岩手の野づら

『みちのくの山野草』から引っ越し

父母の反対を押し切って分骨した賢治

2017-11-15 18:00:00 | 理崎 啓氏より学ぶ
《『塔建つるもの-宮沢賢治の信仰』(理崎 啓著、哲山堂)の表紙》
 さて今度は〝五、農学校、妹の死〟の章についてである。
 基本的には、この投稿『塔建つるもの-宮沢賢治の信仰」シリーズの私のスタンスは先にも述べたとおり、理崎氏が
 難解な賢治の宗教を、伝記と共に分かりやすく解説する。
ということなので、宗教に直接関連する部分に注目して学ぶというのがすタンスである。そのため、この章においては私が投稿したいことは多くなく、妹トシの葬儀に関する次のことだけを紹介したい。
 菩提寺・安浄寺での葬儀に賢治は参列しなかった。念仏を唱える葬儀に耐えられなかったのだろう。葬列が出発すると姿を現し、柩に手を掛けながら歩いた。火葬場は火事で焼失していたので、野辺に薪が組まれ、遺体は荼毘に付され、火は一晩中燃え続けた。賢治は燃えつきるまで経を誦していた。…(投稿略)…
 大正11年、賢治は父母の反対を押し切って分骨し、静岡県美保の国柱会・最勝閣に納骨した。…(投稿略)…この時点で賢治には、法華経、日蓮に対する絶対の信仰があったことが分かる。
             〈120p〉
理崎氏はこのように賢治のことを論じていた。今までこんなことに私は注意を払ってこなかったのだが、そうか、賢治はかなり拘っていたのかと思うと共に、賢治の不羈奔放さを、あるいは頑固さを識った。「賢治は父母の反対を押し切って分骨し、静岡県美保の国柱会・最勝閣に納骨した」ということだからだ。もちろんそれは理崎氏の見立て通り、「この時点で賢治には、法華経、日蓮に対する絶対の信仰があった」からなのだろうが、今まで持っていた私の賢治のイメージとは、ここでもまたちょっと違和感を感じてしまった。

 続きへ
前へ 
 “『理崎 啓氏より学ぶ』の目次”へ。
岩手の野づら”のトップに戻る。


 なお、ブログ『みちのくの山野草』にかつて投稿した
   ・「聖女の如き高瀬露」
   ・『「羅須地人協会時代」検証―常識でこそ見えてくる―』
や、現在投稿中の
   ・『「羅須地人協会時代」再検証-「賢治研究」の更なる発展のために-』
がその際の資料となり得ると思います。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿