岩手の野づら

『みちのくの山野草』から引っ越し

「八紘一宇」と疲弊した社会

2017-11-08 14:00:00 | 理崎 啓氏より学ぶ
《『塔建つるもの-宮沢賢治の信仰』(理崎 啓著、哲山堂)の表紙》
 ではここからは、「三、智学と折伏」という章に入る。
 まず、「八紘一宇」は田中智学の造語だということは私も今まで漠然と知ってはいたが、その意味は、
 「八紘」とは世界、それを「一宇」、一つの家にするという。つまり、世界を日本の国体思想の元に統一しようというのである。
             〈58p〉
のだということを理崎氏から初めて教わった。そして、如何に私は自分がいい加減だな人間だなと反省しつつ、この「八紘一宇」と、
 世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
が通底していることを直感する。
 そして理崎氏は、
 大正末期から昭和にかけて日蓮思想が軍人や右翼などに急速にひろまったこともある。それはなぜか。第一に厭世的な念仏や閉鎖的な禅に比べて積極的、活動的で、軍人に合っていた。第二に、現実変革の思想が疲弊した社会を救えると思われたのであろう。
             〈58p〉
と見ていた。確かにその頃の日本は疲弊していた(特に、欧州大戦後の戦争景気の反動不況が都市よりも農村に深刻な打撃を与えたという)。という意味では、賢治が突発的に花巻農学校を辞めて下根子桜に移り住んだのも、このような時代背景が強く影響していたはずだ。
 それは、大正15年4月1日付『岩手日報』の記事によれば、賢治は
 現代の農村はたしかに経済的にも種々行きつまつてゐるやうに考へられます、そこで少し東京と仙台の大學あたりで自分の不足であった『農村経済』について少し研究したいと思ってゐます そして半年ぐらゐはこの花巻で耕作にも従事し生活即ち藝術の生がいを送りたいものです、そこで幻燈會の如きはまい週のやうに開さいするし、レコードコンサートも月一囘位もよほしたいとおもつてゐます幸同志の方が二十名ばかりありますので自分がひたいにあせした努力でつくりあげた農作ぶつの物々交換をおこないしづかな生活をつづけて行く考えです
と記者の取材に答えていたからだ。
 残念ながらこの記事からは、賢治は下根子桜で営為の見通しを確と持っていたわけでなければ、準備も殆どせぬままにであったということはほぼ明らかだが、「現代の農村はたしかに経済的にも種々行きつまつてゐる」という認識だけは少なくとも正しかったからだ。

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 なお、ブログ『みちのくの山野草』にかつて投稿した
   ・「聖女の如き高瀬露」
   ・『「羅須地人協会時代」検証―常識でこそ見えてくる―』
や、現在投稿中の
   ・『「羅須地人協会時代」再検証-「賢治研究」の更なる発展のために-』
がその際の資料となり得ると思います。



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