聖ピオ十世会 Society of Saint Pius X

キリストは勝利し給う、キリストは統治し給う、キリストは命じ給う

シヨン運動について

2017-06-02 03:38:29 | エキュメニズム関連
シヨン運動について

 教皇聖ピオ十世が書かれた、『我が使徒的職務』(Notre Charge Apostolique)という教皇文書をよく理解するために、その中で取り上げられている「シヨン」運動についてまず、見てみましょう。

「シヨン」運動とは何か

 シヨン運動(le Sillon)とは、キリスト教民主主義という考えが最も明らかに具体化したものです。フランス語で、sillon[シヨン]とは、「畝(うね)」という意味です。

 シヨンはスタニスラス校の生徒であったマルク・サンニエ(Marc Sangnier)によって生まれました。彼は裕福なブルジョワの息子でしたが、1894年から学友たちを毎週金曜日に集めて集会を開き始めたのです。裕福であるということを言わばコンプレックスに感じているブルジョワの青年達が誤った平等主義をここで習得していったのです。

 この誤った平等主義のために、例えばサンニエがトゥール(Toul)で予備の中尉として兵役をするとき、「尉官と兵士とを隔てる溝」を発見し怒りを感じています。そこで彼は軍隊と民主主義に関するおしゃべりの会を開いたりするのです。

 1894年1月10日、サンニエはル・シヨン(Le Sillon)という雑誌を創刊するのです。彼はそこでこう書いています。

「我々は、この世の生活に身を交えながらまず愛さなければならないと自覚している。それはこの世の混乱と惨めさにもかかわらず、そして、特にそのゆえにこそ、愛さねばならない。」

 こうして、シヨンは健全な判断、認識、また堅固な原理原則を確立することなく、愛と感情を育てるのです。ここでサンニエの言う愛とは、天主への愛、天主を愛するがゆえの隣人愛、また祖国愛では無いのです!ここで問題となっているのは、この世なのです。

 この世、と言うのはあいまいな言葉です。確かにこの世には、人間という哀れな、苦しみに満ちた、同情に値する被造物がいます。しかし、彼の頭のなかにあった惨めさ、混乱、というのは、本当の別の名前が付いています。それは、悪であり誤謬と呼ばれています。そして、悪も誤謬もそれ自体には、哀れみにも同情にも値しないものです。

 シヨニストたちは、既成概念をすべて軽蔑します。長い歴史をもつカトリシズムと言うものは、発明すべきものではなく、学ぶものである、と言うことをすっかり忘れてしますのです。

 シャンベリーの民主派の新聞はサンニエのした講演会について「新しいメシアが人類兄弟愛の統治を告げに来た」と書き、彼のことを「使徒」とか「新しいメシア」などとよんでいました。フォガッザロ(Fogazzaro)は「メシアたちが宗教を進展させる」とも言っていました。

 彼ら若きカトリックたちは“探求の途上に”あり、1904年には「私たちはどこに行くのか知らない」と書いています。カトリック教会の教え、教義、そんなものをかれらはガイドラインとはしようとしませんでした。彼らはどこに行くのか知らないのみならず、行ってはいけない所に行く危険が多分にありました。

 1907年には、ル・シヨンは、三千部しか定期購読数がありませんでしたが、しかしよくうわさになりました。

 彼らが言うには、「カトリシズムとはまず生活であって、宗教体験が我々のガイドである。キリストは証明されるというよりむしろ体験されるものである。」

これらすべては、プロテスタントの無秩序から出て「内的インスピレーション」という別の原理へと導かれています。

 彼らの意向はよかったかも知れません。しかし意向の善し悪しにかかわらず、誤謬は誤謬であり、その誤謬の結果がよくなる訳でもありません。

 1899年4月10日には、ル・シヨン誌のなかにこのような首を傾げさせる文章があります。

「キリスト教は常に、そしてトレント公会議の後には、かつて無かったほどに人間理性の業である。」

 シヨニストらが使った教科書は、アイルランド司教の『教会と世俗』という本です。そこでアイルランド司教は、「教会は民主主義を祝福し、それを、キリストの前における、キリストによる、すべての人間の平等、兄弟愛、自由という教会自身の原理が開花したものである」と言っています。

 シヨニストたちは、“トレント公会議以来教会は、「誤った、ずんぐりした、敵愾心に満ちた、調和の取れた」立場をとっているが、自分たちは「聖職者や、司教、また教皇の命令によってではなく、自分たちの良心と経験の光りに照らし合わせて」それの良否を決める”といっています。

 レオ13世は『共和制参加運動(Ralliement)』を唱えるのですが(教皇はそのことを後で大変に後悔します。)、この教皇についてこう言います。

「教皇は、自分の栄えある教皇職の事業のうち、人間らしいことをそして破壊されやすいところを少しずつ否定しつつあるように思われる、と言うのが率直ではなかろうか。」


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