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〔出かけず探訪〕幻の戦闘機『烈風』量産化ロマンの前に立ちふさがる松本市のラブホ、埋もれた格納庫──第2話。

2020年04月06日 | 日記
前回記事から続く〕
 
非常事態にこそ非常事態な時代を訪ねるシリーズ、第2話だ。日本戦国史ファンにとっちゃ所縁(ゆかり)の山城、林城跡を頂く信州松本の金華山 ───。

それが同時に1944(昭和19)年、三菱重工の疎開先「地下工場」建設地に宛がわれた"黒歴史"の舞台であることを あざ笑うかのように鎮座するラブホ……という凄まじい《歴史の混沌スポット》であることを見てきた。

後半の今回は、松本/里山辺で造られた『烈風』の機体パーツ、可児/久々利で造られた『烈風』エンジン等々…を最終的に完成機に組み上げる(ハズだった)菱重松本製作所(仮称)の令和な現在をGoogleマップでたどる。

旧陸軍 神林飛行場(俗称:松本飛行場)は現在の松本空港の北部一帯、射撃演習場を含めた広大な正方形の軍管轄ゾーンの東の縁(へり)に滑走路を敷く。

その滑走路脇に並んでいた既存の格納庫のひとつに、即席の『烈風』最終組立スペースを空ける❔算段であったようだ。まあ「艦上戦闘機」と言ったって、本土決戦になっちまえば日本列島自体が空母、山間部の盆地が甲板だかんね。陸軍的には翌年、昭和20年末には関東・濃尾・大阪など、太平洋側の諸平野は米軍の手に落ちてる戦況を想定せざるを得なかった。


仮設工場としての体を成す前に、神林飛行場には(三重の鈴鹿飛行場から)主たる『烈風』開発陣が第7試作機ともども、疎開し終えている。先の別記事でも述べたが、その中核エンジニアが東條輝雄氏と曽根嘉年氏(ともに故人)だ。

おふたりは1985年、つまり終戦40年にして松本市の取材を受け、当時の様子を市公報の記事として披露されている。取材にあたり実際に(飛行場の)跡地周辺も見て回ったようだが、さすがに40年も前の記憶……如何せん両氏とも戦後に超多忙な経済人でもいらしたため、まだ30歳そこそこだった戦中時分の(しかも3~4ヵ月という束の間の松本赴任での)記憶には随所に怪しいモノがある。

わたし自身の常日頃の実感でも、平社員と部長の30年後の記憶は、平社員の方が何倍にも正確だ。出世する部長は「終わったコトを忘れる能力」に長けてるから出世するし、出世できない平社員は「いつまでも引きずる能力」に秀でてるから出世しない。何十年も前に沈められた戦艦の記憶を掘り起こしたければ、元上官に取材するより元ペーペーの水兵に限る。彼らの多くこそが哀れ、そこで時間が停められてるゆえ「生きた化石」=「生き証人」たり得る。わたしに言わせれば、1985年の松本市(の広報記者)は、"戦争史の証言者"の人選を誤ったのだ。

たとえば前述の両氏、松本に渡った『烈風』試作機を型式A7M2(=後期型)だと言い、三沢基地に持ってかれ米軍に撮影された『烈風』こそが神林飛行場に置いてあった機体だと主張した。しかし周りの取り巻きや菱重の記録では、第7試作機は型式A7M1(=前期型)の改良タイプだったと証言したり記録されたりしてる。会社側の記録通りなら、三沢に飛んでったのは松本の機体ではない。当のふたり自身が(松本市の取材時点でも)試作機は「横須賀に向け」飛び去った…としていて、その矛盾が無意識に補完された結果か、件の『A7M2烈風』写真は「(三沢じゃなく)松本の格納庫で撮られたものだろう」、と証言し(おそらくは生涯)信じ切っておられたようだ。


両氏=元・開発トップの「口頭"述懐"記憶のあいまいさ」は、試作機の型式にとどまらない。たとえば、終戦時に「試作機が置かれていた格納庫」の位置。

おふたりが飛行場の跡地を(1985年に)散策されての取材時、「ここに『烈風』の格納庫の痕跡が…」と言って指さした(とされる)のは、私立管野小学校の南にある民家(松本市大字笹賀神戸3331-1)の塀っぽく❔黒ずんだセメント壁だ。


と見せても全体像が視えない💧 と思うので、上空からGoole Mapで描き直すと以下の赤枠ラインになる。


ところが、である。

たしかに「このゾーンに」かつて航空機の格納庫が1棟、存在したことは間違ってない。けれど、その"格納庫"は1945(昭和20)年8月15日以前に陸軍自らが(防空の観点から)破壊しており、米軍が飛行場を接収した同9月29日には(これらの一部の壁以外)更地になってた。両氏が松本に疎開してきた頃には、すでに壊したあとだった可能性が濃い。数年後に国土地理院が撮影した航空写真を(現在の)Google Mapに重ねてみても、その事実は確認できる。


てか、住宅街を散策中に両氏が「あ、ここだっ」と目ざとく視認できたのも、自分たちが(40年前に毎日のように)目にしていた「壁の残骸」そのまんまの形で残ってたせいじゃないのかあ❔❔

だから実際には、取材した記者の誤解だったって可能性もアリだ。

たとえば両氏が「ほら、この残骸も格納庫だった名残り。『烈風』とか(の航空機を かつて)置いてた」……とでも言い漏らしたのを、記者が烈風の格納庫だった』ざっくり💧理解して記事にしてしまったのかもしれない。

いずれにせよ、真の『烈風の格納庫』は、おそらく(上掲写真の)赤枠=元・更地の、そのまた北どなり───現在は小学校校舎へと生まれ変わったまさに❕その辺りに存在してたんじゃないかな。戦争史の保存的観点に立てば惜しまれる❔けれども。

ちなみに、この辺りの住宅街には至るところ「戦時中の格納庫の壁の一部」なるモノが遺されてて、そう言われないと気づかない(つか、まさか遺跡だなんて思いもしない)。どこに壁が遺ってるか❔は、戦争遺跡・旧陸軍飛行場(神林飛行場)の碑に詳し~く住宅地図入りで図示されている。そのまた一部は、何気にGoogleストリートビューでも探訪できる。今みたいな時節には「暇つぶしに回ってみる」のも一考だ。
 
シャボンネット松本(コインランドリー)駐車場の南壁も、格納庫の残骸である。


以上、"本稼働"は幻に終わった三菱重工 松本製作所の"在りし日"を偲びつつも考察してみる、の一席でしたとさ。ちゃんちゃん🎵
=了=


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