最近、『禅といっても、濃淡があるよなぁ〜・・・』なんて考えていたら、
偶然か必然か? 昨日Netflixで1994年公開映画『フォーレスト・ガンプ』をたぶん3回目(?)を久々に観て、
禅が理想とする人物像というのが、『ガンプ』のような真に愚直な人物であったことを思い出した。
だから、良寛さんにしても大愚良寛であり、鈴木大拙も大拙・・・と、『愚』や『拙』の文字を禅界では尊重しているのだろう。
果たして、フォーレスト・ガンプの『ガンプ』はアメリカ、アラバマ州の方言で『愚か者』を意味するそうで
そう言えばガンプの母親のセリフに『死は生の一部なの・・・』とは、まさに『禅の台詞』だし、
ただ黙々と数年に渡って走り続ける髭面のガンプの姿に感銘を受けた、自称弟子たちが、その後を追うシーン、
そして突然足を止め、『疲れた、もう家に帰る』・・・と、弟子たちの勝手な期待をアッサリ肩透かししたガンプの無心ぶりは痛快で笑えた。
そうしてみると、たとえば『能』の『幽玄』というような一見深淵そうな次元は、『道』で言えば、半ばのレベルであり
フォーレスト・ガンプの如き、真正の無欲無心の愚直で気取りの無い生き方こそ、禅が求め得る最高の理想形なのだと言える。
『悟り』の段階を表す『十牛図』というのが昔(中国12世紀)からあり、絵図で『悟り』の象徴としての牛を追う若者の姿を借りて表現する図があるが
第十図の『入鄽垂手(にってんすいしゅ)』は、禅僧として有名な山田無文老師によると『何もかも捨てて、素っ裸になって、町の民衆にとけ込んで、
皆と一緒に泥だらけになって暮らしてゆく。そしてそこに触れる人がみんな救われていく。それが入鄽垂手(にってんすいしゅ)だ。』と解説されて、
まさにフォーレスト・ガンプそのもののようだ。
それにしてもこの映画の中で、若き無名のエルビス・プレスリーに、かの有名なダンスの大ヒントを与えたのが、歩行補助金具をつけた
幼児期のフォーレスト・ガンプの踊りだった・・・という架空の逸話は秀逸で、さすがの私も腹を抱えて笑ってしまった。
隣町(Rolle)にある『茶の箱』という名のお茶葉や、骨董品を売っている店の一角が喫茶所になっており、
我々のお気に入りの場所での写真だが、ついカッコ付けてしまう馬骨は、無心とは程遠い・・・の図