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街道を歩く

旧街道を中心に歩く旅日記。歩行距離は、2021年11月以降は活動量計の表示にしたがっています。

朝鮮人街道(安土~能登川)

2017年01月28日 13時21分14秒 | 街道を歩く
朝鮮人街道を安土から能登川まで歩きました。

JR安土駅。駅前には織田信長像があるはずですが、橋上化工事のためか見当たりません。



前回到達地点よりスタート。



安土駅からしばらくジグザグに北上して県道2号線に出たら東進します。



2号線より南方向を臨む。



「安土城址前」交差点を通過。



さらに北東に進みます。



街道南西を走るJR琵琶湖線を臨む。



JR琵琶湖線 安土~能登川間


東近江市に入ります。



東近江市に入ってすぐに右折して2号線から離れます。



JR琵琶湖線を跨ぐ。このあと、氷のようにツルツルの下り坂で足を滑らせて仰向けに転びました。



東近江市立やわらぎの郷公園付近にて、JR琵琶湖線と並走。



1682年創建の照峯山超光寺。表門は、もと安土城内にあった摠見寺(そうけんじ)の裏門で、1880年に超光寺に移築されたものです。重要文化財。



県道2号線につながりJRをまたぐ陸橋を臨む。右(東)方向に進むと繖(きぬがさ)トンネルです。この道路をくぐります。



繖命水(さんめいすい)地蔵尊。近くに、繖トンネルのトンネル湧水を利用した繖命水という水場があります。



JR琵琶湖線を臨む。



伊庭にある繖峰三(さんぽうさん)神社。毎年5月4日に、山上から麓まで御輿を引き下ろす「伊庭の坂下し」という荒々しい神事があるそうです。
県の選択無形民俗文化財とのこと。



繖峰三神社の近くにある望湖(ぼうこ)神社。社名は、梵語踊とよぶ祭事から転じたという説があるそうです。



望湖神社の社殿。



JR能登川駅近くの踏切前より。今日は足下が悪いのでここまでとしました。

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烏丸通

2017年01月22日 15時00分06秒 | 京都の大路小路を歩く
平安京成立期の烏丸小路を始まりとする烏丸通を歩きました。正式な読みは「からすまる」だそうです。

北大路の少し北になる今宮通と接する交差点からスタート。



スタート地点南西角のルーテル賀茂川教会はヴォーリズによる建築とのこと。



北大路通と交差。南西角に大垣書店本店、その先に大谷大学が見えます。



上京年金事務所、大垣書店などが入居するビル。



紫明通を渡る。紫明通の間にある紫明せせらぎ第四公園。



相国寺・同志社大学近くの歩道橋より烏丸通を臨む。



同志社大学の向かいにある藤井右門(うもん)宅跡。藤井右門(本名・直明、1720-67)は江戸中期の尊王論者で、
「明和事件」と呼ばれる尊王論者弾圧事件に連座して処刑されました。
右門旧宅は薩摩藩邸の向かいにあったことから、幕末には尊皇志士たちの会議連絡場所として活用されました。



同志社大学。薩摩藩邸があった場所で、幕末は薩摩藩の政治的な重要拠点でした。維新後は京都府に接収されたあと新島襄が購入。



今出川通を過ぎて京都御苑(御所)の西を歩きます。烏丸通を挟んで御所の西にあるKBS京都(京都放送)本社。



蛤御門。1864年に幕府と長州藩が武力衝突した禁門の変(蛤御門の変)の舞台となった場所です。
京都では戦火によって3万戸が焼失しました。造り酒屋だった私の祖先もこの変によって工場を焼失し廃業しました。



門の梁に残る弾痕。



御所向かいにある護王神社。和気清麻呂と姉の広虫を祭神としており、清麻呂が宇佐に配流された際、道鏡に送り込まれた刺客から300頭のイノシシが救ったとの伝説から、いのしし神社との俗称があります。狛犬もイノシシです。



菅原道真が生まれた場所にあるという菅原院天満宮神社。御所の向かいにあります。



御池通近くにある京都マンガミュージアム。



烏丸三条にあるみずほ銀行京都中央支店。第一銀行京都支店として1906年、辰野金吾設計により建築されました。



1916年、辰野金吾設計により建てられた山口銀行京都支店に入居する食のセレクトショップ・DEAN & DELUCA京都。



四条通と五条通の間にある藤原俊成の霊を祀った俊成社。



五条通。最初入社した会社の事務所が烏丸五条の近くにあり、社会人の出発点でした。
この交差点で、回送中のバスに営業車を追突させたこともあります。



東本願寺向かいにあるホテルカンラ京都。元は代々木ゼミナールでした。



東本願寺。



七条通付近にて。



京都駅が烏丸通を分断しているため、この先は地下を進みます。



アバンティの入り口近くに最近できた階段で地上の烏丸通へ戻る。



九条通、十条通を経て「久世橋通烏丸」交差点着。ここが烏丸通の終点となります。1歩60cmで8.4kmでした。



地下鉄十条駅より帰宅。

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朝鮮人街道(野洲~安土)

2017年01月20日 22時32分12秒 | 街道を歩く
安土城を経由する中山道のバイパスとして織田信長が整備した朝鮮人街道を野洲から安土まで歩きました。
街道名は、江戸時代に朝鮮通信使がこのルートを使ったことに由来します。

JR野洲駅よりスタート地点に向かいます。



浄土宗の唯心寺がある交差点よりスタート。ここから少しの間、中山道と同じルートを歩きます。



中山道と朝鮮人街道の分岐点にある行事神社の勧請縄。
勧請縄とは、悪霊が村に入ってこないようにするための結界です。毎年1月に氏子によって付け替えられます。



行事神社の隣にある背くらべ地蔵。



中山道と朝鮮人街道の分かれ道。左に進みます。この辺りは「行合」という地名ですが、2つの街道が行き合う地だからだそうです。



「野洲駅前」交差点にて、「真宗木辺派 本山錦織寺(きんしょくじ)一り」とある道標。この地点のほぼ真北にあります。
錦織寺は、『入唐求法巡礼行記』で知られる円仁が858年に創建した毘沙門堂が始まりです。



久野部跨線橋よりJR野洲駅付近を臨む。



野洲市と近江八幡市の境界である日野川に架かる仁保(にほ)橋を渡る。欄干に朝鮮通信使行列絵図が展示されています。



橋を渡り、近江八幡市十王町に入ります。



県道2号線に合流する地点にある加茂町の標示。



街道から少し外れますが、土田町にある諏訪神社。



この願成就寺(がんじょうじゅじ)がある角で街道は北から東に向きを変え、しばらく「京街道筋」を進みます。
京街道筋沿いは「京街道門前通り」として地域活性化に取り組んでいて、寺の御利益についての幟が立っていました。



江戸日本橋に店を開き、江戸前期には既に豪商として知られた伴(ばん)家の土蔵等跡地に造成された「あきんどの里公園」。
伴家11代目が東京へ移住し、当家の土地建物は近江八幡市に寄贈されました。



近江八幡市立郷土資料館(西村太郎右衛門宅址)の角にある道標。
西村太郎右衛門(1603頃~1651)は貿易事業のため安南(ベトナム)で25年を過ごし、長崎へ帰りますが鎖国後のため上陸が許されず、安南で没しました。
故郷への思いを託して絵師に描かせた絵馬(安南渡海船額)は国の重要文化財に指定されています。



左手に、市指定文化財旧伴家住宅(あきんどの里公園の隣)。右手は郷土資料館。
旧市街であるこの通りの辺りは碁盤の目状の街並みが残り、文化財も集中しています。



旧八幡郵便局。



ボーダレス・アートギャラリーNO-MA。下総(茨城県)結城に店を出し、醸造業を営んだ野間家の分家の町家を活用したものです。



三叉路に立つ「左朝鮮人街道 右八風街道いせ八日市ひの」と書かれた木の道標。
八風街道はここが起点で、武佐、八日市などを経て桑名へ出る街道です。左へ進みます。



JR琵琶湖線を臨む。



JR安土駅前の交差点。今日はここまでとしました。



駅前にある安土城郭資料館を見学しました。内部を見ることのできる20分の1スケールの安土城があります。





橋上化工事中の安土駅より帰宅。

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河原町通

2017年01月14日 19時10分29秒 | 京都の大路小路を歩く
これまでの街道とは別に、京都の道を歩いてみることにしました。
『京都の大路小路』という本にルートと起点・終点が書いてあるので、これにしたがいました。



今日は河原町通を歩きました。1590年頃から豊臣秀吉が推進した京都の大改造後に開かれた道です。
加茂街道の起点でもあった葵橋西詰をスタート。



歩き始めてすぐに、若狭街道の起点を通過する。



今出川通と交差。南西の角には出町柳の近くにあった仕事の関係先を回った際によく行ったマクドナルドがありましたが、
今はどこも入居していないようです。



関西文理学園の文字が残っていますが、実際は行政書士の事務所であるようなビル。
隣に長浜バイオ大学の京都キャンパスがありますが、これは関西文理学園が経営する大学です(関西文理学院は2010年閉校)。



志賀越道のスタート地点だった荒神橋のすぐ近くである荒神口。



丸太町通と交差。南東の角にあるびっくりドンキーにも外回り中に入ることがありました。



御池通と交差。北西にある京都市役所。



市役所向かいの京都ホテルオークラにある桂小五郎像。かつては長州藩の京都藩邸でした。



1867年に坂本龍馬・中岡慎太郎が暗殺された近江屋跡(現在はかっぱ寿司)を過ぎてすぐのところになる四条河原町の交差点。



五条通の近くにある画材を販売している画箋堂。印刷会社時代に仕事で行った記憶があります。



市比賣(いちひめ)神社。祭神がすべて女神であることから女性の守り神であり、平安時代から市場の守り神でもあります。
中央卸売市場には分社として市姫神社があります。使い終わったカードを祓い清めるカード塚というものもあります。



東本願寺の飛地境内地である庭園・渉成園の東側を歩く。



崇仁地域にある柳原銀行記念資料館。柳原銀行は、1899年、被差別の住民によって設立された日本唯一の銀行です。
明治後期の貴重な洋風木造建築物で、1997年に現在の場所に移築・復元され、資料館として開館しました。



塩小路通を過ぎて、JR在来線をくぐる。



さらに新幹線の高架下をくぐる。



阪神高速京都8号線・鴨川西ICがある河原町十条。ここがゴールとなります。1歩60cm換算で6.8kmでした。



京阪鳥羽街道駅より帰宅。

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熊野街道(切目~南部)

2017年01月09日 17時09分47秒 | 街道を歩く
昨日、熊野街道を切目から南部まで歩きました。

JR切目駅近くのトンネルをくぐるところからスタート。くぐってすぐのところにある光明寺。



ここからしばらく坂を上がります。途中にある、熊野古道とこの辺りの守護神として鎮座した若宮社遺跡。



街道より切目の田畑を臨む。



中山王子がある中山王子神社。足ノ宮とも呼ばれ、足痛を治してくれると信仰されています。
足の悪い方は芳名を記帳してくださいとありますが、急坂を登る必要があり足の悪い人には行きにくい場所です。



中山王子を過ぎると山の中を少しずつ下ります。このあたりからミカン畑が減り、梅林が増えます。



徳本上人名号碑。徳本(とくほん、1758?-1818?)は浄土宗の僧で、紀州日高郡出身です。清貧の行者として知られ、
このように「南無阿弥陀仏」と刻まれた名号碑は印南町に16基あり、巡錫した近畿・中部・関東地方一円にもあるとのこと。
この碑の辺りは熊野古道の行程だったため旅人の行き倒れや変死者が多く、その供養塔として建てられたと言われています。



瀬戸内海を臨みつつ、両側にビニールハウスがある道を歩く。



日高郡みなべ町に入ります。沿道から若干はずれた、JR岩代(いわしろ)駅近くにある岩代王子。かつては磐代とも書いたようです。



岩代王子の後ろには瀬戸内海が迫っています。



沿道にあるJR岩代駅。



岩代に入ると目立ち始める梅干し工場。「日本一 紀州梅干の里」という看板も見かけました。



しばらく坂を上がります。



さらに山道を登り、紀勢本線の下をくぐる。



トンネルを抜けたあと、砂浜(千里の浜)を歩く。



先ほど抜けたトンネルの辺りを走る電車。



千里(せんり)王子。付近の千里の浜は、『枕草子』に「千里(ちさと)の浜」として書かれるなど、文学作品に多数登場します。
千里王子は紀州藩主・徳川頼宣が復興し、現在の本殿は1776年建築。建築年代の確かな王子社として貴重とのこと。



千里王子より千里の浜を臨む。



千里王子の近くにある千里観音。本尊は厄除け観音として名高い馬頭観音とのことです。



千里観音からしばらく山道を歩き、この「南部峠の石造地蔵菩薩像」があるところで右折して下ります。
「南陪(みなべ)山」、「見那辺(みなべ)峠」とも書かれていたようです。



山を下りて国道42号線に合流し、南部川を渡る。



三鍋(みなべ)王子。かつては立派な社殿がありましたが、明治時代に鹿島神社に合祀され、跡地に小祠(しょうし)が建立されました。



JR南部駅近くの交差点。雨が止まないため、今回はここまでとしました。



南部駅より紀伊田辺駅へ向かう。



体が冷えていたため、紀伊田辺駅近くにある温泉に入ります。



紀伊田辺駅前より高速バスで帰宅。写真は京都駅八条口にて。

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熊野街道(御坊~切目)

2017年01月09日 14時11分38秒 | 街道を歩く
一昨日、熊野街道を御坊から切目まで歩きました。

新大阪より湯浅行きの快速で御坊へ向かいます。



JR御坊駅から前回到達地点に戻りスタート。



浄土宗・九品寺。ここで左折します。



日高川を渡る。



岩内にある焼芝王子神社旧跡の碑。焼芝王子(岩内王子)の跡です。



浄土真宗・圓満寺。



塩屋王子がある塩屋王子神社。祭神の一つ、天照大神の神像が美しいことから「美人王子」と呼ばれます。



王子川を渡る。



祓井戸観音(千手観音)がある西向院。
神功皇后が紀州に立ち寄った際にこの地の浜辺にある井戸でお祓いをしたため祓井戸という地名が生まれました。



国道42号線に合流し、海岸沿いを歩く。



印南町に入ります。この辺りも海岸沿いの国道42号線を歩く。



叶王子跡。願いが叶うの意から「おかのさん」と呼ばれます。



絵馬に望み、願い、夢などを一つだけ書いて祈願してくださいとのことなので、祈願しました。



印南港を臨む。



沿道の公園にある鰹節発祥の地の看板。公園内に、鰹節製造に功績を遺した印南漁民顕彰碑があります。
公園内にある説明によると、鰹節は1600年代中期に印南漁民が開発したもので、
初代角屋甚太郎が土佐で発見した鰹漁場へ通漁して、土佐に仮住まいした角屋甚太郎が鰹節を製造しました。
初代甚太郎に加えて、枕崎に鰹節製造法を伝授した森弥兵衛、房総・伊豆に伝授した印南与市の3人が顕彰されています。



印南港沿岸を歩く。



斑鳩王子跡。1109年、熊野参詣途中の藤原宗忠(むねただ)は「伊南(いなみ)」の里を過ぎて「鵤(いかるが)王子社」に奉幣したと日記に書いています。



切目王子跡がある切目神社。藤白王子、稲葉根王子、滝尻王子、発心門王子とともに最も著名な王子社とのことです。



切目川を渡る。



JR切目駅近くの紀勢本線をくぐるトンネル。今回はここまでとしました。



切目駅から宿泊先の紀伊田辺駅へ向かう。



待合室に置いてあった本。自由に読んでいいし、自宅に持ち帰ってもいいと書いてありました。
電車が来るまでに時間があったので、しばらくの間いちばん左の本を読む。



ホテルの部屋にあるユニットバスのトイレットペーパーに貼ってあったシール。

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熊野街道(湯浅~御坊)

2017年01月01日 09時39分36秒 | 街道を歩く
明けましておめでとうございます。
旧年中はお世話になりました。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

昨日、熊野街道を湯浅から御坊まで歩きました。

JR湯浅駅から前回到達地点に戻りスタート。



湯浅町にある、江戸前期の豪商・紀伊國屋文左衛門(1669?-1734?)の生誕地と推定される場所にある文左衛門の碑。



有田郡広川(ひろがわ)町に入ります。広川沿いを進む。



広川を渡る。



近隣の王子を合祀している丹賀大権現。



道標を兼ねた供養塔。1837年の飢饉による多数の餓死者の七回忌供養のため、1843年に建立。



供養塔のすぐ近くにある河瀬王子跡。かつては「角瀬(つのせ)王子」などと呼ばれていたとのこと。



峠越えの入り口あたりにある東の馬留王子跡。



立場跡(乗り物中継地)。ここから急坂のため、駕籠から牛馬に乗り換える場所でした。



鹿ヶ瀬(ししがせ)峠へ向かう途中、麓を臨む。



峠近くにある大峠の地蔵。「痔の神地蔵」「縛られ地蔵」と呼ばれ、尋ね人が見つかるようこの地蔵に縄を掛け、
見つかると縄を解くという風習が続いています。



大峠。ここで鹿ヶ瀬峠を越えます。



大峠から少し下ったところにある小峠。このあたりから500m石畳が続きます。



石畳道が終わったところにある熊野古道公園。日高郡日高町に入ります。



弁財天社が祀られている沓掛王子跡。



爪かき地蔵。弘法大師がこの地に巡錫(じゅんしゃく)した際に土地の人の無事息災を祈って岩に爪で地蔵尊を刻んだという伝承があります。



四ツ石聖蹟地。1201年、熊野参詣中の後鳥羽上皇(1180-1239)が休憩した場所。後鳥羽上皇は29回熊野参詣をしていますが、
1221年の承久の乱で隠岐に流されて当地で崩御しているので、41歳頃までに29回参詣していることになります。



西の馬留王子跡。鹿ヶ瀬峠を越えるため、この地で馬を留めたといいます。



街道から少し外れたところにある雨司神社へ向かう途中、街道を臨む。



御神体を雨司権現とも呼ぶ雨司神社。雨乞いの神として信仰されています。



内ノ畑王子跡。祀られている「ツチ金剛童子」にちなんで「槌の王子」とも呼ばれます。



内原王子神社。社内に高家(たかいえ)王子があります。



紀伊内原駅付近で紀勢本線に並行する箇所。



御坊市に入ります。台座に「左ハきみい寺(紀三井寺)道」と刻まれた道標地蔵。



御坊市に入って最初の王子である善童子王子跡(よい子神社)。



愛徳山王子跡。街道から分かれた竹藪の道を進み、竹林の開けたところにあります。



海士(あま)王子跡。海士王子に祀られていた御神体の木像は、明治時代に近くの吉田八幡神社に合祀されたときに
八幡神社近くの道成寺に移され「宮子姫」の像として祀られています。
宮子姫とは、九海士(くあま)の里(現在の御坊市)に住む夫婦が八幡神社にお祈りをしたところ授かった女の子です。
海女となった宮子姫(藤原宮子、?-754)は藤原不比等の養子となったという説があります。
文武天皇(683-707)の夫人となり、聖武天皇(701-756)の母となりました。



海士王子跡を過ぎてすぐに、JR御坊駅近くの踏切を渡る。



御坊駅近くの交差点。今回はここまでとしました。御坊駅より帰宅。



去年1年間の歩行距離は、1歩60cmとして1083.6km、180万4299歩でした。
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