岩手の野づら

『みちのくの山野草』から引っ越し

みのりに棄てばうれしからまし

2017-11-21 10:00:00 | 理崎 啓氏より学ぶ
《『塔建つるもの-宮沢賢治の信仰』(理崎 啓著、哲山堂)の表紙》
 さて、これでこのシリーズの最後となる。
 理崎氏は賢治の絶筆短歌について次のように述べていた。
   方十里稗貫のみかも稲熟れてみ祭三日そらはれわたる
周辺の田は一面黄金色の稲が実っている。それを見るのは、賢治にとってはこの上なくうれしいことであったろう。もう一首は、
   病のゆゑにもくちんいのちなりみのりに棄てばうれしからまし
「みのり」とは「稔り」である。農村のために奔走し、そのために命を落とすのだったらうれしいと言っている、と解釈された。しかし、これは「御法」との説が出た。智学にも信仰を「みのり」と詠んだ短歌が散見される。法華経のために命を捨てるのはうれしい、というのである。最後まで賢治の人生を貫いたのは、やはり農村と法華経で一貫している。その意味ではどちらで読んでもおのれの使命をまっとうしたことになる。
            〈201p~〉
 以前の私は
   みのり=稔り   ………①
で、
   みのり=御法   ………②
については、私はよく知りもせぬのに、強引だなと思っていた。ところが、この度『塔建つるもの-宮沢賢治の信仰』を通じて理崎氏から法華経のことなどを教わったせだろうか、たしかに②もありだなと思えるようになった。それは特に「智学にも信仰を「みのり」と詠んだ短歌が散見される」という「事実」によってだ。
 そして「病のゆゑにくちんいのちなりみのりに」の「」に注意すれば、「病のゆゑに」だけではなかったということになるから、それでは他に何があるかというと、やはり「農村のために」「農民のために」もあるということは納得できた。あるいは、この昭和8年は前々年の昭和6年が岩手県全体では大冷害だったし、

前年の昭和7年の反収は昭和4年とほぼ同じだからもあまり作柄はよくなかった<*1>

            <素データ<*>は『都道府県農業基礎統計』(加用信文監修、農林統計協会)より>
のだが、この昭和8年だけは久し振りの大豊作だったから、賢治は純粋にその大豊作の「稔り」に「うれしからまし」と詠んでいたのかもしれない。

 しかしいずれにせよ、賢治の稲作指導については、ここまでの約10年間の検証作業を通じて、
   〈仮説〉賢治が「羅須地人協会時代」に行った稲作指導はそれほどのものでもなかった。
が検証に耐えていることをほぼ知ってしまった私は、その比較は客観的には
   ② ≫ ①
だったということをほぼ確信してしまった。

 その一方で、私は前者の「稗貫のみかも」については素朴に考えていて、
   稗貫のみかも=稗貫のみかもしれないな
と理解していた。したがって、
   「のみかも」の解釈として「甕説」
はちょっと強引ではないのかなと思っていたので、「稗貫のみかも」についての法華経から見た理崎氏の解釈を知りたかった。

 それはさておき、理崎氏の『塔建つるもの-宮沢賢治の信仰』のお陰で、法華経に対する拒否反応は殆どなくなったし、幾何かは法華経にについても知ることができたのでとても感謝している。

 では次回からは、同じく理崎氏の著書『大凡の日々-妹尾義郎と宗教弾圧』を通じて、妹尾義郎のことを学んでいきたい。

<*1:註> 昭和4年は下表の通り不作の年である。

            <『岩手日報』(大正15,1,28、昭和2,1,25、同3,1,22、同7,1,23より>

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 なお、ブログ『みちのくの山野草』にかつて投稿した
   ・「聖女の如き高瀬露」
   ・『「羅須地人協会時代」検証―常識でこそ見えてくる―』
や、現在投稿中の
   ・『「羅須地人協会時代」再検証-「賢治研究」の更なる発展のために-』
がその際の資料となり得ると思います。



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