『 摩訶般若波羅蜜多心経・・・・ (偉大なる智慧の完成・到彼岸にいたる慈愛心)
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 ・・・』
ご存知、『般若心経』の出だし2〜3行部分で、もうこのタイトルとこの数行だけを探究すれば事足りる・・・のではないか?
もし、そうであれば漢字の塊『般若心経』(262文字)、恐れるに足らず・・・であるかも。
(しかし、芭蕉の一句を覚えるように、この心経を覚えて、他の人と共に大声で唱えるダイナミックも捨てがたい・・・経験ではあった)
『AI』研究が深化して『AI用語』が産まれるたびに、馬骨流『仏教解釈』が深展するような気がするが
『AI』そのものが、『人間』の模倣であればそれは当然な事なのかもしれない。
私が最初に『ディープ・ラーニング』という言葉を耳にした時、我が愚脳は上記『般若心経』の『行深般若波羅蜜多時』をすぐさま想起したが
後に『郷』、或いは『坐』の字を探究することで、図入りでその意味を一層よく理解したように思う。
人間にはこのように、『己事究明』の道の中で、『慈愛』を教えるもう一人の自己に出会う性質を持っている。
これを仏教では『仏性』と名称し、それが『ディープ・ラーニング』であり『セルフ・ラーニング』システムなのだと思う。
人間は自己の『慈愛ディープ・ラーニング』を探究すべきであり、また『AI』の深化には『慈愛(The AI)』を忘れてはいけない。