《『塔建つるもの-宮沢賢治の信仰』(理崎 啓著、哲山堂)の表紙》
では今度は、「二、大等と法華経」という章に入るが、この章はちょっと私にはわかりにくかった。したがって、理崎氏が言おうとしているところを正しく伝えられるか全く自信がないのだが、私なりの理解で投稿してみたい。まず、島地大等についてである。同書によれば、
島地大等は明治8年、越後国中頸城郡の真宗寺に生まれた。宗門の大学林で摩訶止観などの天台教学を学び、卒業後は天台宗大学の講師となった。…(投稿者略)…二十八歳の時、盛岡・島地黙雷の願教寺に入婿となった。大正8年に東大文学部講師となり、日本仏教史を中心に華厳学や天台学などを講じ、15年には東大に印度哲学講座を開設している。当時の仏教会を代表する碩学と言っていい。
〈41p〉そうか、確かにこれならば大等は碩学だろう。また、願教寺といえば賢治と同僚だった白藤慈秀が院代となった寺だ<*1>。そして理崎氏は続けて、賢治はしばしば大等の講習会に参加して彼の講話を何度も聴いたであろう、と述べている。そして同氏は、賢治が「赤い経巻」と呼んだ島地大等篇の『漢和対照妙法蓮華経』を賢治は読んで感銘を受けたというが、それはいつかということとか、何故感銘を受けたのが法華経だったのかということを次に考察している。
<*1:投稿者註> 『こぼれ話 宮沢賢治』(白藤慈秀著、トリョウコム)70pによれば、大正15年に、
私も花巻農学校をやめて、盛岡市本願寺派願教寺の住職島地大等師の院代となって願教寺に師住し、寺院生活をすることになった。
ということである。続きへ。
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なお、ブログ『みちのくの山野草』にかつて投稿した
・「聖女の如き高瀬露」
・『「羅須地人協会時代」検証―常識でこそ見えてくる―』
や、現在投稿中の
・『「羅須地人協会時代」再検証-「賢治研究」の更なる発展のために-』
がその際の資料となり得ると思います。
・「聖女の如き高瀬露」
・『「羅須地人協会時代」検証―常識でこそ見えてくる―』
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