岩手の野づら

『みちのくの山野草』から引っ越し

利己的で破壊的な性癖を思想によって飼いならす

2017-11-06 12:00:00 | 理崎 啓氏より学ぶ
《『塔建つるもの-宮沢賢治の信仰』(理崎 啓著、哲山堂)の表紙》
 理崎氏は大正2年の例の「舎監排斥運動」における賢治の無茶振り等を次のように解説していた。
 大正2年、四年生の三学期には、舎監排斥運動があった。夜中に大きい音を立てて舎監を困らせたり、階段に戸を立てて上がれないようにした。賢治はこの運動の中心の一人と言われ、舎監によく議論をふっかけたという。結局、賢治を含めた四、五年生全員が退寮をさせられることとなった。
 この頃の賢治は上の者に食ってかかる反抗児で、人をあおったり困らせたりしている。困る人を見て喜んだりするのは聖人のような賢治のイメージと違いすぎる。しかし、そのどちらも真実なのである。敢えて言えば、中学時代の賢治が、生来の性格そのままなのであろう。少年期は家の教えに忠実に生きて来た、良い子を演じてきた。そのタガが外れたのがこの時期であろう。…(投稿者略)…自由人の賢治が現実など少しも斟酌せずに乱舞し始めたのである。政次郎は、自分は賢治が飛んで行かないように手綱を握っていたが、賢治が仏教を知らなかったなら始末に負えない遊蕩児になっていたであろう、と語っている。こうした欲望のままに生きる、利己的で破壊的な性癖を思想によって飼いならして晩年のような人格を作っていったのであろう
             〈34p〉
 理崎氏の解説するとおりだと私も肯んじた。それは、「羅須地人協会時代」やそれ以降の賢治の営為を知るにつけ、根っこには不羈奔放な性向がいつでも蠢いていて、今にも殻を破って飛びだしそうなことがしばしばあったと私も捉えていたからである。例えば大正15年末の約一か月間の滞京時や、昭和3年6月の上京などにおいてだ。
 しかも、晩年になっても賢治はそれを「飼いならす」ことに手こずっていて、昭和6年10月24日付の〔聖女のさまして近づけるもの〕とその10日後の11月3日付けの〔雨ニモマケズ〕における両極端とも言える賢治の精神的な振幅にもそれが見られるからである。そしてそこには、理崎氏がまさに「利己的で破壊的な性癖を思想によって飼いならして」と指摘するとおりのことがあったはずだ。
 なぜならば、この〔聖女のさまして近づけるもの〕の次に「雨ニモマケズ手帳」には〔われに衆怨ことごとくなきとき〕  
   ◎われに
    衆怨ことごとく
          なきとき
    これを怨敵
       悉退散といふ
   ◎われに
    衆怨
     ことごとく
          なし

               <『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、東京創元社)116pより>
書かれているわけだが小倉豊文はそれを書き付けた理由を次のように、
 恐らく、賢治は「聖女のさましてちかづけるもの」「乞ひて弟子の礼とれる」ものが、「いまわが像に釘う」ち、「われに土をば送る」ように、恩を怨でかえすようなことありとも、「わがとり来しは、たゞひとすじのみちなれや」と、いささかも意に介さなかったのであるが、こう書き終わったところで、平常読誦する観音経の「念彼観音力衆怨悉退散」の言葉がしみじみ思い出されたことなのであろう。そして、自ら深く反省検討して「われに衆怨ことごとくなきとき、これを怨敵悉退散といふ」、われに「衆怨ことごとくなし」とかきつけたものなのであろう。
              <『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、東京創元社)119p~より>
と見立てていて、「怨敵悉退散」とはまさに法華経観世音如来普門第二十五の偈にある有名な言葉であるというからである。

 しかも、だからといって賢治はこれ以降そのようなことはもう二度となかったのかというとそうではなく、それは例えば 昭和7年6月22日付中舘武左衛門宛書簡下書422a
   六月廿二日
  中舘武左衛門様                          宮沢賢治拝
     風邪臥床中鉛筆書き被下御免度候
拝復 御親切なる御手紙を賜り難有御礼申上候 承れば尊台此の度既成宗教の垢を抜きて一丸としたる大宗教御啓発の趣御本懐斯事と存じ候 但し昨年満州事変以来東北地方殊に青森県より宮城県に亙りて憑霊現象に属すると思はるゝ新迷信宗教の名を以て旗を挙げたるもの枚挙に暇なき由佐々木喜善氏より承はり此等と混同せらるゝ様有之ては甚御不本意と存候儘何分の慎重なる御用意を切に奉仰候。
              …(投稿者略)…
 尚御心配の何か小生身辺の事別に心当たりも無之、若しや旧名高瀬女史の件なれば、神明御照覧、私の方は終始普通の訪客として遇したるのみに有之、御安神願奉度、却つて新宗教の開祖たる尊台をして聞き込みたることありなど俗語を為さしめたるをうらむ次第に御座候。この語は岡つ引きの用ふる言葉に御座候。呵々。妄言多謝。    敬具
              <『宮沢賢治全集9』(ちくま文庫)525p~より>
の中にも垣間見られるからである。最初は「御親切なる御手紙を賜り」と慇懃に始まったと思いきや、最後はなんと吃驚「呵々。妄言多謝」ということで、さぞかし賢治は中舘をこっぴどく嘲ってみたかったのだろうが、おそらく、中舘からの来簡に対して賢治は腸が煮えくりかえっていたに違いない

 というわけで、「利己的で破壊的な性癖を思想によって飼いならす」ことに賢治は晩年まで苦労したと思われる。

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 なお、ブログ『みちのくの山野草』にかつて投稿した
   ・「聖女の如き高瀬露」
   ・『「羅須地人協会時代」検証―常識でこそ見えてくる―』
や、現在投稿中の
   ・『「羅須地人協会時代」再検証-「賢治研究」の更なる発展のために-』
がその際の資料となり得ると思います。



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