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397 『宮澤賢治覺え書奥付』より

                  《↑『宮澤賢治覺え書』(小田邦雄著、弘學社)表紙》

 小田邦雄の『宮澤賢治覺え書』を読み終えて奥付きを見たならば次のようにそれはなっていた。
《『宮澤賢治覺え書奥付』(小田邦雄著、弘學社)》

 私は初めてああ当時はこんな風だったのか、と思ったのが著者小田邦雄の肩書き部分であった。そこには
   詩人
   日本文學報國會々員
   大政翼賛會北海道支部主事

とある。「大政翼賛会」という言葉ならば最近でもたまに聞くが、この「日本文學報國會」とはどんなものだったんだろか。

日本文學報國會 
 そこで、そういえば『農への銀河鉄道』の中にそのことに関したことが書いてあったはずだと思い出したので、ひもといてみた。著者小林節夫は次のようなことなどをその中で語っていた。
 それどころか「満州事変」から敗戦までの十五年戦争の間、特に一九三七年の支那事変となり、大政翼賛会がつくられると急速に戦争協力の文学・芸術家たちが増えました。
とか
 一九四六(ママ、正しくは一九四一)年十二月八日対米英開戦、二十四日に「文学愛国大会」(参加者四百人余)を開き、国家総動員体制のため「日本文学報国会」を結成することを決議しました。
あるいは
 翌年五月、社団法人「日本文学報国会」が内閣情報局主導のもとに設立されました。戦争遂行のためであることはいうまでもありません。
          <『農への銀河鉄道』(小林節夫著、本の泉社)より>
とあった。ということは
  ・1931年(昭和 6年) 9月    満州事変
  ・1933年(昭和 8年) 9月    宮澤賢治病没
  ・1937年(昭和12年) 7月    日中戦争(支那事変)
  ・1940年(昭和15年)10月    大政翼賛会結成
  ・1941年(昭和16年)12月 8日 対米英開戦
  ・1941年(昭和16年)12月24日 日本文学報国会結成決議
  ・1942年(昭和17年) 5月    日本文学報国会設立
  ・1943年(昭和18年)11月    『宮澤賢治覺え書』出版
という流れになる。
 また以前投稿したことだが小倉豊文は、「雨ニモマケズ」は
 昭和17年には、軍国主義的独裁政治の国策遂行を目的に組織された「大政翼賛会」の文化部編の「詩歌翼賛」第2輯「常磐樹」の中に採録され、当時の国民とくに農村労働力の強制収奪に利用されることにもなった。
        <『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、東京創元社)より>
とも言っている。
 そこでもう一度『宮澤賢治覺え書』を読み直してみることにした。最初読んだときには少なくともこの小田邦雄の著書において「雨ニモマケズ」あるいは賢治その人が、〝戦争遂行のため〟に利用されていることはないと思ったが、その確認のために。

〝戦争遂行のため〟の利用ありや
 さて小田邦雄の『宮澤賢治覺え書』の中に〝戦争遂行のため〟に利用されたりしているようなところがはたしてあるのだろうか。注意深く読み直してみたつもりだが、そのようのことが如実に感じ取られるところはやはりないと思った。が、あえて関連しているところといえば次のような部分かなと思ったので以下にその部分を引用してみる。
 まず第一は章「農村文化と宮澤賢治」の中で
        (1) 國民文化の方向
 國土といふ理念を、新しく地方生活の厚生の上に自覺してゆくことが、今日の國民文化確立の必須な条件である。…(略)…
 今日、大東亞戦争を契機として、新しい日本の建設が要請されつゝあるが、この推進は一に過去への自己批判と反省なくして、今日の課題にはなり得ない。…(略)…具體的にはもう一度、大地と自然に還り、風土の傳統に還り、國風の健やかな精神に素朴な息吹を悦びとすることにある。萬葉の精神ごとく、國土へのおほらかな讃歌と愛のこゝろを基調にして、働くことを創造とし、青春のもつ若い魂を國土の象徴とし、新しく自己發展を形成してゆくことなのである。現代の頽廢を回復することは、それを外にしてはないのである。
 それは政治的にも産業的にもよみがへりであり、廣汎な意味に於ける文化の課題といふことができるのである。
       (2) 宮澤賢治のモラル
 農山漁村に文化的な潤ひがなひために、文化運動として文化財の持込む方法論が一般に言はれてゐる。移動文化といふ發想が新しく取上げられて、映畫や演劇や紙芝居や指人形が村々におくられてゐるが―それが單に生活の一面的な潤ほひといふだけで、生活と勤勞に觸れた創造性に寄與せず―戰時の村落の全面的な建設がおろそかにされて、重要なとことを見のがしてしまつてゐる。農村の指導に當たる層の、所謂持込み文化の形態では次第に用をなさなくなりつゝある。これは持込むといふことの限界と、その容易な安心の上に馴れきつてしまふからであらふ。
 村落を巡歴して歩き、村の調査を主眼としたものや、生な指導原理では今日の生きた現實の基礎に遠いのである。村の本質的な文化欲求は土そのものゝ基礎を滿たすためにのみあるのである。今日は、村の立上がりつゝある息吹に、率直に耳を傾けることなのである。それほど今日は、愛のこもつた人間の心を必要とするのである。大地に根ざした文化の地盤を助長させ、それを都市生活の上に及ぼすことである。指導の方法より、學ぶ方法の探究こそ、眞に謙虚に思考されなければならない。
 この意味で宮澤賢治の自信と信念の正しい地點と、純潔な日本人として、土に信従し、獻身して逝つた激しい謙遜の跡を通過する必要があるのである。

         <宮澤賢治覺え書』(小田邦雄著、弘學社)より>
と小田は持論を展開し、いま巷間知れ渡っているのと一言一句違わない「雨ニモマケズ」をこの次に続けて掲げている。そして、それを受けて次のように同著は続ける。
 この詩「雨ニモマケズ」は特異性の烈しい宮澤賢治の作品のなかで、その普遍性と土の精神を明瞭に現したものゝ一つとして代表的である。(この作品は推敲の跡なく、小さな手帳に鉛筆で走り書きされてゐる。)
         <宮澤賢治覺え書』(小田邦雄著、弘學社)より>
さりとて、この部分がストレートに〝戦争遂行のため〟に利用されているとは到底思えない。なお、この時代は〝移動文化〟という発想で農村等に文化的な潤いをもたらそうという動きが全国的に起こっていたんだということを初めて知った。ということは、なにも宮澤賢治、松田甚次郎そして千葉恭たちだけが当時の農村の生活・文化・厚生等の向上を目指して献身していた特殊な存在だったというわけではなさそうだ。

 さて、第二は章「文化と詩人」の中の
 今日の日本は未曾有の上昇の秋である。新しい精神想像を眼前の事實としてゐる日なのである。満州爆撃に急ぐ神々の軍團に、最も美しい精神の象徴を發見するのである。
 …(略)…
 今日の世界史の轉換期の深淵にのぞみ、文化再建に出發するならば、民族の内側に流れてきた永遠の神性に結びついた、深い生活意識を持たなければならない。満州事變以後の文化的な意味を考へるならば、國土に對する新しい構想を必要とすべきである。國土といふ理念は、これら文化の観念にはつきりと自覺されねばならない。今日、叫ばれつゝある地方文化運動への要請は土に對する回歸と、國民感情に徹した青春への復活である。國土を、もう一度愛の観念により、國民の心情のなかに美しく、再生せしめることにある。

         <宮澤賢治覺え書』(小田邦雄著、弘學社)より>
などが敢えて言えば該当するのだろうか。なぜなら、小田はいわゆる「牧歌」等をこの次に載せ、それを受けて次のように語っているからである。、
 現代文化の頽廢を嘆き、土の文化再建に専心した宮澤賢治の牧歌によつて、再び萬葉時代の國土への止みがたき愛情を、美しい聲調で祝祭したので最も誇らしい、國土への愛情と、理念と夢を、今日の世代とらへ、復活せしめた。…(略)…
 世界ぜんたいが(ママ)幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない。(農民藝術概論)
 宮澤賢治の文化厚生悲願は、かゝる素朴な言葉によつて慟哭として述べられたのである。國民感情をゆする詩の位置は精神の深部によつて生まれるのである。この慟哭の心情は、國民を美の精神によつて生育せしめる。我々は人麿以後の民族歌手として國民詩人としての宮澤賢治を高いところに發見する。宮澤賢治は、國民が永い間忘却してきた高邁な民族の「詩」を甦らせ、文化の青春の故郷に戻してくれたのである。しかも日本が神の意志を八紘に顯現する日、詩人の愛について深く考へさせられるのである。

         <宮澤賢治覺え書』(小田邦雄著、弘學社)より>
とはいえ、〝戦争遂行のため〟に利用されているようなところがはたしてあると言えるのだろうだろうか。もちろん私はそこまでのことはないと思う。時流に乗って賢治の良さを喧伝しようという意図はあったにしても。

結論
 したがって小田邦雄は「日本文學報國會々員」ではあったが『宮澤賢治覺え書』を通じて、宮澤賢治やその作品を顕わに〝戦争遂行のため〟に利用しようとしていたとは言えないのではなかろうか。
 というわけでここに至って、小倉豊文の主張に対する私のここまでの論の進め方が拙くて得るものはあまりなかったと、反省する次第である。
 そもそも見直してみると小倉豊文は
 昭和17年には、軍国主義的独裁政治の国策遂行を目的に組織された「大政翼賛会」の文化部編の「詩歌翼賛」第2輯「常磐樹」の中に採録され、当時の国民とくに農村労働力の強制収奪に利用されることにもなった。
          <『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、東京創元社)>
と言っているわけであり、『宮澤賢治覺え書』に対して言っているわけではないのだから。

 とはいえこうなれば、小倉豊文の主張が妥当か否かを判断するためにも「詩歌翼賛」第2輯「常磐樹」を先ずは見てみたいものだ。

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