
(松葉城は箱根社の辺りにあった)
<松葉城>(まつばじょう)
①所在地 大治町西条字城前田
②城主 安井氏(織田伊賀守)
③大治役場前の南西辺り
『略 史』
大治町史では、現在の「西条」のバス停の東北に城址があったとしている。県道68号が124号に分かれる分岐点辺りを指す。
松葉城は天文の初め頃までは土地の豪族安井氏が居城し、その後へ織田伊賀守が入ったということになるが、遺構はない。
天文21年(1552)に清州城にいた信友の家臣・坂井大膳・川尻秀隆らに攻められ、伊賀守は深田城の織田右衛門尉とともに監禁されている。しかしまもなく萱津戦に勝利した 信長が救出、落城した松葉城は、このとき廃城になったようだ。 城址に箱根社があったというが、いま箱根社は「松葉」集落の北に移っている。
一説には、城は西条字北屋敷、圓長寺の北にあったともいうが、同寺の住職は否定しておられた。
深田・松葉の2城に居た清洲方の兵は上萱津の戦場で、清洲方の敗色が濃くなったとき、城を出て味方の助勢に駆け付けているが、信長方の軍に敗れ、降参して両城を明け渡し、清洲へ戻ってしまったと「信長記」はいう。
その後信友(彦五郎)は「安食の戦」(名古屋市北区)にも敗れ、信長の暗殺を企てるが失敗。その計画を洩らしたとして、主の斯波義統を殺したため、子の義銀が逃げて信長に庇護を求めたことにより、「主殺しをした織田信友を討つ」という大義名分を信長に与えてしまい、信長は叔父・信光とともに清洲城を攻め、遂に信友を滅ぼしてしまう。
かくて信長は、弘治元年(1555)那古野城を出て清洲城に移り、尾張下4郡を支配することになる。
(萱津合戦の項終わり)

(尾張下4郡を制した信長は清洲城に入った)復元天守
参考図書『尾張の古城』 08年刊 B5版360ページ
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