聖ピオ十世会 Society of Saint Pius X

キリストは勝利し給う、キリストは統治し給う、キリストは命じ給う

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教皇パウロ6世はキリストの福音と正反対の考え方を持っていた

2017-06-20 16:18:36 | 公開書簡
 1976年、私はカステルガンドルフォに、教皇パウロ6世聖下を謁見しようとに出向きました。そのとき私は教皇聖下にこう申し上げました。

「聖下、聖下は今フランスに公式の奉献文が13あるのをご存じでしょうか。」

 教皇様はそのとき両腕を上にあげられ私にこうお答えになりました。

「大司教様、もっとですよ、もっと。」

 ですから、私の次の自問自答は、根拠のある問いなのです。つまり、もし典礼学者たちがラテン語で典礼文を作らなければならなかったとしたら、それほど多くの典礼文が存在していただろうか、という問いです。あちこちで印刷された後に出回っているこれら多くの祈祷文以外にも、司祭が司式の真っ最中にアドリブで作り上げる様々な祈りの文、そして「罪の悔い改め」の儀式に始まって「派遣の言葉」に終わるうちに起こる全ての変更のことも、言わなければならないでしょう。もしラテン語で司式しなければならなかったとしたら、これらのことが全て起こりうると思いますか。

 もう一つ別の外的な形式に対して猛烈な反対意見が立ち上がりました。それはスータンを着用することです。といっても、教会の中やヴァチカンを訪問するときにスータンを着ることに反対するのではなく、むしろ日常生活においてそれを着ることについての反対です。このことは本質的なことではありません、しかし、非常に重要なことなのです。教皇様がこのことを注意する度に、そして、ヨハネ・パウロ2世教皇は何度も何度も繰り返すのですが、そのたびに聖職者たちの中から怒り狂った抗議が起こりました。私はこのことについて、パリのある新聞で、ある前衛派の司祭が声明を出したと呼んだことがあります。この司祭はこう言ったそうです。

「スータンなどは、形だけの民族衣装である。・・・フランスにおいて、司祭であるとわかる服装を着るなどと言うのは全くくだらない話だ。なぜなら、道ばたで司祭を見分ける必要など全くないからだ。反対にスータンやクラージーマンは障害になってしまう。・・・司祭もその他の人と同じ人間だ。ただ司祭は聖体祭儀の座長となるだけだ!」

 この「座長」はこうして、福音に全く反対の考えを、しかも、もっとも現実的な社会生活に正反対の考えを述べていたのです。
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