聖ピオ十世会 Society of Saint Pius X

キリストは勝利し給う、キリストは統治し給う、キリストは命じ給う

トリエントミサとは?

2017-01-17 01:28:12 | ミサについて
私たちは心から皆様をローマ・カトリック教会の聖伝のラテン語の御ミサにご招待します!

 トリエント・ミサの事を、「聖伝のミサ」とも「聖ピオ五世のミサ」とも呼びます。ここでは、「聖伝のミサ」と呼ぶ事にします。

 「聖伝のミサ」とは何でしょうか? 何故、聖伝のミサがそんなに良いのでしょうか。何故私たちは聖伝のミサにそんなにもこだわるのでしょうか。

 「聖伝のミサ」とは、記録が残っている限りにおいて世界最古の司式様式であるローマ司式様式によるラテン語でのミサのことです。このミサは教皇パウロ6世が言うとおり、「それによって無数の聖徒が天主に対する霊魂の敬虔の念を豊かに養ってきました」(使徒座憲章Missale Romanum)。このミサ(特にそのカノン)は、少なくとも千五百年の歴史をもち完全にカトリック的な性格を持っています。そして聖ピオ5世の勅令Quo Primumによって列聖されました。列聖されたというのは、教皇様が不可謬権を行使して聖であると定め法典化すること(canonise)です。

 そしてこのミサは聖ピオ5世の上記の勅令によって、自由に、合法的に、良心の呵責や罰や判決や叱責の恐れなしに、永久に捧げる義務を厳しく定められました。聖ピオ5世はさらに、この聖伝のミサをどの司祭でも捧げることが出来る永久の特許をも定めました。そしてローマカトリック教会は聖伝のミサを一度も合法的に廃止したことはありませんでした。このことは1995年シュティックラー枢機卿様がはっきり宣言したことです。シュティックラー枢機卿によれば、ヨハネ・パウロ2世教皇様によって作られた九人の枢機卿から成る特別委員会が1986年に教皇様の前で、全員一致で如何なる司教といえども、如何なる教会当局も、「カトリック司祭にトリエントミサを捧げることを禁止する権力」がないこと、「聖ピオ5世がこのミサは時の終わりまで有効であると荘厳に宣言したその言葉のために」このミサを将来如何なる教皇といえども禁止することは絶対に無いことを宣言されたのです。

 それにひきかえ新しいミサはカトリック信仰を紛れもなく明確に告白するものではありません。それは曖昧でプロテスタント的なものです。そう言いだしたのは私たちではありません。パウロ6世の下でバチカンの聖庁(Holy Office)の長官であったオッタヴィアーニ枢機卿様がまずそう指摘したのです。オッタヴィアーニ枢機卿はバッチ枢機卿と共同で新しいミサが発表されたその年にすぐにそのミサを詳しく自ら研究して、教皇パウロ6世に手紙を書きました。その手紙によれば、新しいミサは「トレント公会議の第22総会において公式化されたミサに関するカトリック神学から著しく離脱している」と厳しく警告し、新しいミサの使用を中止するように叫び声を挙げました。 新しいミサが具体的に、どんなところでカトリック的でないかということを、主にオッタヴィアーニ枢機卿様の研究を基に以下に述べます。

 まず新しいミサでは御聖体において主イエズス・キリストが、真に実際に現実に現存しているということをはっきり表明していません。

 私たちカトリック信者は、聖伝の教えに従ってキリストの聖体における肉体的物理的現存を、トリエント公会議の言葉を使えば、御聖体に私たちの主が真に現実に実体的に(vere realiter substantialiter)現存され給うことを信じています。しかし新しいミサはその総則でキリストの現存を言及して、まず「わたしの名において、二、三人が集まるところには、その中に私もいる」(マテオ18:20)という神秘的現存を取り上げています。そして、「ミサの祭儀において、キリストはその名のもとに集まっている集会の中、奉仕者の中、御言葉の中[聖書を読むこと]に、現実に」、主が現存されるという神秘的現存を語り、それと混同して最後に「またパンとぶどう酒の形態のもとに本体のまま現存される」と説明しています(総則第7条 28ページ)。

 また、聖伝のミサでは単なる信仰や言葉だけでなくそれを実際の行動に表していました。例えば古いミサでは、イエズス様の現存への信仰の表明と礼拝の為に、司祭は聖変化した御聖体を触れるたびに頻繁に跪きました。そして聖伝によると聖変化の後は司祭は親指と人差し指を付けて、聖体拝領の後のカリスの中で指を浄めるまで付けたままでした。それはこの指についた御聖体の粉が変なところについて主の御体が涜聖を受けないためでした。何故ならカトリック信仰によってホスティアの粉もパンである限り主イエズス・キリストの真の御体であるからです。しかし、新しいミサではそれらの跪きはほとんど無くなりました。司祭は聖変化した御聖体を触れた後も指も開いたままですし、その手でミサ典書のページをめくったりあちこちに触ったりします。ですから御聖体拝領後の「指の浄め」もなくなりました。あたかも祭壇の上に真の天主様がいるのを無視し、天主様の現実的現存を信じていないかのようです。

 昔は至聖なる我が主の御体を、聖体拝領台に跪いて舌で恭しく受けました。侍者は司祭の脇に聖体拝領盆を持って立ち御聖体が誤って口から地面に落ちるのを防いでいました。また聖体拝領台にはしばしば白い綺麗な布がついており、御聖体が誤って落ちてしまったとしてもその布で受け取り床に落ちてそそうのないように、厳重な注意を払っていました。これらは御聖体が私たちの主イエズス・キリストの真の御体であるというカトリック信仰の表明であり、論理的結論だったのです。しかし今ではただのパンであるかのように立ったまま手で受けるし、時には手で摘んで食べます。これは私たちのカトリック信仰にとって最も大きな無言の攻撃です。私たちは踏み絵を踏まされているこのようです。つまり、たとえ言葉では私たちの主の現存を否定しなかったとしても、態度でははっきり主の現存を否定しているからです。

 さらに、新しいミサはミサが贖罪のいけにえであるということを暗黙のうちに否定しています。古いカトリックのミサでは、その祈祷文や、会衆には聞こえないようになされる沈黙のうちの聖変化などによってミサが真のいけにえであり「神秘玄義の挙行Peractio Mysterii」であることを意味していました。トリエント公会議によるとカトリック教会の最高の祭祀であるミサは、旧約のマラキアの預言を成就させたものだったのです。つまり「万軍の主は言い給う、私はお前たちに心をおかず、お前たちの捧げものをもはや受け入れないだろう。日の出ずるところから日の沈むところまで異邦の民の中で私の名は偉大なものとされ、あまねく所で私の名のために燔祭と祭祀が行われ、いと汚れ無き犠牲が捧げられている」(マラキア1:10ー11)。この預言で語られている祭祀Minchahを満たすものは、旧約の祭祀でもなく、一般的な善業でもなく、十字架上の流血祭でもなく、カトリックの聖伝のミサのみです。なぜならミサとは旧約のユダヤ人のいけにえに変わる新しい永久の祭祀の犠牲だからです。

 トリエント公会議は厳しくこう言っています。「万一、誰かがミサ聖祭は賛美と感謝のためのものであるとか、十字架上の祭祀の単純な記念に過ぎず、贖罪祭ではないとか、言ったとすると、あるいはまた、ミサ聖祭は聖体拝領する者だけに有益なものに過ぎず、生ける者と死せる者とのための罪と罰と贖罪とまたその他の必要とのために捧げられるものではないと言うものがあったとすると、彼は排斥される」と。

 ところが新しいミサの総則にはミサの定義として「主の晩さん、つまりミサは、聖なる集会の儀、すなわち主の記念を祝うために司祭を座長として1つに集まった民のための集会である」(総則第七条)とだけしかありません。新しいミサは単なる「主の記念」でしかなく、聖変化の言葉もホスチアを聖変化させるものとしてミサ典書に印刷されているのではなく、単なる序述として、つまり物語として記されています。新しいミサが出来たときプロテスタントの人々は、ついにカトリックは新しい奉献文(聖伝のミサで言う「典文」)を作り「ミサが天主に捧げられるいけにえなどと言う間違った見解を放棄した」(La Croix 12/10/69)と言ったほどです。

 そのために、新しいミサの総則の中で「祭壇」という言葉は使われずに「食卓」(ラテン語でmensa)という言葉が使われています。また、ミサのために今までは義務であった聖別された祭壇石と聖遺物が不要とされました。新しいミサの総則によるとミサを挙式するのは祭壇でではないからです。祭壇布も、以前は御血をこぼしたときに涜聖を受けないように3枚あったのですが、新しいミサでは食卓クロスのように1枚だけになりました。

 また、新しいミサはカトリックの司祭職に対して暗黙のうちに反対しています。トリエント公会議の公教要理によれば、司祭は天主と人々との仲介者で、一般信者の上に立つ人です。何故かというと、カトリックの司祭という方は特別の叙階の秘蹟を受けた方で、天主に属する人(Man of God)、平信徒とは秘蹟的に区別された方なのです。秘蹟的に区別されたということは、目には見えないけれども司祭の霊魂には、平信徒の霊魂には無い「永久に消すことの出来ないキリストの司祭職の刻印sigilium」が刻まれ、それによって超自然の現実において全く区別されているということです。ですから有効なカトリックの叙階の秘蹟を受けた司祭だけがミサを挙式することが出来るのです。ですから教会史をみると私たちのカトリックの先祖は、迫害の最中でも、司祭がミサを捧げて下さるのを待ち、本当のカトリック司祭を探し、司祭から秘蹟を受けたのです。そして司祭は死の危険を冒してまでも、信徒に御聖体を授けるためにミサを挙行し、聖体を拝領させていたのです。

 トリエント公会議はこう言明しています。「万一誰かが『この儀式を私の記念のために行いなさい』と言うお言葉によってキリストが使徒たちを司祭にたてたのではないとか、またはこのお言葉によって使徒とその他の司祭たちが御自分の御体と御血を捧げるために命じたのではないとか、言ったとすると彼は排斥される」と。

 カトリックの聖伝のミサでは、この信仰をよく見ることが出来ます。何故なら司祭と平信徒との差違がはっきりしているからです。例えば以前は、ミサの最初に司祭は、平信徒とは別に単独で告白の祈りをし、司祭だけが祭壇に昇り、司祭だけが書簡や福音を読み、司祭だけが説教し、司祭だけが御聖体を聖変化させ、司祭だけが御聖体に触れるという特権を持ち、司祭だけがカリスから御血を飲んでいました。何故なら司祭はこの世とは区別された、天主の人なのだからです。そしてミサにおけるこのような区別は、私たちのカトリック信仰の純粋な現れだったのです。

 しかし新しいミサではこのような区別はほとんど無くなっています。新しいミサでは司祭は単なる「座長(プレジデント)」でしかありません(総則第七条)。これはちょうど、平信徒と何ら変わらないのだけれども選ばれて牧師になり信徒会衆の座長となるプロテスタントの牧師の役割と同じ考えです。政治の世界で、人民投票で選ばれた大統領(プレジデント)も普通の人と変わらないけれどもたまたまその大統領の役割を担っただけであるのと同じです。そうして「聖職位階という叙階の秘蹟による司祭職」と、洗礼を受けた人が持つ「共通司祭職」とを混同させてしまっています。そうすることによって新しいミサでは「会衆が司祭と共同でミサを捧げる」という考え方を伝えています。しかし、これはカトリックの司祭職とは全くかけ離れた考え方です。

 さらに新しいミサでは司祭は自分の独創性と創造性を生かして、自分の好みのままに典礼を勝手にいじることが出来ます。これは新しいミサの精神に沿えば沿うほど合法的なことです。ルター派の礼拝の中の「信徒の祈り」は新しいミサの「共同祈願」となってカトリックの新しいミサの中に導入されています。こうして会衆が全員司祭であるというルターの異端に従っています。更に平信徒は男も女も教会の至聖所に侵入し、聖書朗読をしたり、時には説教し、御聖体でさえも配っています。しかし聖書を読んだり説教するということは、キリストの神秘体の神秘的肢体である信者に霊的に触れることですから、キリストの物理的御体に御聖体において触れるのと同様、聖伝によればこれは司祭(そして少なくとも叙階の秘蹟の一部を受けた助祭や副助祭)だけが出来ることなのです。こうして新しいミサではカトリック教会をカトリック教会たらしめる司祭職の重要性が全く否定されています。

 この新しいミサは全く人造的に作られたもので、これを制作するのに積極的に働いたブニーニ司教は、新しいミサが「根本的な刷新、完全な変更、新しい創造物」であると言っています。新しいミサが出来た当時、聖庁長官であったオッタヴィアーニ枢機卿によると、この新しいミサの非カトリック的性格のために「最良の聖職者たちの間では、新しいミサの実際的結果が、痛ましい良心の危機となっている」とパウロ6世教皇に報告したほどです。教皇パウロ6世は新しいミサが個人的には好きだったようですが、決して古いミサを廃止したり、新しいミサを強制的に押しつけたことはありませんでした。そのことについては上述のシュティックラー枢機卿が聖伝のミサが決して廃止されていないことを述べたときに、改めて確認した(*)ばかりです。シュティックラー枢機卿によれば、ヨハネ・パウロ2世教皇様によって作られた九人の枢機卿から成る特別委員会のうち八人が1986年に教皇様の前で、新しいミサが全く義務ではないことを確認しています。

 では、一体何故カトリック的でない新しいミサがカトリック教会の中に入り込み、しかもそれを捧げても良い許可を受けてしまったのでしょうか。その理由というのはこのミサが宗教統一運動(エキュメニズム)のために作られたからです。ジャン・ギトンJean Guitonと言うフランス人はパウロ6世と友好を持った人ですが、ジャン・ギトンはパウロ6世がエキュメニズムのために新しいミサを作ったというその意向を教皇から知らされていたということを、最近発表しています。

 このエキュメニズムというのは、誤った宗教を信じている人々を唯一の真の天主であるイエズス・キリストの建てた公教会に引き寄せるのではなく、カトリック教会を全ての偽りの宗教と同一レベルに引き下げ、全ての宗教を抱き込む新しい統一宗教をつくろうという運動です。このエキュメニズム運動の起源はプロテスタントにありましたが、残念ながら第二バチカン公会議の後にこの考えがカトリックの中にも侵入してしまったのです。

 例えば、新しいミサを作るにあたって、6人のプロテスタントの牧者らが積極的に働きました。この6人が教皇パウロ6世と共に写っている写真はDocumentation Catholique(フランス語のカトリック教会の公式資料集)の表紙にも載りました。典礼の専門家たちは新しいミサは英国聖公会の「ミサ」に準じていると言います。

 ですからオッタヴィアーニ枢機卿は、新しいミサは「トレント公会議の第22総会において公式化されたミサに関するカトリック神学から著しく離脱している」と厳しく警告し、新しいミサの使用を中止するように叫び声を挙げたのです。ですから上に述べたように、新しいミサは曖昧であって異端を助長するものなのです。新しいミサは、新しい「信仰」を伝達しているのです。

 新しいミサが出来たとき、多くの良き神学者、教会法学者、司祭たちは新しいミサを捧げるのを拒否し、死ぬまで拒否しました。それはノスタルジーとか懐かしいからではなく、信仰の問題だったからです。司教様の中でもルフェーブル大司教様や、デ・カストロマイヤー司教様のように、公に教会法とカトリック神学に従って新しいミサに反対を唱えた司教様たちもいました。最近フィリピンではラゾ司教様(Bishop Lazo)が、今まで新しいミサの危険性を良く知らずに新しいミサをしていましたのですが、新しいミサがカトリック信仰とかけ離れているということを詳しく研究されカトリックの聖伝のミサに立ち返っています。

 ですから私たちも天主様の聖寵に助けられて、カトリック信仰を守るために、天主様に嘉納されうる唯一の新約のいけにえを捧げるために、昔のままのミサを守っているのです。

 この御ミサについて不明な点や分からない点がある場合には、どうぞ遠慮なくご質問をして下さい。私たちはコソコソとものをするのが嫌いです。私たちのミサは誰にも大きく開かれています。誰でもこの聖伝のミサに自由に与ることが出来ます。灯火は升の中に隠しておいてはいけません。私たちにはカトリック教会の二千年の聖伝と諸聖人と教会博士、殉教者、公会議の決定、聖なる歴代の教皇様の不可謬の宣言がついています。私たちの信仰と希望と愛と勇気のもとはこれです。

 ですから私たちはより多くの方々をこの貴い聖伝のミサにご招待いたします!

日本の貴い殉教者たちはこのミサに与っていました!

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。