【改題】ひとり公論(IT公論)

アラフィフとなりIT土方卒業したのでタイトル変更しました
こちらはどちらかといえば再録中心

「全人的存在」ネタ(久々)

2014-07-09 19:31:26 | 再録
「全人的存在」ネタ(久々)
「鶏が先か卵が~」の話で、企業側が社員をただのボロ雑巾、働くロボットとみなすことなく、一人ひとりを「全人的存在」として尊重するようになるか、あるいは社員個々が自身の「全人的存在」をアゲていって経営に存在を認めさせるか。

どちらが先か? と考えると、前者のウエーブはここ数十年単位ではこないような気がします。だから、後者(我々が立ち上がるとき)だと思っているのです。

企業の、社員に対するアメとムチの使い分けは、昔よりホント、巧妙になってきましたよね。ひとりひとりを尊重するような姿勢をみせてはいるものの、それはただのポーズにすぎません。


ところで、ここ数年でコミュニケーションスキルの話題が相当ウルサく(ウザく)なってきていると感じているのですが、まず、「もっとコミュニケーションスキルを!」といってる(発信している)のは、企業側だと思います。

言葉を選ばずにいえば、企業側の「洗脳」。なぜなら、この現代社会にほどよくアジャストされた「コミュニケーション・スキル」を社員の人たちに身につけてもらわないと、企業側が困るからです。

世の中の流れとともに、「コミュニケーションスキル」の具体的な手法も変わってきましたが、企業に庇護されている社員の皆さんの中には、確かにまだ追いついていない方も散見されます。

それは皮肉なもんで、会社員が企業側が求めるコミュニケーション・スキルをキャッチアップできていない理由が、企業側が自分のところの社員を庇護していたから、というところが面白い。


そもそもコミュニケーションがとれない人材なんていうのは「全人的存在」の定義的には失格。(それはアタリマエ)コミュニケーションがとれない人材を、企業側が切りたいのも、よぉくわかります。この高度に情報化された社会で、ビジネスパートナーや部下、上司、あるいは様々なシチュエーションで相手とコミュニケーションがとれない人材というのは、現代~未来のビジネス・シーンでは「無能」に等しい。

でも人間、コミュニケーションが「とれない」わけはないのです。人間なのですから。

我々はあたりまえのように会話ができます。メールも電話もできます。それでもコミュニケーションがダメダメであると思われている方がいます。それどころか、この業界は、そういうタイプの人間が比率的に多いと思われています。(本当のところはわかりません)それはなぜか?

を、書きだすと止まらないので別な機会に譲ります。


それでは我々は、かつて先達がやってきたのと同じように、「技術力」「スキル」をプロトコルとして、有無を言わせず、外部とコミュニケーションをとることができるのか? つまり、コミュニケーションにおいて相手が媚びへつらって、我々に合わせてくれる状況が今後起こりうるのか?

といえば、もはやそれは夢物語であると思います。でも、かつては間違いなく、相手が合わせてくれていた時代が、ありました。その(我々にとっての)バブルの時代から抜け出せていない方、危機感を持っていない方が、少なからずいらっしゃるということでしょう。

我々、もはや「職人」ではないのですから。そして、職人気質を羨望するのはもう、やめましょう。それは限りなく受動的であり、21世紀のエンジニア像にはもはやそぐわないのです。


さて、企業側が求める(一見)従順な人材に、我々がアジャストしてゆくのが若干悔しい、という潜在的な抵抗感、拒否反応も、わからないでもないのです。

だって彼らは、役に立たない人材は切るぞ、といってるわけですからね。(実際切るかどうかは別)アジャストしてゆくとは、その脅しに対して媚びへつらって従属している格好といえなくもない。オモテ面ウラ面両面で進められる「リストラクチャリング」に対して、不満を抱えている方は多いでしょう。

でもそれってかなり、前時代の組合的、サヨク的思考であって。

前時代と違うのは、我々はもはや「労働者」ではないのです。

労働者でない我々の目標は、企業に媚びへつらってそこにおいてもらうことではないのです。目標はもっともっと上にあり、「従順」はやすやすと超えていかなければなりません。

使い古された言い回しを使わせていただければ、会社にとって「なくてはならない」存在になるということです。経営層から「いてくれ」「オマエがいないと困るんだよ」と頼まれる(心から)存在。経営層と個々人との(ほぼ)対等なパートナーシップです。

我々がやるべきことは、簡単にいえば、一見従順と見せつつ、やがて我々が会社をコントロールしてゆく、ということでしょう。それが冒頭に書いた

♯社員個々が自身の「全人的存在」をアゲていって経営に存在を認めさせるか。

ということです。

もっといってしまえば、全人的存在をアゲてゆくと否が応でも経営側になってしまうのです。ただしその会社に留まる決断をしたならば、ということですが。

会社という器にはまりきらずに飛び出す方も大勢出てくるでしょう。多くの人は、自分にふさわしいキャパの会社(組織)に落ち着くのでしょう。

そして、今いる会社を経営する側にまわる、という選択肢も、もちろんあります。それは、素晴らしいことです。


大きな話をすると、それぞれが「全人的存在」をアゲてゆくというのが日本復興のキーとなる。もともと日本には素養のある人間がうじゃうじゃいて、世界最高レベルであることは間違いないのですが、そこをさらに突出させて、層を厚くして、世界との差別化をはかるのです。