聖ピオ十世会 Society of Saint Pius X

キリストは勝利し給う、キリストは統治し給う、キリストは命じ給う

6我々は、聖霊降臨運動を新しいセクト(党派)だと考えなければならない。(霊の識別:2-6)

2017-02-28 22:49:15 | 聖母マリアとその出現について
第2部メジュゴリエ

6我々は、聖霊降臨運動を新しいセクト(党派)だと考えなければならない。(霊の識別:2-6)

 歴史の中には、現代のカリスマ運動と似たものがいくつもありました。聖霊降臨派のリーダーたちが癒しを行うという「奇跡」については、歴史上異端者どもがかつてさまざまな不思議をして見せたことがあります。そして、カリスマ運動もそのうちの一つとして数えることができます。

 例えば、2世紀のモンタン(Montan)という男によって始められたモンタニズムがそうです。彼は172年頃、フリジアで脱魂し、霊に乗り移られたと称しました。脱魂のうちに、かれは予言し訳の分からぬ言葉を吐いていました。その御告げによると、彼自身、Paraclitus(慰め主)と自称していたようです。モンタンと一緒にマクシミッラとプリシッラという女性がいましたが、彼女たちも脱魂し、予言を始め、大群衆に新しい予言の教えを説いていました。モンタンは、天のイェルサレムがすぐ降臨し、選ばれたものたちが主とともに1000年間君臨すると説いていました。祈りの集会では人々は祈り予言し、異言を語りました。彼らは厳格な禁欲、度重なる長い断食、肉とブドウ酒を断つこと、独身、童貞性、迫害にあっても逃げないことなどを説いていました。しかし、アジアの司教たちは彼らの著作を調査し、会議を開き、その異端を排斥しました。教皇たちも強い態度で排斥して来ました。

 中世には、異端説を唱え、不思議な業をもって信者たちをたぶらかした多くのグループがありました。ボドワ派(Vaudois)、アモリス派(amauriciens)、自由な霊の兄弟(frere du libre Esprit)、フロールのヨアキムの弟子(disciples de Joachim de Flore)、フラティセル(fraticelles)、天主の友、ボゴミル派(bogomiles)、16世紀にはスペインでアルンブラードス(alumbrados)と言うのが出ました。彼らは明らかにイエズス・キリストの霊にも、その唯一の教会の霊にも息吹かれたものではありませんでした。彼らは、正当に、賢明に、理由があって、合法的かつ正統的教会位階によって排斥されたのです。

5カトリック信仰は聖霊降臨派のしるしと不思議なことに対し何というか。(霊の識別:2-5)

2017-02-28 22:47:34 | 聖母マリアとその出現について
第2部メジュゴリエ

5カトリック信仰は聖霊降臨派のしるしと不思議なことに対し何というか。(霊の識別:2-5)

 もし、ピオ12世の在任のときに、あるいはピオ12世以前の諸教皇の時に、カトリック信者が『聖霊による洗礼』を授けてください、と聖霊降臨派の牧師に頼もうなどと思ったら、どういうことになっていたでしょうか。

 1948年6月5日、聖省は、カトリック信者が「非カトリックの宗教儀式に、いかなる仕方であれ、能動的に出席し、あるいは参加すること」を禁じている教会法典第1258条について、再度注意を喚起しました。言わんや、プロテスタントの本質的な儀式を受けるのは厳重に禁止されていたのです。なぜなら、宗教儀式は常にある信仰、ある信念の表現であって、儀式とか礼拝様式といったものはその信仰内容と切り離しがたく結び付いているからです。

 聖霊降臨派の『洗礼』を求める、というそのこと自体、その儀式が正当なものであること、その儀式が価値をもち、効果がある、ということを前提にしなければできないことです。つまり、効果がある、ということは、その教えが正しいということを意味しているのです。

 したがって、異端の宗派に全く身を投ずるという、行為をすることによって、彼はカトリック信仰から背反し、背教することを意味しているのです。

 もう一度、この運動がプロテスタントによって、カトリック教会の中に持ち込まれたことを確認しましょう。一体誰が、この運動の創立者の第一歩に、既に背教の行為がなかったなどと言えるでしょうか?

 私たちが、我らの母なる聖なるカトリック教会の懐に洗礼の秘跡によって受け入れられるという、すばらしい恵みをいただき、この不肖なる身にかくもかたじけない名誉を授かった後に、どうして、のこのこと偽りの教会に行けるでしょうか?!

 しかも我々は洗礼という、前代未聞の極み無き恵みをかたじけのうしたばかりか、聖霊の恵みの充満である堅振の秘跡を受け、ご聖体で養われているのです。それにもかかわらず、そのほかに、新しい洗礼、新しい聖霊の賜物を、異端のセクトにどうして物乞いすることができましょうか?!それこそ、キリストとその聖なる花嫁、ローマ・カトリック教会に侮辱をはきつけることではないでしょうか。

 キリストは天主として、ご自分の花嫁であるカトリック教会を、ご自分の聖寵と真理との唯一の保管庫、分配者、として地上に創立されました。だから、聖霊が本当に現存され、実際に働かれる場所である、キリストの本当の神秘体、すなわちカトリック教会にこそ聖霊を探さなければならないはずではありませんでしたか。この救いの方舟、すなわちカトリック教会以外に、主は目に見えて、あるいは目に見えないやり方で、働かれようとは望まれませんでした。主はこの方舟を、私たちの救いのために作り、それ以外のものは一切無効とされるのです。

 聖霊降臨運動の創立者は、一体なぜ、聖霊のいないところに聖霊を探し出そうとするのでしょうか?これこそ聖霊に対する罪ではないでしょうか?忘恩の反逆の子らは、自分の受けた洗礼の恵みを無にして、キリストの真の恵みを軽蔑し、彼らの母なる真の教会によって豊かに与えられた、愛と真理の霊の賜物を侮るのです。カリスマ運動の第一歩はこの裏切りにありました。カリスマ運動の第1の行為はこの背教でした。

しかし、ルネ・ロランタン神父は、はばかりも無く「この運動の起源は模範的である[!]」と書いているのです。オコーナ神父も、「『聖霊による洗礼』の経験、カリスマの出現は、ここでも[カトリック教会でも]よそと同じく[!]聖霊が働いていることは、疑う余地はない」などと平気で書いているのです。もはやオコーナー神父にとって、この運動がカトリック教会内に始まるまでは、カトリック教会で聖霊が働いているのかいないのか疑いの的であったのです!

 この背教の第一歩を踏み出したのをご覧になったキリストのお考えは、いかがであったでしょうか。天主の御独り子は、唯一の教会の花婿にして頭は、これを見て何と思われたのでしょうか。

 預言者イェレミアはこう言う「だが、おまえたちは、そこに入ると、すぐ私の地を汚し遺産をいとわしいものと変え、主はどこにおられるかと、祭司たちも尋ねなかった。律法を学ぶ人々も、私を知らず、牧者は背き、予言者はバアルの名で預言し、役に立たぬものに従った。…私の民は自らの光栄を、役に立たぬ空しいものに取り替えた。天よ、驚け、わななき、驚愕せよ──主のお告げ──。私の民は、二重の罪を犯したのだ。我らは水だめを、ひびが入って、水のたまらぬ水桶を掘ろうとして、生きる水の泉である私を見捨てたのだ。」(2;7~8、11~13)きっとこれを感じられたに違いありません。

 何と嘆かわしい歴史上のスキャンダルか。すぐさま多くのカトリック信者は、司祭は、修道者は、修道院ごと、「聖霊による洗礼」を物乞いし始めるのです。全くカトリックの聖伝に関係ない按手をもって、機械的に、即席に、見よ!「霊の実り」を受けるのです。

 彼らはこのカトリック教会とは無関係のイニシエーションを受けた後、今世紀初頭からペンテコスタルの懐で広まっていた「霊」の感覚的・感情的体験をし、異語で話しだし、預言し、癒しを行うのです。そして彼らはこう言います。「霊が戻って来た!」と。

 「戻って来た」とは、一体何事でしょうか!アグネス・オズマンのお陰により、そしてフロレンス・ドッジに謙遜に(!)カトリック教会にも聖霊を嵐と吹かせてください、とお願いに上がったあの4人のお陰で、ついに聖霊は、戻って来た、と言うのです。この新しい力、新しい能力、1901年以来プロテスタントには吹き荒れていた「霊」は、今吹き始めたのだ!彼らはこう叫んでいるのです!!

 更に、我々は、聖霊降臨派がいくつかの点で、カトリック信仰と全く正反対のプロテスタントの教えを宣言していることを忘れてはなりません。聖霊降臨派の人々は、様々な点でカトリック信仰を非難攻撃し、カトリック信者らを愚かな狂信へと走らせていたことを指摘しなければなりません。

 たとえ彼らが異語で話しましょうと、癒しをしましょうと、はたまたその他さまざまなカリスマをもっていましょうと、彼らはご聖体に於けるキリストの現存を信じていません。いとも聖なる聖母マリアのいろいろな特権を信じていません。彼らはカトリック洗礼の有効性を拒否します。(P. H.-Ch. Chery, L'offensive des sectes, Cerf, 1954, p339, in Medjugorjie en toute verite )

 60年代以前には、ペンテコスタルのリーダーたちがする異語、あるいは癒し(それが本物の癒しであれ、単なる思い込みであれ)が、聖霊の実りである、とするカトリック神学者はただの一人もいませんでした。カトリックの聖伝によれば、聖ヴィンセント・フェリエと聖フランシスコ・ザビエルとは外国語を話す、と言う意味の異語の賜物を受けたと言われていますが、それは確実に実証できる訳ではありません。

 反対に、カトリックの祓魔師たちはこの不思議な異語の現象をよく知っていました。この点に関して聖伝の教えはほとんど一致していました。そのため、『ローマ儀式書(Rituale romanum)』は、知らない言葉で話し出すことを、悪魔に取りつかれた外的印として、その最初に挙げているのです!

4カトリック教会における聖霊降臨運動の浸透(霊の識別:2-4)

2017-02-28 22:45:58 | 聖母マリアとその出現について
第2部メジュゴリエ

4カトリック教会における聖霊降臨運動の浸透(霊の識別:2-4)

 オコーナーはこう書いています。「1966年春にさかのぼる。ペンシルバニア州ピッツバーグのデュケーヌ大学(あたかも聖霊修道会士の経営する)で、2人の平信者学生が、いろいろな典礼・黙想・布教的活動に活躍していた。しかし二人とも努力の結果に失望し、初代の信者がしたように力強く福音をのべる才能がなさそうに思えて、びっくりした[ママ]。二人は、互いに祈り合って、聖霊の賜物にみたされるように約束し、毎日、聖霊降臨のミサの続誦を唱えるように協定した。…二人はこの年[1966年]の間ずっとこの祈りをつづけた。その結果何が起こったかの詳述は割愛するが、本書のねらいからいって、ここでは、約20人の学生や職員が、生活上深刻な宗教的変革を経験したというだけにとどめておく。彼らはことに、活けるキリストの真実の親身な接触に入った。この事件はまた、初代教会に見られたようなカリスマ特能的活動の姿によって特徴づけられた。かれらの多くは、異語の賜物をうけ、数人はほかの賜物(予言、知的洞察力、祓魔の力など)をもうけた。この経験は67年2月におきたものだが、その結果小さい祈祷団が結成された。…(同書8~9頁)」そしてオコーナーは「この経験」が起こった「67年の春こそ、恩寵のめぐみの春であった(同76頁)」といいます。

 このオコーナーの文章ではあまり詳しくは分かりませんが、ルネ・ロランタン(Rene Laurentin)神父はその著書『カトリックにおける聖霊降臨運動、危険と将来』(Pentecotisme chez les catholiques, risques et avenir, Beauchesme, 1975, p13, in Medjugorje en toute verite)のなかで、それはデュケーヌ大学(聖霊修道会によってピッツバーグに創立された)で、1967年1月20日に起こった、と書いています。ロランタン神父は公会議の直後、聖霊降臨運動のカトリック教会内で発生したまさにその年、つまり1967年の8月8日『時の印』を求めて、前掲書の著者であるエドワード・オコーナーと会談をしている神父です。

 このロランタン神父によると、1966年の8月、デュケーヌ大学の平信徒の教授たちは、クルシリオ(cursillos de cristianidad、小林訳では、クルセーヨまたは「キリスト教短期新式黙想会」)に参加し、この運動で、生き生きとした信仰を見つけだすことができるだろうと期待していました。彼らは典礼運動、宗教統一運動、使徒職、平和運動などの参加を試みましたが、どれにも失望したからでした。

 同書に語られる「2人の平信徒学生」と言うのは多分にケヴィン(小林訳ではキーバン、時にはキーベン、あるいは、別のところでは、やはりケヴィンと訳されている)・ラナガンとドロシー・ラナガン(Kevin & Dorothy Ranaghan)ですが、彼らの語るところによると、これらの運動は、空っぽで、ダイナミズムに欠き、祈りの生活と行動に力を失っているように思えたそうです。

 このクルシリオの間、教区の学生達の責任者であるスティーヴ・クラーク(Steve Clark)とラルフ・マルティン(Ralph Martin)と出会うのです。スティーヴは、ある1冊の本を読み、その本のことばかり考えていました。スティーヴは、皆にその本を読むように強く進めるのです。それはウィルカーソンの『十字架と飛び出しナイフ』と言う本でした。これは、デイヴィッド・ウィルカーソンという聖霊降臨派の牧師の自伝です。この大学の教授たちはこの本を読み、クルシリオに欠けていたものを、まして伝統的カトリックのやり方に欠けていたものを見つけた、と思いました。それは、聖書であり、聖霊であり、カリスマでした。2カ月間もの間この牧師の本は彼らの祈り、分かち合いの土台となった。彼らは自分の人生の終わりまでにはこのようなものを得たいと願うようになっていた。彼らの1人、ラルフ・カイファー(Ralph Keifer)は、そのときもう一つ別の本を見つけだす。それは、ジョン・シェリル(JohnSherill)の、『彼らは異語で話す』と言う本であった。この本にはどうしたら霊の経験をすることができるか実際的な手段や方法が書かれていた。彼らは、ウィルカーソンが持ていたように思われるこんな力が必要だと気が付くようになって行った。どうしたらこの「力」が受けられるのか。ラナガンによると、その4人の神学の教授がいろいろな可能性を検討したという。まず、カトリックの祈りで聖霊を呼び求めつつ祈り続ける? 彼らは既にやってみた。それはオコーナーの本にも書いてある通りである。しかし彼らはそれはうまく行かなかったという。やってもやっても駄目だ!と愚痴をこぼすのである。では互いに按手し合ったらどうか。しかし彼らにはどうもそれが最善の方法とは思われなかった。結局、もっと別のところに行かなければならないのではないでしょうか?彼らの頭の中にあったのはだだひとつでした。聖霊降臨派の教会へ行こう!と。(「毎日、聖霊降臨のミサの続誦を唱えるように協定した。…二人はこの年[1966年]の間ずっとこの祈りをつづけた。その結果何が起こったかの詳述は割愛するが、本書のねらいからいって、ここでは、約20人の学生や職員が、生活上深刻な宗教的変革を経験したというだけにとどめておく[!]。」と、オコーナー神父は書きますが、これだけを読みますと、普通の読者は、彼らがカトリックの祈りをもってカリスマを受け取ったかのように錯覚を受けるでしょう。)

 もはやサイは投げられました。「霊の力」を求めていずこまでも。彼らはウィリアム・ルイスというエピスコパリアンの「司祭」に電話をしました。ルイス牧師はその教区の聖霊降臨を受けた女性と彼らを引き合わせるように約束します。1月6日、エピスコパリアンの教会にて第1回目の面会。1月13日、プレスビテリアン(長老教会派)の信者で聖霊を受けたフローレンス・ドッジ嬢(Miss Florence Dodge)の家で、第2回目の面会。

 彼女は、その少し前に祈りのグループを作り、ピッツバーグの百貨店で地位の高い教養ある女性であったといいます。そしてこのフローレンス・ドッジに会った1週間後に、カトリック教会の大刷新が行われたというのである!1月20日、デュケーヌ大学の2人の神学教授、ラルフ・カイファーとパトリック・ブルジョア(Patrick Bourgeois)は、彼女に「聖霊による洗礼」を頼み、この祈りのグループの「聖霊を受けた者」達の手から「聖霊による洗礼」を受けました。カイファーはこう語っています。「彼らはただ単に、霊の力がわたしのうちに働きだすように信仰宣言をするように求めただけでした。わたしは異語でかなり速く祈りました。…わたしはむしろ、どこからそんなものが私に出て来るのか、不思議でなりませんでした。」

 我々は、まずカトリック教会における聖霊降臨運動が、その創立に当たって、プロテスタントたちによって指導影響を受けたことが分かります。それだけではありません。その発展段階においても、いつもプロテスタントと一緒であったことがオコーナーの本によっても知られます。

 例えば、同年の3月13日には、レイ・バラードが「ノートルダムに形造られようとしていたカリスマ集団の一種の精神的名付け親になりました。レイ・バラードとは「実業家福音協会の[ルイジアナ州]サウス・ベンド(South Bend)班の会長」、サウス・ベンドのアセンブリイ教会カルワリオ幕屋聖堂の活動分子で教会役員をつとめている」全くの非カトリック者です。(35頁)」

 このレイ・バラードは「自宅の地階で各週祈祷集会をひらき」、3月13日月曜の夕方に9人のカトリックの信者もそこにいました。それは、ケヴィン・ラナガンとドロシー・ラガナン、バート・ゲッチ[30頁](あるいはゲッシ[36頁])とメリイ・ゲッチ、そしてその他5人の大学生でした。その夕方の為にレイは「その地区の数人のすぐれた聖霊降臨教会牧師をふくむリーダーを招いておいた」。「牧師の一人が聖霊の賜物について語り、もう一人は質問に答えたりした。それから居合わせた20人ばかりの聖霊降臨派信者がノートルダムの仲間をかこみ、かれらのために祈りはじめた。かれらは異語で祈り、数分のうちに一人また一人とついにはノートルダム仲間の7、8名も同じように異語で祈った。[!](36頁)」

 彼らは、黙想会中カトリック聖職者の指導を一切受けていませんでした。「すべてが不思議に包まれているさい指示を与えられる者はいないはずだから[!!]指導者はおかぬことにした(51頁)」のです。

 ロイ・ウィード(サウス・ベンド地区におけるアセンブリ・オブ・ゴッド教会の最大のものたるカルワリオ幕屋の牧師)を父に持つダグラス・ウィードは、カトリック信者が自分たちと同じ「聖霊」を、やはり同じく受けることができるか懐疑的でした。しかし、同年4月7日から9日にかけて、ミシガン州立大学での黙想会が、聖霊降臨のカトリック信者の強い影響を受けて開かれ、それを自分の目で確かめに来たダグラス・ウィードは「兄弟らよ、カトリック信者も[!]聖霊[ママ]を受けられるのを見て、いかほど私も喜んでいるか、とても言い表せません」と熱狂しました。

 4月14日以降、「サウス・ベンドの聖霊降臨派の教会の人々は、ノートルダムの祈祷集会に行きはじめ(72頁)」、「やがて聖霊降臨派の既存の教会の連中も、祈祷集会に参集しはじめた。ルーテル派、長老派、プレスビテリアン、バプチストなどの多数が参加した。…宗派のちがいは重大問題をもたらさず、むしろ教理の違いの下でかれらを結束する[!!]キリストの兄弟愛に気づかせた。…この間にも、聖霊降臨集団が、近くのバルパラインのルーテル派大学で盛んになってきた。それとノートルダム集団との間に、暖かい友情のきづなが生じ、お互いの祈祷集会に自分らの仲間をおくりこむようになった[!!]。…多くの宗派の信者は一緒に[=共に]神に[一体どの神に?]祈り、神を礼拝するようになり、その上、自分らの教理[異端と誤謬に満ちた自分の教理]を否定したり縮小したりすることなしに[!]、共通の神の愛、イエス・キリストの信奉によって[彼らは一体どんな信仰を、どんな信奉を持っているというのでしょうか?]そうなったのである。(73~74頁)」

 69年には、4月25日から27日にわたって「全国的[全合衆国的]と言える最初のもの」が開かれました。25〜30人のカトリックの司祭もいたそうです。

 オコーナーはこう書いています。「プロテスタントやペンテコスタル諸教会からも客員として多数出席しました。その中には、ペンテコスタル教会の主流派の最も有名な代弁者たるデビド・デュプレシスもふくまれていた。(91頁)」

3《新しいプロテスタント》の誕生(霊の識別:2-3)

2017-02-27 23:58:32 | 聖母マリアとその出現について
第2部メジュゴリエ

3《新しいプロテスタント》の誕生(霊の識別:2-3)

「これから数日の間に、同じ経験が学校内でほかの多くの生徒におこり、いち早く校外にもいいふらされた。彼らに信用されず、大いに反対された。数年の間、聖霊降臨の噂がやたらにひろがり、ことにひそひそと西南部を走った。1906年にロスアンジェルスに[黒人伝道師、パーラムの弟子であるセイモイア(Seymour)の影響の下に]新しい突発がおこり、そこから世界中につたえられることになった。……」

 しかし「この聖霊降臨を受けたものは、たいていは、嘲笑・迫害・破門によって、既成の教会から追放された。そのためかれらは、通常ペンテコスタル(聖霊降臨の)と称せられる新しい教会や宗派に結集するほかなかった。……彼らの多くも、歴史家の多くも、プロテスタントとカトリックとの中間のキリスト教界の「第三勢力」とみなしている。」彼らは、迫害を受け排斥され、新しい「神の集会(Assembly of God)」を作り上げていきました。とくに、この「新しい聖霊降臨」の使徒たちは、「癒し(healing service)」などによって大衆を引き付けました。彼らはこう言っていました。「奇跡の時代は終わっていない。既成の教会、形式主義の組織付けられたプロテスタント教会、カトリック教会では聖霊は窒息してしまった。時の終わりのキリストの光栄ある再臨を告げる最後の目覚めのときである。制度化した教会から離れた聖霊は、我らの上に戻って来た!」と。

2カリスマ運動の起源(霊の識別:2-2)

2017-02-27 23:54:59 | 聖母マリアとその出現について
第2部メジュゴリエ

2カリスマ運動の起源(霊の識別:2-2)


 エドワード・オコーナーの書いた『聖霊降臨運動 ─カトリック教会における─』(小林珍雄訳/エンデルレ書店)は、聖霊降臨運動の始まりをこう書いています。

「その[カリスマ運動=聖霊降臨運動の]主流は1901年元旦に発した。カンサス州トペカのパーラム聖書学校で、迎春のための先夜祭として信心深い祈祷会が行われた。元旦になっても『主の臨在』はまだ残り、『よりすぐれたもののため主を待ち望む心を』しずめてくれた。学生の1人オズマン嬢が、こらえられなくなって、パーラムに、新約聖書にも示されたいるように、聖霊の賜物を受け取れるように、彼女の心臓に彼の両手をのせるように頼んだ。その通りにされると、彼女はいちじるしい霊的経験をうけた。あとでかの女のいったことばをかりれば、『ちょうど活ける水の河が私の内奥の存在から噴出しているようだった』。かの女は、異語で祈りはじめ、その翌日あるボヘミア人は、かの女はボヘミア語を話していたとみとめた。……(13~14頁)」

 これが聖霊降臨運動の始まりでした。

 この運動の特徴は2つあります。

 まず一つは、「聖霊による洗礼」。第2は「異語で語る」ことです。この異語とは(異言とも言う)自動的に訳の分からない言葉で話す gossolalie と言うのと(これを異言と呼ぶのがふさわしいだろう)、普通には自分の知らないことを外国語で話す zenoglossie(これを異語と訳すのがふさわしいだろう)というのとの2つです。ここでは、自分の知らない外国語で話すという意味での「異語」でアグネス・オズマンは話し出したのです。

 しかし、この著者オコーナーはここで全く言及しませんが、よく調べて見ますと、最初の出来事は1901年1月1日と2日の間の夜、正確には午後11時に起こりました。

 メソジストの牧師であるチャールズ・パーラム(Charles Parham)は、聖書を教えるための学校をアメリカ合衆国のカンザス州に作りました。その学校はトペカ(Topeka)の家と呼ばれていました。そして、聖霊降臨運動の最初の一歩は、このトペカの家で起こりました。

 パーラムとその生徒は、現在のプロテスタント教会の活力の無さと初代教会の生命力との違いに引かれていました。『使徒行録』で語られるような初代教会の信者らの霊の現れ、特に異語などはどうして消えうせてしまったのか、とこれらは自問しました。このためにこそパーラム牧師は1901年の元旦に祈りの会を開くのです。

 すると、そこにいた学生の一人であるアグネス・オズマン(Agnes Ozman、彼女は後に結婚し、ラ・バージ(La Berge)夫人となる)は、新約聖書にあるような聖霊の賜物を受けるために、パーラム牧師に按手を願ったのです。パーラム牧師はためらいましたが、それを受け按手しました。「ちょうど活ける水の河が私の内奥の存在から噴出しているようだった」と彼女は後で言っています。これがいわゆる「聖霊による洗礼」でした。

 しかし奇妙なことに、そして非常に奇妙なことには、オズマン自身が書いた自分の体験についての記述は、見つけることが出来ないのです。この運動の創立者の書いたものだといいますのに…。何か、その記述には明らかに悪魔的なものがあるのでしょうか? ともかく、そういう訳で、この運動の起源は、少なくとも闇に包まれています。

 しかしこの我々に与えられたものを見ますと、少なくとも次のことが言えるでしょう。

 まず、この「運動」の起源には天主をさらによく愛そう、贖い主なるイエズスにもっと一致しよう、主のご受難において主キリストともっと親密に一致しよう、そのために愛によって苦しもう、などという考えのかけらもありませんでした。

 もっとひどいことに、天主様の御旨にさらに良く答えるために、天主様のみ旨をより良く生きるために、聖性において成長するために、聖寵の恵みに満たされ、清められるために、聖霊の恵みが欲しかった、などというのでもありませんでした。

 そうではない!ただ単に「聖霊を欲し、『すぐ何らかのしるしで』それを知らせるように神に願った(同書14頁)」のです。それは「こらえられなくなって」しまうので、「すぐ」に、目に見え耳に聞こえる形で、初代のキリスト者たちが持っていた特別の力が欲しかったのです。オズマンは何で私にもこの神の力が貰えないのか?と自問するのです。

 ちょうど奇跡を行う力が欲しく信者を装って、金を持って来て「按手すれば聖霊を授けられるように、わたしにもその能力をください」と言ったあの魔術師シモンとそっくりではないでしょうか!この最初の異端者、宗教詐欺師は、天主への愛などそっちのけで、ただ奇跡を行う力が欲しかったのです!

 この望みにおいて、どの霊が彼女を訪れえたかを識別するのは大変容易なことです。1901年1月1日の夜11時に機械的に按手によってすぐに叶えられたこの力への欲求に答えるのは天主様なのでしょうか?まさか!さらに言えることは、メソジストの牧師という、司祭の権能の全くないものが天主様の聖寵の運び手となることは、少しも出来ないのです。カトリック教会の洗礼や堅振と根本的に区別される「聖霊による洗礼」は、聖霊降臨運動の彼らが言うように成聖の聖寵を与えるものではなく、「カリスマ(特能)」、「異常の賜物(39頁)」を与えるものです。これが、我々が確信を持って「悪の者はサタンの力にしたがって現れ、力としるしと偽りの不思議をすべて行い、また救いに至る真理への愛を受けなかった滅びるもののために、不義の惑わしをするであろう。(テサロニケ後2;9-10)」と聖パウロの語った「サタンの力にしたがって現れ、力としるしと偽りの不思議」であると判断する根拠の1つです。