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映像作品とクラシック音楽 第29回『ハワーズ・エンド』

2021-08-12 13:14:00 | 映像作品とクラシック音楽
クラシック音楽が印象的な映像作品についてグダグダ語ってみるシリーズということで、今回は1992年のジェームズ・アイヴォリー監督作『ハワーズ・エンド』を取り上げてみます。この作品ではベートーベンの交響曲第5番の、それも珍しいことに第三楽章が重要な使われ方をしており、その第三楽章についての解釈も語られていたりしてクラシック音楽ファン的には興味深い作品です。
また例によって長いですが、ご興味があればお付き合いください。


今や『ハワーズ・エンド』を知ってる人は少ないように思いますが、公開当時はアカデミー賞最有力とも言われ、作品賞や監督賞にノミネートされ、エマ・トンプソンが主演女優賞を受賞、脚色賞と美術賞もとりハリウッドでは非常に高く評価されていました。
しかし同年の作品賞監督賞はクリント・イーストウッドの『許されざる者』で、作曲部門はディズニーの『アラジン』で、撮影賞は『リバー・ランズ・スルー・イット』で、主演男優賞は『セント・オブ・ウーマン』のアル・パチーノだったわけですが、こうした作品が30年たった今でも名作として語り草になる一方で、当時は絶賛された『ハワーズ・エンド』が今語られることはほとんどありません。
あの頃変にアイヴォリー監督作品にハマっていたことが懐かしく思い出され本作を取り上げてみようと思いました。

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『ハワーズ・エンド』のストーリー
20世紀初頭のイギリスを舞台に、知的中産階級で理想主義的なシュレーゲル家と現実的な実業家のウィルコックス家の2家族がウィルコックス家の別荘「ハワーズ・エンド」をめぐって繰り広げる運命的な人間模様を描いている
(Wikipediaからコピペ)

予告編
OGPイメージ

ハワーズ・エンド : 作品情報 - 映画.com

ハワーズ・エンドの作品情報。上映スケジュール、映画レビュー、予告動画。名匠ジェームズ・アイヴォリーが「眺めのいい部屋」「モーリス」に続いてE・...

映画.com

 


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思えば80年代後半から90年代前半がジェームズ・アイヴォリー監督の短い黄金時代でした。アイヴォリー監督がずっと昔から追い続けていたテーマ「伝統と格式(とそれらの崩壊)」が、ようやく実を結んでいたころです。
私はアイヴォリー監督の最高傑作は1993年の『日の名残り』だと思っています…というか『日の名残り』は私の生涯ベスト3に入るくらい好きな映画です。ただし『日の名残り』は「アイヴォリーらしさ」という観点では代表作とは言えない気がします。映画ファンは『日の名残り』を推すけど、アイヴォリーファンは推さないような気がします。

アイヴォリーらしさとは何かと考えると前述の「伝統と格式(とそれらの崩壊)」だけではなく、上手く言えないのですがある種の変態性と言っちゃ失礼ですがフェチ感みたいなものが追加スパイスとして要るのではないかと思います。
「アイヴォリーらしさ」でいえば頂点は87年の『モーリス』かと思います。
そして「アイヴォリーらしさ」と映画的面白さが絶妙にブレンドされたのは1986年の『眺めのいい部屋』で、これこそアイヴォリーの最高傑作ではないにしても代表作としていいんじゃないかと思います。

『ハワーズ・エンド』はジェームズ・アイヴォリーがこの時期集中的に手掛けていたE.M.フォスター原作もの三部作のトリの作品となります。他の二作は前述の『眺めのいい部屋』と『モーリス』になります。アイヴォリーファン的には『眺めのいい部屋』のヘレナ・ボナム・カーターと『モーリス』のジェームズ・ウィルビーが、後年の『日の名残り』のアンソニー・ホプキンスとエマ・トンプソンと共演しているのが見られて、アイヴォリー黄金期前期と後期の橋渡し的な作品に思えたり、ある意味アイヴォリー組俳優オールスター共演感が楽しめます。
しかしながら、本作で俳優として魅力を発揮できたのはエマ・トンプソンだけで、ヘレナ・ボナムもウィルビーもその程度の役回りでもったいないとか、アンソニーもハンニバルのおじさんが英国紳士してるわぁなくらいでした。もっと違った企画でこの4人(プラス『モーリス』『日の名残り』のヒュー・グラントも)の共演を楽しみたかった感がないではありません。

ちなみにヘレナ・ボナム・カーターさんですが、最近はすっかりティム・バートン映画のバケモノ女優ですが、アイヴォリー組女優だったころは可憐かつ反抗的な英国乙女でした。

それにしてもエマ・トンプソンは改めて観返してもなおその存在感は圧倒的で、コメディエンヌぶりを発揮しまくっています。よく喋るおばちゃんキャラで作品全体にいい意味でのゆるみを与えています。それまでのアイヴォリー作品にはフェチった意味での分かる奴にだけ分かる的なユーモアはいっぱいあったのですが、まっとうな意味でのユーモアはエマ・トンプソンの起用で初めて備わったように思います。彼女の起用は次作の『日の名残り』の成功にもつながります。ある意味アイヴォリー映画からアイヴォリーらしさが失われたのは、エマ・トンプソンという完成された表現者が普通の面白さをもたらしてしまったからかもしれません。ちなみに『日の名残り』以降、アイヴォリーはエマ・トンプソンは使わなくなり、また変な方向に進みだしたのです。ピカソの映画や、ジェファーソンの映画で、不思議な偉人伝記シリーズです。一旦極めた作風と決別してまた別の地平を目指したようでしたが、正直言うと映画的魅力は失われていきました。アイヴォリー映画を観ることも気にすることも無くなって10数年がたち…
割と最近になって、3~4年前ですか、久しぶりにアイヴォリーの名をアカデミー授賞式で聞きました。監督ではなく脚本家として『君の名前で僕を呼んで』でアカデミー脚色賞を受賞しました。おそらく彼にとって初のオスカー受賞でしょう。

などと、ジェームズ・アイヴォリーが好きだったあの頃を思い出して、一人ノスタルジーに陥ってしまいましたが、最初のテーマのベートーベン第五番の『ハワーズ・エンド』での使い方について書いてみます。


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ベートーベン第5番、俗称「運命」は、「誰でも知ってるクラシック音楽ランキング」なんてものがあればトップ3に入る曲ではないかと思います。あとの二つはバッハの「トッカータとフーガ」、モーツァルトの「アイネクライネ~」でしょうか?いやいや「白鳥の湖」でしょうとか、パッヘルベルのあれでしょうとか、ベートーベンでも第九やエリーゼでしょうなどと異論はあるでしょうが、まあそんな話は置いといて…
ともかく超有名なジャジャジャジャーンの第一楽章が、『ハワーズ・エンド』では前半の、音楽講義会みたいなシーンでピアノ連弾で弾かれています。なかなか大盛況な講義で客席はほぼ満席。客席の中にヘレナ・ボナム・カーター演じるヘレンと、たまたま隣に座っていた妄想好き男子のレナード(サミュエル・ウェスト)が座っています。そして講師の先生がピアノから立ち上がり、聴衆にむけてベートーベン5番の解釈について説明を始めます。

このシーンですがたしか原作では、普通に演奏会のシーンでした。映画で講師の先生が語る解釈は、原作ではヘレンだったかレナードだったか忘れましたが客席で演奏を聴く登場人物の心の声でした。
小説における心の声を、映画でナレーションにしたり、独り言にしたりして表現するのは、安易な脚色として、多くの映画作家や脚本家が避けたがります。
映画は本質的に現実しか映らない表現であり、小説にその制限はありません。多くの優れた脚本家は「心の声」という小説的表現を、写実的な音やアクションに置き換えるのです。あるいは監督が映像と演技と編集によって心の声を表現するのです。それが演出と言うやつです。
ひるがえって、『ハワーズ・エンド』で、原作における演奏会を、講義会に置き換えて説明役がペラペラしゃべるってのは、果たしてどうなのかと思います。ナレーション処理と同じじゃん…
なんだか「題名のない音楽会」公開収録の20世紀初頭イギリス版みたいな雰囲気です。そもそもこの時代にこういうイベントは沢山行われていたのでしょうか?今と違って情報のない時代なので、こういう講義会は人気があったのかもしれません。
しかもヘレンは話の途中で帰ってしまいます。いったいどうして、わざわざ音楽の講義会に来るくらい音楽好きな彼女が話の途中で帰るのでしょう?「あ、その話、前に聞いた」とか思ったんでしょうか?色々謎です。

しかし、ここで先生の口から語られるベートーベン第5番の解釈は、ありふれた論かもしれませんがなかなか面白いです。そして作品の物語に深みを与えています


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※映画より採録

(ピアニストと「講師」が連弾で第一楽章を弾いている。弾き終わり「講師」が立ち上がって聴衆に語り掛ける)

こんな説がある
ベートーベンの第5は人間の耳を貫いた最も崇高な音であると
そうです
この曲の中には壮大なドラマがあります
危機に陥った英雄が永遠の勝利に至るまでの苦闘が
それが第一楽章の展開部です
今度は第三楽章に注目してみましょう
ここには英雄ではなく妖怪がいます
弾いてください

(ピアニストが第三楽章の有名な部分を弾き始める)

孤独な一匹の妖怪が宇宙を横切る
端から端まで

(観客の一人の大学教授風の人が口をはさむ)
なぜ妖怪なんです?

(講師が質問に答える)
妖怪は否定の精神の象徴なのです
妖怪が意味するものは恐怖と空虚です

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この辺でヘレンが、間違ってレナードの傘を取って席を立ち、傘を取られて慌てたレナードがヘレンの後を追います。
会場の外はイングランドっぽく雨が降りしきっておりここで、ベト5の第三楽章(のアレンジ)が高らかに鳴ります。

第5番第一楽章のいわゆる「運命の主題」を変化させたような第三楽章のメロディです。
ヘレンとレナードの「運命的な出会い」を示唆しています。
あわせて「講師」の解釈を重ねると、「孤独な妖怪」を表現しているのです

ネタバレになっちゃいますが、妻帯者であるレナードは、後にヘレンと男女の関係になってしまいます。
ヘレンはある秘密を抱えたままレナードの前から姿を消し、レナードはヘレンを忘れることができず、夢でヘレンとの出会いをプレイバックします。その時にも第三楽章が鳴り、タタタタン・タタタタン・タタタタン…のメロディにかぶさるように、彼の安アパートのすぐ脇を走る鉄道の音が重なって目を覚まします。そしてレナードはヘレンに会うためにハワーズ・エンド荘へ向かう決心をします。

講義会で講師が言っていた「否定の精神」とは、伝統的価値観に抗うヘレンのように思えます。
第三楽章の使用は、そんなヘレンを追って破滅するレナードの未来に待ち受ける「孤独と恐怖」を示唆していると思います。

ベートーベンの交響曲の通りであれば、第4楽章の華々しい歓喜のファンファーレが待っているところですがそうはなりません。
第3楽章からアタッカでつながるはずの第4楽章には進まず、運命のいたずらは唐突に物語を急転させ、大方の登場人物にとってはバッドエンドとなってしまいます。
それは英国風の伝統の終わりを示唆し、しかしラストの「ヘレンたち」の姿には、新しい時代への希望が感じられます。

…などと書いていると、やっぱ結構よくできた映画だったんだな‥と思っちゃったりします


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本作でクラシック音楽好き心をくすぐる音楽の使い方がもうひとつあります。
オープニングとエンドクレジットで、パーシー・グレインジャー(1882~1961)というオーストラリアのピアニストで作曲家の曲が使われていることです。
オープニング、バネッサ・レッドグレイブが月明かりの中ハワーズエンド荘の庭を微笑みながら歩いている場面で、パーシー・グレインジャーの「ブライダル・ララバイ」という曲が、しっとりと美しく奏でられます。
エンドクレジットではピアノとオーケストラが軽快にダンスでもするような「モック・モリス」という曲が、これまでの重々しい雰囲気から解放するように楽しげに奏でられます。
パーシー・グレインジャーの曲をあえて使った理由はよくわかりませんが、作品の時代設定と同時代の方で、時代の空気を取り入れたかったためと推測します。

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『ハワーズ・エンド』の劇伴音楽を担当したのは、リチャード・ロビンスという作曲家で、ほぼジェームズ・アイヴォリー監督の専属作曲家です。他の監督の作品でその名を観たことがありません。
ロビンス自身が自分の務めはマーチャント・アイヴォリー・プロダクション(アイヴォリーと彼のパートナーのイスマイル・マーチャントの二人で作った制作会社)に音楽を提供することだ、と語っています。
ロビンスは『ハワーズ・エンド』と『日の名残り』でアカデミー賞にノミネートされましたが、『ハワーズ・エンド』の年は『アラジン』に敗れ、『日の名残り』の年は『シンドラーのリスト』に敗れました。相手が悪かったですね。
個人の感想ですが、『ハワーズ・エンド』はアイヴォリー作品としては、中の上ってところですが、音楽に関しては『日の名残り』を超えて最高傑作です。
『ハワーズ・エンド』のサントラアルバムは、前述のベト5のアレンジ曲や、パーシー・グレインジャーの2曲の他、ロビンスの素晴らしい劇伴曲も堪能できます。映画で聞くと内容のわりに大仰すぎる感じはしますが、サントラで聞くとクラシカルな響きがグサグサ刺さります。
今時『ハワーズ・エンド』のサントラなんて中古でも手に入るかわかりませんが…
ああ、いつかリチャード・ロビンスの映画音楽ベスト盤アルバムが発売されるといいなあ…絶対ないだろうな…

てなあたりで、また映画とクラシック音楽でお会いしましょう。


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