英字新聞

読売、毎日、朝日各社英字新聞の主として社説を学習研究します

パタヤに移動

2010-03-29 09:59:00 | OCNカフェ
ラヨーンのメーラムプンビーチでのんびりと過ごしていたらあっという間に1週間が過ぎてしまいました。
ビーチで海水浴したりホテルのプールで泳いだりしたり、とてもゆっくりとできました。
ここは静かでとても過ごしやすいですが、良いレストランが無いのが欠点です。
車で10キロほど離れているラヨーンの市街に出かけて日本のラーメンを食べていました。
子供たちはKFCでフライドチキン、swensenでアイスクリームを食べていました。
日本食が恋しくなったのでパタヤに移動しようかと思っています。
ここからわずか70キロの距離にあります。
(続き)
昨日29日はビーチで一日中海水浴しました。
子供たちはまだパタヤに行きたがらないので予定が延びています。
すし、刺身、ざるそば、すきやき、懐石風弁当、なべやきうどん…
食べたいですねー。
パタヤで安く食べられます。
ここにあるのは自然の美しさだけです。
せめてセブンイレブンくらいあればいいのですが。
近くのバンペーのセブンイレブンまでここから7kmくらいあります。

お知らせ

2010-03-20 13:13:00 | OCNカフェ
カイちゃんの休みを利用して、明日21日より2週間タイのビーチに出かけます。
昨年の10月、もうこれで最後になるのかなとの思いで旅行しましたが、
神様はもう一度だけチャンスをくれたみたいです。
人間は弱いものですね。
短いメッセージですが、いわおさんの体験談は私を勇気付けました。
私も負けないように一生懸命生きます。
命尽きるその日まで。
みずよさんは介護職につくとその人間関係にうんざりされるかもしれません。
私も現役のときにはそうでした。
でも今やっとわかりました。
健康で働けるということは本当に幸せなことであると。
ヒデさんは交通事故に十分注意して自転車を運転してください。
みなさんほんとうにありがとうございます。
感謝しています。

カイちゃん卒園

2010-03-19 09:39:00 | OCNカフェ
本日2010年3月19日、カイちゃんは幼稚園を卒園する。
入学したのがつい昨日のように感じられる。
カイちゃん、3年間がんばったね。
お父さんは、とても嬉しいです。
朝のお見送り、午後のお出迎えはお父さんのお仕事。
朝の朝礼には3年間立ち会った。
小さな体のカイちゃんが幼稚園でいじめられないように気配りした。
まもなく朝礼で国旗掲揚に引き続き、
カイちゃんの仏教経文が聞こえてくる。
きっと感動して胸をつまらせることだろう。

タイの民主主義

2010-03-16 11:41:00 | OCNカフェ
日本では自衛隊がクーデターを起こすという話は聞いたことがない。
タイでは無血といえども現実にクーデターが発生して民主主義を崩壊させてしまっている。
民主主義という観点から見ると日本はタイにくらべて恵まれている。
選挙投票の一票一票が新政権に反映されているからだ。
プミポーンタイ国王が壮健であられたときにはタイの現在のような不条理な状態は許さなかった。
プミポーンタイ国王もお年を召された。
やはり神ではなくて一人の人間であられるということだ。
タクシン前首相が一方的な国外退去処分を受けてから久しい。
毎日平和な時間が緩やかに流れているタイ、水面下では結構激しい小競り合いが続いている。
タイ東北地方を中心とした貧しい農民層(赤シャツ軍団)
バンコクの富裕層(黄シャツ軍団)
二つの軍団が大規模な何度も大規模なデモをくりひろげ、タイは国際社会からその民主主義を疑われている。
話は簡単だ。
お金持ちの黄シャツが軍部の力でクーデターに成功、その後黄シャツが政権を不条理な手段で奪取。
まともに選挙をすれば赤シャツが勝利するので選挙はしない。
これではタイの農民層の立つ瀬がないではないか。
プラチャーティパタイ(民主主義)を口にするのならまず公正な選挙を行うべきだ。
タクシンにも世界標準の裁判で判決を出してもらいたい。
黄シャツグループの裁判官たちは「はじめに有罪ありき」の姿勢がみえみえ。
これではタクシンも浮かばれない。
空港で跪いて頭を地面にこすりつけていたタクシンが不憫でならなかった。

メール友達突然の逝去

2010-03-16 08:11:00 | OCNカフェ
冒険ダン吉倶楽部の竹内司さんは「気力が衰え筆力までも走らず…」と書き残した後2007年の3月に日本に帰国し入院しましたが4月24日にあっという間にご逝去されました。
竹内司さんの最後の便りと、息子さんから頂いた訃報を添付しておきます。
昨日の事件のような気がしていますが、あれからもう3年も経つのですね。
この竹内司さんの最終便はまさに執念の執筆だったと思います。
3年前私は健康そのもの、更年期障害なんて私には関係ないと思っていました。
健康を害して以来半年、快復の兆しはまったくありません。
ここ数日間の体調は最悪で週末は食事もとれず水ばかり飲んでいました。
まもなく左手も不自由になる。
そうすればブログに投稿もできなくなります。
その前に一行でも投稿しておきたいとの思いでキーボードに向かっております。

以下は参考です。

2007/02/11

冒険ダン吉便り のほほん 滞在の人達に 第702回  07.02.10

のほほん 南洋を満喫される 2月の滞在客の半分は終わりました。

涼風が海から流れて来て とても涼しいのです.ところが私の身体の調子
が.だるく糖尿病の現象が出たようです.滞在客に.
ご迷惑をお掛けいたしました それで

予約をされたを方を除き 宿泊を停止いたします 3月~4月は
日本の病院で治療に専念したいと思います。

気力が衰え筆力までも走らず 冒険ダン吉便りも暫く休養いたします

お約束の HPの更新も2月20日頃に終わります。

予約済みの方は どうぞお出かけください。

冒険ダン吉倶楽部 代表 竹内 司


訃 報 (2007/04/25)      

このたび、フィリピンよりいつも元気な情報を
発信させていただいておりました
実父 竹内 司(75歳)が本年3月に帰国していたおり
意識障害となり昨日、横浜市内の病院にて
4月24日 8時22分 逝去いたしました。

2000名近い読者の皆様方へ
突然のご報告で大変失礼いたします。
亡父も、フィリピンへ元気で戻るつもりの一時帰国で
おりましたのですが、この様なお知らせが
最後になり、残念でなりません。

ここに生前のご厚誼を深謝し謹んでご通知申し上げます
追って通夜、葬儀並びに告別式は下記の通り行います。
         

1.通夜  4月 26日 (木)
     18時より 19時まで

1.葬儀告別式  4月 27日 (金) 
        13時より 14時まで

1.場所 横浜市久保山霊堂
    横浜市西区元久保町1 - 1 
045 - 231 - 7343

1.喪主 竹内 陽 (長男)

思いつくままに

2010-03-14 10:40:00 | OCNカフェ
当時の国立大学は競争率が高くて合格するために相当の努力を要した。
私は運良く現役合格できたが、妻(日本)は一年浪人して名古屋の河合塾で勉強して合格。
それで妻は私より1年先輩の同期生ということになる。
大学入学直後に妻と知り合いすぐに恋に落ちアパートで一緒に生活していた。
妻の父親は日本の肖像画界の頂点、松谷六郎画伯である。
30年ほど前の美術年鑑で東山魁夷画伯が1号120万円のときに松谷六郎画伯は1号60万円で計上されていた。
ご存命であれば100歳近いのではないかと思う。
多くのブログで松谷六郎(まつたにろくろう)と紹介されているが、本名は松谷六郎(まつがいろくろう)である。
囲碁とゴルフが趣味で囲碁はかなりの腕前であったが私にはまったくわからなかった。
ゴルフは愛知県豊田市外のゴルフ場で一緒にプレーさせてもらったことがある。
絵の世界とはとてつもなく厳しい世界で松谷六郎画伯クラスでも生活費をまかなうために看板業を営んでいた。
豊田市内の看板の飾り付けを主に行っていたが、一番の客先は豊田自動車工場であった。
妻の母親はまったく働き者でじっとしていることができない性格であった。
すぐに自分の周辺のお片づけがはじまり、一日中何か家族のために働いている。
一度松谷六郎画伯が自分の妻に向かっていった言葉が今でも記憶に残っている。
「私は週一でゴルフしてるが、おまんもなにか運動したほうが長生きできるぞ」
長髪で眼光の鋭い三河武士そのものの風貌であった。

思いつくままに

2010-03-14 09:04:00 | OCNカフェ
フィリピンでの業務が終了して日本に帰国するときに大変苦しんだ。
弁護士に相談したがフィリピンでは17歳の女性を戸籍に入れること(入籍)が出来なかった。
悩んだあげくダバオの彼女の親戚の家に預けることにした。
彼女の親戚はダバオ市街のはずれエコラン(eco-land)に住んでいた。
この家は大変にまともな家庭であった。
父母は教職、一人娘はダバオ市内の病院で看護婦として勤務していた。
しかしながら二人の息子たちは失職していて毎日家でブラブラしていた。
この家の一部屋を電気代、ガス代、水道代込みで破格(高額)の一月5000ペソで契約し6か月分まとめて支払った。
このときに必要な家具、家電製品を買い与えた。
半年後に私がこの家を訪問したときに家具や電気製品は姿を消していた。
フィリピンではポーンショップという質屋が無数にあり、私の買い与えたものはすべてこのポーンショップに消えていってしまっていた。
この団地の入り口にはセキュリティーがいてこの男から知らされた。
彼女はやめたほうが良い。
見かねての忠告であった。
私がダバオの飛行場を発ったその夜から複数の男どもが出入りしここで生活している。
予想はしていたがかなりの衝撃であった。
彼女の不品行のためにこの親戚の家を追い出されたので、アグダオ市場の近くのアパートを借りてやった。(6ヶ月間ここに住めたのは私への義理立てであり以降の更新は拒否されたのだ)
これまた6ヶ月間の契約で一括して支払った。
アグダオの家具屋と電気屋で無くなった生活必需品を再度買い与えて、私は帰国した。
半年後にこのアパートを再訪問したときに、前と同じように家具や電気製品は姿を消していた。
このアパートの管理人は見かねて私に忠告した。
彼女はやめたほうがよい。彼女はあなたにふさわしくない。
彼女は毎晩たくさんのボーイフレンドと遊び狂っていた。
それで私が銀行に預けていたお金がなくなり、家具や電気製品を質屋に入れるはめになったのだ。
彼女はセックスなしで一日たりとも過ごすことが出来なかった。
いわゆる好きものであった。
私はつくづく失敗したことを悟り彼女と別れることにしたが、多大の時間とお金を要したのは言うまでも無い。
(以下次号)

思いつくままに

2010-03-13 16:25:00 | OCNカフェ
フィリピン駐在時にはサンミゲールビールを良く飲んだ。
サンミゲールは小瓶で飲むのが趣だ。
仕事が一段落したらホテルのロビーやレストランでサンミゲールを注文。
毎日3本くらい飲むのが日課となっていた。
おつまみはキニラオ。
キニラオはフィリピン風魚のなます。
日本のなますとほとんど変わらない。
タイのように強烈な唐辛子の味付けがされていないので食べやすい。
ファンダドールという輸入ブランデーも良く飲んだ。
ヘネシーブランデーなどに比べると味は数段落ちる。
それでもこの低価格は嬉しくてついついファンダドールのほうを注文して晩酌の仕上げとした。
晩酌が終わると今度は食事。
フィリピンのホテルのレストランは値段が安いので何でも気に入ったものをたくさん食べることができた。
ミンダナオ島では北部と南部にホテルの拠点を持っていた。
北部から南部までドライバー付きの車で7時間、ミンダナオ島は大きい。
北部の拠点はブツアンのロイヤルプラザホテル、南部の拠点はダバオのアグダオ市場の近くのリンマーコンドテル、リンマーには大きなプールがついていて夕方は毎日ここで泳いだ。
プールサイドにミニバーがあり、ここでサンミゲール、キニラオを毎日楽しむことができた。
退職後はフィリピンの退職者向け永住ビザを取得してフィリピンに永住、というのが私の夢だった。
タイ旅行で貧しいタイ東北地方の農家の出戻り娘と知り合うことがなかったら、今ごろはフィリピンで生活していたはずだ。
人生、何が運命を変えるかわからない。

思いつくままに

2010-03-13 14:38:00 | OCNカフェ
47歳のときフィリピンのミンダナオ島の地方橋梁工事(ODA)の管理をするために約1年間フィリピンに滞在した。
18才のときより一緒に暮らしていた日本の妻と協議離婚してから数年、淋しかった。
当時の私の心理状態はかなり危ないものであった。
こうなりゃ、犬猫でも一緒に暮らしたいと思った。
ミンダナオ島は北部のブツアンから南部のダバオまで計10橋の施工管理をさせられた。
やがてブツアン市内のバーで知り合った17歳の娘と恋に落ちロイヤルプラザホテルで200名を招待して挙式。
この娘にはいわゆる戸籍がなかった。
彼女の故郷はレイテ島の南部マリボッグ、ここのキリスト教会で出生届の原本を書き写し、マニラの戸籍登録事務所で戸籍が取得できるように手配した。
私がフィリピンに滞在しているときには何ら問題なかった。
やがて任期が完了、日本へ帰国。
悲劇はここから始まった。
バー勤めの娘を選択したことは大きな間違いであった。
(以下次号)

思いつくままに

2010-03-11 13:48:00 | OCNカフェ
父は今から約15年ほど前に他界しました。
徴兵検査で体重が40キロくらいしかなかったので乙種合格、
体がひ弱だったので陸軍の衛生兵に配属させられました。
中国の青島(チンタオ)で4年ほど兵役、ここで終戦をむかえました。
人生とはまったく皮肉なものですね。
体の強健な兵隊さんたちは戦争の最前線に送られてそこで戦死しました。
体のひ弱だった父は九死に一生の思いで中国から帰国、
北九州市の旋盤工場に就職、
やがて母と恋に落ち私が生まれました。
父が戦死しておれば当然私は生まれてこなかったので、
人生の苦しみを味わうこともなかったのです。
人の運命とは全く不思議で不可解なものですね。
生をまっとうするということは本当に辛いものであることを実感しています。
日本では年間4万人あまりの人たちが自ら命を絶っているという記事を見ました。
本当でしょうか。
陸軍部隊の中に布施班長(実名)がいて父や同僚は毎日彼から往復ビンタをくらっていました。
テレビで歌手の布施あきらさんがでてくると、父は血相を変えてこう罵っていました。
「今度どこかで出会ったら殺してやる」
戦争は多くの若者たちの運命を根こそぎ崩壊させました。
二度と繰り返してはいけません。
しかし戦後60年、もうアメリカのつくった仕組みより飛び立つ時期ですね。
そういえば、私の中学時代に番長が1人いて往復ビンタをくらったのを思い出しました。
私は相撲が強かったので彼の相撲のお相手を何度もさせられました。
彼が転校していった後、安堵のため息を漏らしたのを覚えています。
文武両道、これから先の日本人は喧嘩(武力)も強くならなければ世界の中で落ちこぼれていくのではないでしょうか。

srachai from khonkaen, thailand