でニコニコと機嫌良く暮らしていきたいものですね。

<謹賀新年>

2007年01月05日 | 前向きな人生とは・・・

◆新年明けましておめでとうございます。
昨年は皆様のおかげで楽しいブログライフを過ごす事が出来まして有難うございました。
いよいよ2007年がやってきましたね。
今年は亥年で私の当たり年なんですよね。
猪突猛進で少しでも前向きで明るいJoyous Lifeを目指して頑張りたいと思っています。
今年もよろしくお願いします。

<丁度よい>

2006年12月09日 | 前向きな人生とは・・・
◆自分の過去や回りの環境を振り返って、「もっと~だったらなー」って思う事ってありますよね。「もっとお金持ちだったらなあ…」「もっと賢かったらなあ…」「もっと美人だったらなあ…」「もうチョットましな性格だったらなあ…」「回りの人がもっといい人ばかりだったらなあ…」な~んて思うともなく思っている事ってあるんですよね。

  ああしていたら  こうしていたら
  ああしなかったら こうしなかったら
  タラコやタラチリはおいしいけれど
  わたしの「たら」は 食べられない
             (「わかってほしい」より)

誰にでも忘れられない過去があります。悔しくて眠れない事や後悔で一杯になる事もあります。ああすればよかった。こうすれば違った結果になったかも…と、今もあきらめきれない事もあるのです。

みんなそれぞれに自分の過去や現実に振り回されて生きているのかも知れませんね。ただそれをどうとらえてゆくのか。どうすることも出来ない今の環境をどのように前向きに受け止めてゆくのか…そこのところが大切なのでしょうね。難しいけれど。そんなことを考えている時、フトこんな言葉が目にとまりました。

    丁度よい
 お前はお前でちょうどよい
 顔も体も名前も姓も
 それはお前に丁度よい

 貧も食も親も子も息子の嫁もその孫も
 それはお前に丁度よい
 幸も不幸も喜びも
 悲しみさえも丁度よい

 歩いたお前の人生は
 悪くもなければ良くもない
 お前にとって丁度よい
 地獄へいこうと極楽へいこうと
 いったところが丁度よい

 うぬぼれる要もなく卑下する要もなく
 上もなければ下もない
 死ぬ日月さえも丁度よい
 お前はそれで丁度よい
             良寛

変えられない過去やどうしようもない現実に対して「こうだったら」「ああだったら」と思い出すとキリがないと分かっていながらもついその事に余計な心のエネルギーを費やしてしまうのです。

でも改めて自分自身を振り返ってみると、結構気儘を言ってたりして知らず知らずのうちに迷惑をかけた事もあったろうに、回りの人達に許され受け入れてもらってきたんじゃないかなーって思った時、色んな事を願ったり思ったりするけれど、今の現実も自分を取り巻く環境もほんとはこれが私にとって「丁度いい」のかも知れないなあって思えてくるのですよね。

<言葉の力>

2006年10月20日 | 前向きな人生とは・・・
◆『どんなに努力をしても心が変わらない時は
  心はそっと横に置いて 言葉や行動を変えてみよう
  心は不思議にも変わってしまう
  心は言葉によってコロコロ変わる
  言葉によって言葉通りの自分に変わってゆく』
                「心が安らぐ魔法の言葉」より

言葉の力とはすごいものですね。以前「つきを呼ぶ魔法の言葉」という本がとても売れました。その魔法の言葉とは…「ありがとう」「感謝します」そして「ついてる」という言葉だそうです。な~んだ、そんな言葉なら誰でも知ってる…って思ってしまうのですが、意外と私達はこれらの言葉を口にしていないことが多いのですね。それどころかつい無意識のうちに汚い言葉やネガティブな言葉を出してしまっていることが多いのです。

しかも私達は嬉しい時に「有難う」というのは案外出来るのですが、嫌なことが起こった時にこそ「有難う」という言葉を口に出すことが「コツ」なのだそうですね。かなり難しいことですが、それによって嫌なことの「連鎖」を断ち切ることが出来るといわれているのです。

人は気分の良い時も悪い時もありますが、大体気分の良くない時に発した言葉はトゲがあったり間違った判断をしてしまったりします。こういう時は、その気持ちを口に出す前に心の中にある言葉をキャンセルして「有難う」の言葉に置き換えて口に出すといいそうです。

人は皆自分の中で独り言のサイクルを持っていて、悪い言葉は悪いイメージを創り出し、悪い結果として現れます。そのサイクルを崩すのが「ありがとう」という言葉なんですね。

これが言えそうでなかなか言えないんですよね。せっかくいい言葉を使っていてもその後に汚い言葉を使ってしまったら、それまでに積み上げてきた徳は帳消しになってしまうそうです。でもその時にすぐ、キャンセル、キャンセル!と打ち消してしまえばいいんだそうですよ。一度出した言葉はなかなか消すことは出来ませんが、心の中にあるうちは何度でもキャンセルが出来るのですね。

  言葉が変われば 心が変わる
  心が変われば  行為が変わる
  行為が変われば 習慣が変わる
  習慣が変われば 人柄が変わる
  人柄が変われば 境遇が変わる

言葉一つの使い方によって、自分の中身も人柄もそして人生も変わっていくのだと信じて、日々の何気ない暮らしの中にある「言葉の力」を大切にしてゆきたいものですね。

<上を向いて歩こう>

2006年10月02日 | 前向きな人生とは・・・
      <上を向いて歩こう♪>
  上を向いて歩こう  涙がこぼれないように
  思い出す春の日   一人ぽっちの夜

「上を向いて歩こう」は「SUKIYAKI」というタイトルでアメリカでも大ヒットした歌ですね。日本で生まれた純オリジナル曲が全米1位を記録したのは、現在に至るまでこの曲だけなのだそうです。
  
  悲しみは 星のかげに 悲しみは 月のかげに
  上を向いて歩こう 涙がこぼれないように
   
辛い時でも悲しい時でも常に前向きに生きる希望を与えてくれるこの詞は、永六輔さんがある日落ち込んでいる時、ある人に「そんなにくよくよしいてもしょうがないじゃないの!泣きたい時には上を向いて歩きなさいよ」と言って勇気づけられたことがきっかけとなって生れたのだそうですね。

しかも不思議なことに、この曲が20世紀最後の「NHK紅白歌合戦」のフィナーレで歌われて、その年にやはり坂本九さんのヒット曲「明日があるさ」がリバイバルヒットしたのです。

発売当時、40年前の日本は高度経済成長の真っ只中でしたが庶民の生活はまだまだ苦しく大変だったのですね。でもそんな中で、明日に向って夢と希望をもったこの歌はそんな世相にピッタリとマッチしていたのでしょう。

そして現代はというと…不況やリストラそれに相次ぐ自己中心的な犯罪など、違った意味で暗い影が忍び寄る現代社会に生きる私達もまた、前向きで明るい歌を必要としているのかも知れませんね。

辛い時や淋しい時、「上を向いて歩こう♪」をなにげなく口ずさんでみるのもいいかも知れませんよ。きっとどこからか勇気と元気がふつふつと湧き上がってくるんじゃないでしょうか。でもあんまり上ばっかり向き過ぎて首の筋をプチッと痛めたり犬の糞をグニャッと踏んだりしないように気を付けないとね…。 

<出会い>

2006年09月25日 | 前向きな人生とは・・・
◆『ある施設で身体の不自由な子達と一緒に七夕祭りをした時の事です。一人の娘さんに「短冊に何か願い事を書いてごらん。きっと神様が聞き届けてくれるよ」と言ったのですが彼女は「何にも書くことない…」と寂しく首を横に振るばかりでした。彼女は交通事故で体の自由を失い、十七才で車椅子、しかもおしめをお母さんに替えてもらう生活を長く続けているのでした。

あまりしつこく勧めても悪いなあと思っていたら、暫くして「どんなことでもいいの」と言ってくれたので私は「いいよ」と言って一枚の短冊を渡しました。やがてそっと差し出したその短冊には想像もしてなかったことが書かれていました。

「神様、もし許されるならば、私をお母さんの亡くなる一日早く死なせて下さい…」

その娘さんにとってはお母さんだけが頼りなのです。おしめを他人に替えてもらう事の恥ずかしさを考えると、不安でたまらないのですね。いつも苦労ばっかりかけているお母さんに、せめて一日でも楽をさせたいとの想いが行間にこもっていました。

その短冊をお母さんは目に涙を一杯溜めて読んでおられました。やがて暫くして「私も書いていいですか」と仰るのでお母さんにも短冊を渡しました。そこには「神様、もし許されるならば、娘の一日後に死なせて下さい」と書かれていました。そしてこう仰ったのです。

「娘が身障者だったのは、神様が私達にその苦しみに耐える力があると思われたから与えて下さったのですよね…」って。私はこんな出会い、本当は喜べないと思うのです。こんなのをニコニコやれっといっても、誰にもできないと思うのです。だけどいくら歎いてもどうにもならないその世界を捕まえて、なんとかというお母さんの祈りが娘さんの心を広げていくのではないでしょうか。』

ある会合で聞かせて頂いたお話しが心に残っています。『力があるから重荷が背負えるのではない。重荷を背負うから力が出るのだ』とその先生は仰っていました。

人生には様々な出会いがありますね。嬉しい出会いもそして時には辛く悲しい出会いも…でもどんな中でも今ある条件をもっと広い大きな心で受け止めて、少しでも回りのみんなに喜んでもらえる人生にしていこうとする、そんな力が私達一人一人の中にはあるのではないだろうかとしみじみと感じさせて頂いたのです。