トンネルから中々出られない"青春鈍行列車"

出口の見えない青春から脱出すべく世界を回って見ました。その旅のつれづれをゆっくりと書いて行きます。

一期一会(4)

2015-11-22 19:00:13 | 日記
それから16年の月日が流れた、、たまたま日本へ帰った時、母が「お前に手紙が来ているよ」と一通の海外メールを私にくれた。差出人を見るとコリン バウアーとある。開けて見ると次のような事が書いてあった。
「アルバムを見ていたら赤ちゃんの私を抱いている東洋人がいた、この人は誰?と父に聞いてみると 仕事の帰りに拾ったヒッチハイカーだ、彼は日本人だ、しばらくグリンデルワルトで仕事をしていた。何回かお前を連れて訪ねた事があったよ、確か住所を書いた紙を貰ったはずだ。興味をもった私は父と一緒にその紙を探した、それは父の財布の中にあった。15年間も、、今手紙を送ります、届いたら必ず返事を下さい」そうかヨーロッパでの貧乏旅行中スイスでお世話になった
バウアーさんの赤ちゃんが高校生なって手紙をくれた、こういう事なのだ。
アメリカに帰ってからしばらくして返事を送った。グリンデルワルトを出てからの事を簡単に書いて現在は結婚して子供が二人、サンフランシスコに住んでいる等々、すぐに返事が来て手紙を受け取った喜びがそして大変大変嬉しかったと素直に書かれていた。その後何回か手紙のやりとりがあったがいつしか途絶えてしまった。
そして4年後又コリンから手紙を貰う、、


一期一会(3)

2015-11-11 19:21:09 | 日記
結論から言うとイタリヤのコモという町にあるスイス領事館でワーキングビザを取った。と私は思っていたのだが後にホテルに戻った時、支配人にビザを取った事、そしてパスポートに押されたスタンプを見せるとこれは研修ビザであることを言われた。なるほどE Uにも入っていない日本(日本人)に簡単にワーキングビザを出すはずもない、しかし堂々と仕事が出来、食事、給料、宿舎まで保障されたのだから感謝しなければ、、当時のヨーロッパは(1960年代後半から1970年代後半)特にドイツ、スイスは高度成長期にあり人手不足が問題となっており沢山の外国人労働者が来ていた。イタリヤ、トルコ、フランス、そしてイギリスからも、、そう言ったこともあって私にもすんなりとスタンプを押してくれたのだろう、私は彼らと合計一年、一緒に働いたのである。というのは冬のシーズンだけのつもりでいたのだが夏のシーズンもどうか?と言われ結局一年となった。最終的にはずーっと居ろと言われたが世界一周のつもりで出た日本、半年もたたない内にスイスで埋没では、又スイスで働くのが目的ではないし、と思い断った。時折思うのだがあのままスイス居たらどうなっていたのか、、それはさておいてホテルで働いている時バウアーさんが家族と一緒に何回か訪ねて来てくれた。
バウアーさんがいい人だったからではないが一般的にスイス人は素朴でいい人が多い、
9月にスイスを出てドイツにしばらくいてヨーロッパを回り、縁あって北アフリカにまで足を延ばす。その後アメリカに渡り帰国寸前に現在の妻と知り合い結婚しアメリカに住む事になった。