関心空域 ━━ す⊃ぽんはむの日記

元「関心空間」の日記(引っ越し後バージョン)です♪

〔出かけず探訪〕幻の戦闘機『烈風』量産化ロマンの前に立ちふさがる松本市のラブホ、埋もれた格納庫──第1話。

2020年03月29日 | 日記

自分は中京圏に住んでるが、今となっちゃ世のなかの『一億外出禁止令』的なムードはじゅうぶんに窺い知れる。戦争でもないのに、こんなことが現実になるんだから未来はいつの世も深~い霧の先だ。

さて、家にいるからにゃブログ投稿でも打つ。例によってGoogle Mapで出かけよう🎵」的な探訪記事を、2回構成でお届けする。今回の"行先"は南信の都、松本市 ──。かく記す自分も学生時代に4年暮らした、第二の故郷(❔)だ。と言っても自分は在住中、ほぼ毎日キャンパスとバイト先の往復暮らし。結局は、松本という土地のほとんど何も知らぬまま離れてしまったに等しいのだが。

数年前に他界したわたしの実父は松本から25キロほど北上した山村の出で、終戦を13歳のとき、松本の軍需工場で迎えた動員学徒のひとりだった。出身の農村は(何より)切実たる口減らしも兼ねて多くの男子を戦場に送り出したが、さすがに戦死する確度が増したんで、逆に労働力の担い手が減り過ぎた。ゆえに父の小学校時代の同級生の、その2~3割は朝鮮人だったと聞く。用水管理や農作業にさえ回す人手に事欠き、半島からの徴用労働者を家族ぐるみで村内に住まわせ、その子供には日本人学童と同じ初等教育を享けさせていたワケである。おそらく、繁忙期以外に農作業に従事するのは朝鮮人家族のうち母親くらいなもので、働き頭の父親は(もっと賃金の歩合のいい)松本辺りでの土建仕事にでも駆り出されてたんだろう。

さて。そんな経緯で出向いた「松本の土建仕事」とは、どのような労務だったか。

1944年、30年に渡って日本領であったサイパン島が米軍の手に落ちると、いっきに日本本土への侵攻=無差別空襲の刃が向けられた。国家中枢である首都圏、航空産業拠点である中京圏がこの連夜の猛火に耐え切れぬことも知れると、ここに本土決戦への最終布石「首都機能と軍需産業圏まとめての、神州(信州)への一斉大疎開計画」が発動された。

善光寺平に掘られた松代大本営はじめ、岐阜県は可児の(三菱重工)名古屋発動機 地下工場など、すべての移転(疎開)先施設は地下ないし半地下の防空壕を兼ねた造りがミニマム要求されてた。まだ原爆が広島に落とされてないもんだから、焼夷弾の雨さえ岩盤でもって防げりゃナンとか"要塞"の体を成すんじゃないかと甘い考えを抱いていた陸軍参謀ら。

かたや戦争の最末期、かのゼロ戦の後継機である『烈風』の量産型を見切る開発試作が密かに続く。

それは最終的に、陸軍の神林飛行場[※現在の松本空港付近]内に緊急疎開した菱重精鋭工らから成る、"松本製作所(仮称)"で組み上げられてた。いずれ同機の量産型が定まれば、そのエンジン以外の機体パーツ一式を神林飛行場に納入するための基幹製造ラインも、可児のエンジン工場同様、少しでも地盤の硬い近場に地下工場として掘り抜けとの無理難題が強いられつつあった。

そうして白羽の矢が立てられた地下工場掘削予定地こそが、同市里山辺(さとやまべ)地区の金華山(標高:846m)。通称、「林城跡」だった…❕

 ネット上には本山の高さを「864m」と記載するサイトも散見されるようであるが、
 846mが正しい。ちなみに手前を流れる薄川(すすきがわ)からの比高は200mほどになる。

 

ここ に写ってるのは、金華橋の北端から南方を眺めた光景。中央にデンと構える小山が金華山。麓の前面に陣取ってる白塗りの館は……あろうことかラブホテル💧。 朝鮮人徴用工らに掘らせた地下空間への坑道入り口も、このラブホの向こう側にある。

そして、それだけじゃないのだ。橋の向こう側の"たもと"の登山口から頂上にかけては……『林城跡』との通称にある通り、戦国時代の山城が在った史蹟スポットにもなっている。この山自体が、古来より「天然の石垣」。1550年(天文19)に小笠原長時が武田信玄に城を明け渡すまで約200年間、甲斐出身で信濃守護だった小笠原氏の居城だったのである。のちに長時の三男貞慶が、上杉景勝の御用聞きだった伯父洞雪斎から深志城(かつての林城の支城)を奪還し、松本城と改称する。


かくのごとく戦国時代の松本平は上杉VS武田、豊臣VS徳川の覇権争いに「小笠原氏」という駒の切った張ったで引っ掻き回されておったワケで。長時貞慶の父子は(現代でゆーなれば)共に競合大手をヘコヘコと渡り歩き、リストラや離反、昇進と左遷の社畜サバイバルを生き抜いた武将。なんで、まあまあ地味でも当世の歴史マニアの琴線には触れるのか。

いや、「地味でも」といっても実情は…。

この長時爺さんの最期に至っちゃ、おのれが盛った宴席で年甲斐もなく呑み過ぎた。あげくに家臣の若妻に対しエッチな振る舞いに出たところを家臣に見られて逆上され そのままブった斬られて生涯を閉じた……とのトンデモな逸話が伝わる。その風説がホントなら(当時としては)稀有なむっつり助平ジジイの末路。べろんべろんに酩酊中にモッコリ🍆したまま絶命たあ、オスに生まれ出でた身にゃあ本懐かよ。とき流れて今日、その由緒ある居城跡の前にどど~ん❕ と白亜のラブホが聳え立つのも無理からぬ因果だぜ💧 ってか。


そんなワケで。この山は近世の史蹟でもあり戦時遺産でもあり、おまけに現代の風俗ゾーンでもあるのだ。

たしか長野県は天下に名だたる「教育県」だったハズじゃ❔

オカしかないか、この山の暗澹たる現状を見よ。ふたつの時代にまたがり『挫(くじ)けた砦(とりで)の記憶』、まともに後世まで保存する気あんのか❔ 伝え受け継ぐ気構えは いずこ❔❔ よりにもよって入口にラブホじゃ、令和を背負って立つ小中学生諸君は近寄るな❕ と恫喝して遠ざけているよーにしか思えん。かつて治水・治山の誤りを糾すと軒昂だった田中康夫・元知事も、この山の"あるべき治めかた"までは手を付けられなかったと見える。

一方で国や自治体が不甲斐なくば、草の根や地域社会のレベルで保全や伝承に取り組もうとする有志が立ち上がるのも、ところ問わぬ世の常。

近世と戦時の"二重な"史跡を適度に配した現地ガイドブック『歴史の里 散策マップ』を制作してくださってるのは、地元町会の皆さん。林城跡への登山口に配布ポストを設置して、無償提供されておられる。ただ最近は景況キビしき折、いつまでもカラー印刷でとは行かず、先般からモノクロ版に差し替わってる様子だ。

ただま、マップ面はカラー刷りの方が幾分かでも見やすいだろう。外出自粛のこの機会に、ウェブ上の画像から手書きエディットで二昼夜……デジタル版の同マップを(低解像度ながら)描き起こしてみたのが下掲の画像だ。スマホをお持ちのかたは、ぜひご活用されたい。



小笠原氏の林城については、たくさんの研究/解説サイトや訪問レビュー記が存在するので、そちらをググって参照されたい。下って昭和、海外領地からの徴用労働者らに強いた「高難度なのに急かしまくりな」地下空間の掘削事業についても、同様に幾多の調査報告や現場立入レビュー記が上がってる。「地下工場」建造計画は結局、目論まれただけの「地底の大空間」をくり貫き切るにはホド遠く、トンネル工事で言うところの「先進抗」を縦横に張り巡らしかけたところで終戦、遺棄されている。


さて、次にだ。金華山の山腹、かのラブホ裏手の東付近からエグられた(今も残る)坑道内部には、Google Mapでバーチャル潜入とはいかない。

が同時期、山の南側=大嵩崎(おおつき)集落一帯に建造されかけていた「半地下式」の『烈風』パーツ工場群については、Google Mapの航空写真モードで(おおよその位置関係だけでも)偲ぶことが可能だ。強制労働調査団さんの"見取り図"上では ざっくりと予想建設地が描き込まれてるだけだったが、松本市の教育委員会じゃ(実に貴重な)詳細設計図を入手できてた()とみえるからだ。

件の「極秘図面」は2004年3月、松本市教育委員会より発行された松本同市文化財調査報告の文書№174───表題:『長野県松本市/林山腰遺跡Ⅱ 発掘調査報告書』の中に記載されている。その図面をGoogle Map航空写真に重ね合わせてみたのが、下の画像だ。


やたら教室程度の小広間に小分けされた、全12棟。こんな分断スペースは工場的には非効率だが、たぶん1室1室が(塹壕に平屋根かぶせて畑の土かけ戻した程度の)開削工法による仮設仕立てなんだろう。そんな安普請じゃ、大広間は対空防弾面で無理がある。支柱を何本か穿(うが)って大天井をかぶせることは可能でも、そんなんで直下に爆弾を落されたら紙切れのごとく貫通。あっけなく製造現場の全空間と全工員を失う。それが小分けなら、1棟が潰されても残り11棟の人員設備が生き長らえる💧ワケだ。

まさしく本土決戦とは、「国民総員が最前線の歩兵」との悲壮なリアルが みなぎるな。まあ異国の地に徴用されて岩山や畑を無理くり掘らされた中国人や朝鮮人(と、その妻子ら)にしたって、日本の降伏で解放され戻った母国が二つに割れる内戦に陥ろうなどとは、このときまだ知る由も無い。旧日本帝国の一気呵成な領土拡張とは、世界が米ソ間で強引に2分割されてゆく直前、東アジアの片隅から抗(あらが)い湧いた一抹の泡つぶに過ぎなかったんである。

さあ無常な想いはさておき、最後の掲載画像3枚

金華山の西麓から、大嵩崎(おおつき)集落方向をGoogleストリートビューで見上げる───半地下工場"全棟"の設営予定地が、このアングル内に収まる。かつて掘られた"壕=底面"は埋め戻され、のどかなブドウ畑等に変貌。早い話、跡形もない。こうして眺めると12棟は同一平面上に配された施設群でなく、土砂層の自然な傾斜を利用して、高低3層からなる「段々穴倉」だったらしい❔ことも窺い取れる。




次回は里山辺地区を離れ、ここで造られた『烈風』の機体パーツが(可児地下工場からの)エンジン共々、最終組立されるハズだった旧・神林飛行場(菱重松本製作所)跡へ。その痕跡や鳥瞰イメージを、今回に引き続きGoogle Mapストリートビューで訪ね巡る。ではでは
=了=

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1 コメント

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ほほう、流石ですな!! (歴史ヲタクな源頼光の子孫)
2021-03-01 20:41:06
烈風は三菱重工の制作でしたね。
私は、艦これをプレイしていますよ。

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