岩手の野づら

『みちのくの山野草』から引っ越し

国柱会の多くの会員等は「中流以上」

2017-11-12 14:00:00 | 理崎 啓氏より学ぶ
《『塔建つるもの-宮沢賢治の信仰』(理崎 啓著、哲山堂)の表紙》
 というわけで、智学は次第に眼が曇っていったということになるわけだが、理崎氏はこのことを、
 徒手空拳の青年だった頃の智学は、現実感覚は研ぎ澄まされていたが、多くの会員を擁するようになってからは現実を見る眼は曇っていく。社会的活動はしているが、現場の指揮はしていない。会員や支持者は中流以上で占められ、各地の講演も有力者や上流階級に限られて、最底辺に接する機会はなくなった。
             〈93p〉
と解説していた。
 そうか国柱会の多くの会員等は「中流以上」だったのか。そして、そうなってからは「現場の指揮はしていな」かったので眼が曇っていったのかと私は納得したのだが、同時に思い出したことは、そう言えば賢治の羅須地人協会もその会員は殆どが中農以上の農家や篤農家の青年ばかりであり、小作農等の貧農はいなかった、ということだ。そして周知のとおり、松田甚次郎に対して賢治は、
   小作人たれ
   農村劇をやれ
と迫り、
 農民として真に生くるには、先づ真の小作人たることだ。小作人となって粗衣粗食、過労と更に加わる社会的経済的圧迫を経験することが出来たら、必ず人間の真面目が顕現される。
             〈『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)〉
という賢治の強い「訓へ」だ。しかし、賢治自身はと言えば小作人になることも、自分で一枚の田圃すら耕し、稲を植え、収穫したこともなかった。どうやらこの「会員や支持者は中流以上で占められ」ということ「会員は殆どが中農以上の農家や篤農家の青年ばかり」とは通底していて、似たような構図があったから、下根子桜からのあっけない撤退に繋がったのかなとふと思ってしまった。

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 なお、ブログ『みちのくの山野草』にかつて投稿した
   ・「聖女の如き高瀬露」
   ・『「羅須地人協会時代」検証―常識でこそ見えてくる―』
や、現在投稿中の
   ・『「羅須地人協会時代」再検証-「賢治研究」の更なる発展のために-』
がその際の資料となり得ると思います。



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