13th Avenue日記

一歩ずつ、一歩ずつ・・・・

正義・真実・愛・・・「アバランチ」「最愛」からの「ミステリという勿れ」「ゴシップ」そして「新聞記者」 その1

2022-01-14 | テレビ

明けましておめでとうございます。

今年もぼちぼち書くのでよろしくお願いいたします。

 

さて、秋から年末にかけての3ヶ月、

私は「アバランチ」にめちゃめちゃハマりました。

藤井道人監督の作品と聞けば、

そりゃあもうドキドキで・・・

で、3ヶ月後の今も余韻に浸り、

そしてネフリに「新聞記者」がきて、

またドキドキしている今日この頃です。

この人の視線ってドキドキする・・・次に何が起きるかわからないドキドキ感です。

そして、私はたまらなくこの人の色使いが好き。

映画「新聞記者」も「アバランチ」も

そしてリブートの「新聞記者も」

この青っぽい緑っぽいフィルターがかかっている世界が

私はどうにもこうにも好きです。

そしてこの色の中、繰り広げられる世界で

「正義」「真実」そして「愛」の物語が

繰り広げられる・・・

心からすごいなって思う。

 

映画「新聞記者」も私の内臓をガッツリ掴んでくれましたが、

「アバランチ」はドラマだし、テレビでどんな風になるんだろうと

思っていましたが、非常にストレートだった。

それが私はよかったなと心から思っています。

「新聞記者」にも一貫している

「一人一人の行動」そして「正義」がとてもストレートに語られていた。

テレビだからこそストレートに語れるんだろうし、

語らないといけない時代になったんだと思います。

「アバランチ」は名もなき人間だと言います。

確かに羽生は「死亡」したことになっている・・・

社会的には「いない」

山守の言葉を借りるなら「何もでもない」存在。

それは藤田も然り。

その一人一人が起こす行動には「守りたい」という思いがある。

つまり、正義の先に日常があり、人がいる・・・

ウォーターストロフは「愛と正義」という本の中で

愛と正義が表裏一体であることを証明する作業をしました。

愛のない正義は存在し得るのか・・・

「7人の秘書」というドラマでの決め台詞は

「名乗るほどのものではないですが」でしたが、

この「普通の人」がどういう行動を取るかを問うていました。

「アバランチ」とは雪崩という意味ですが、

本当に雪山で雪崩は小さい何かで起きてしまう。

ここでは社会に雪崩を起こすという話でしたが、

その雪崩は「他者を生かす」雪崩なのか「殺す」雪崩なのか・・・

このドラマ、めちゃめちゃアクションシーンが多い割に

アバランチは「生きる」ってこと「生かす」ってことを

本当に真剣に追い求める。そこに凝縮されているのがうちさんでしたよね。

それに比べて大山は殺すことに躊躇が全くない。

そして、どちらも「正義」を語るのです。

山守は「殺してはいけない」と言い、「生きろ」と言います。

人を一単位としてみるのか、

それともそこに繋がっているマイクロソサエティ(家族や友人)を見越して

愛を守ることを考えるのか・・・

そして何より命、その存在をどう捉えているのか・・・

なぜアバランチは「悪い奴」を抹殺ではなく生かして暴くことをしたのか・・・

良くも悪くも人は一人では生きられない。

ではそこにどういう存在の仕方をしているのか・・・

毎日私たちはきづかづとも、

社会に波動を起こしている。

ではそれがどういう雪崩になっていくのか・・・

そこはその人の価値観に密接しているはず。

羽生は「信じようぜ、正義の力って奴をさ」と言って笑います。

この「正義」の定義が何かによって

雪崩が「生かす」ものになるのか「殺す」ものになるのかが

別れてくるんじゃないかなと思うわけです。

ここではとにかく「自分の正義」という言葉がたくさん使われたのですが、

正義の定義は流動的なものなのか

それとも絶対正義は存在するのか

存在するならその絶対正義とはなんなのか・・・

羽生が信じようぜと言ったのはどちらの正義なのか

それともどちらもなのか・・・

 

「最愛」では愛を問うドラマのように見えて、

同時に「正義」を問うドラマだったように思います。

正義は流動的なのか・・・

愛と正義の関係とはなんなのか・・・

 

一人のクリスチャンとしてこれは見逃せないぞ!と

思っていたら、今クールもその話題は続いているじゃあありませんか!

今度は理詰めのキャラクター2名がそれぞれのドラマで

正義を語ります。

 

私が不思議だなと思っているのは

ドラマの制作や放送時期って

ある程度先々に決まっているわけじゃないですが、

他局と相談しているわけでもないと思うんです。

でも、それでも、その時代、その季節に必要な何かがある。

神様の仕業としか思えないと思ってしまう。

「御霊の実」を思うことが本当に多い。

それを食したい人が今いっぱいいるって

神様言ってるんじゃないかなって。

 


The Last Duel 最後決闘裁判・・・真実ってそもそもさ

2021-12-02 | 映画

リドリー・スコット監督の作品を観たいなって思う理由の一つは

「コラボレーションを大切にしている」からかもしれません。

この映画の宣伝で制作の様子の一部を観せていたのですが、

絵コンテの時点でワクワクするっていうか、

「つくる」っていうことを息遣いで感じるっていうか・・・

ワクワクするわけです。

で、この映画・・・賛否両論ですが、

私は「面白い」と思った口です。

脚本をベン・アフレックとマット・ディーモンが

書いているのも面白いって思ったけど、

この映画のつくりが非常に興味深かったんです。

主要キャストの男性側がみんなアメリカ人っていうのも

興味深いなと思っています。

3人の視点から物語を語るのですが、

なんと3回ストーリーをそれぞれの視点から観るんです。

まるで裁判所みたいですよね。

「視点」というのはもちろん「主観」が関わってくるし、

それぞれの「感情」が含まれる。

そしてそれぞれにしか見えていなかった「事実」があり、

それぞれの「思惑」がある。

3回ストーリーを観ることで、それがよくわかる作りになっているわけです。

そして役者の皆さんもその微妙な違いを演じていくのもお見事なんですが、

その「微妙な違い」がその人にとっては

他の人とは全く違うストーリーラインであることも

その「違い」を発見することでわかる。

同じ場所にいても、立ち位置が当然違ってくるから

見える景色も違ってくる。

それはそれぞれの人生の立ち位置の違いでもあるわけです。

このストーリーの大きな出来事は強姦事件ですが、

この事件に対するそれぞれの登場人物の感情や言い分は

決して中世の出来事ではなく、

現代にもしっくり当てはまると私は思います。

社会の女性の立ち位置について

マルグリットの真実を語ることでそれを表していく。

とはいえ、この映画の良いところは

単なるフェミニスト的な物語ではないということなんです。

それぞれの立ち位置の真実を観せることで、

社会の中で身分や能力の問題を見せます。

つまり、カルージュ、ル・グリ、そしてマリグリットの3人が

それぞれ社会にある問題の象徴的な存在として

この物語を紡いでいきます。

そして何より、私たちは知っているようで知らないということを

はっきりと示している映画だと思います。

同じ経験をしているようで、私たちの経験は同じではない。

だから、わかったふりをする事は怖いなと思うわけです。

一人の人として、霊的同伴者として

他者の話を聴くとは、他者が自分と違うことを常に覚えることが

どれだけ大切か、そしてその行為は

他者を尊厳を守り、愛することではないかと思います。

人と関わる仕事をされている方には是非観ていただきたい映画だなと思います。

 

真実とはなんなのか・・・私たちクリスチャンはどう捉えているでしょうか・・・

「〜の真実」という所有格の真実の立ち位置だけで考えるなら

真実とは絶対性が失われていくのかもしれない・・・

でも、絶対的な真実があるなら、「〜の真実」は「〜の」であるという立ち位置に

立てる可能性があるように思います。

 

いつも思うことですが・・・

どうしてベン・アフレックはいただけない感じのおっさんがみょうにハマるのか・・・

てろーんって感じっていうんですかね・・・

そして、どうしてマット・ディーモンは冴えない中年がハマるのか・・・

いつでもちょっと肩に力入れて頑張ってる感じがすごいなって思う。

・・・あ、めっちゃ褒めてます!

 

リドリー・スコット監督の「ハウスオブグッチ」も楽しみ!

大好きなアダム・ライダーが

こちらでもちょっと違和感のある役をやっているようです。


後悔というものの存在・・・大豆田とわ子と3人の元夫

2021-08-22 | テレビ

「大豆田とわ子と3人の元夫」がネフリに来て、

好きな時に好きなエピソードを観ることができる幸せを

噛み締める日々です(大袈裟)

さて、このドラマ

刺さるセリフのオンパレードで

映像の色味も少し緑な感じで、

出ている役者さんの素晴らしさとか、

脚本の秀悦さとか、

私には超ツボなドラマです。

私にとってこのドラマは

「後悔」がテーマになっています。

ある時、「後悔する権利」という記事を読みました。

オトナは子供が「後悔しないように」と配慮し、

そういう風に教えていく。

でも、実際それはどうなんだろう。

それって「後悔する権利」を剥奪することじゃないか?という

とても興味深いアプローチの記事でした。

と、同時に私も若者と普段関わる者として

立ち止まってみたんです。

学生たちは「後悔しない人生」を強く願っているけれど、

じゃあ、実際、そんなものあるのか・・・

私の答えは「ありえない」です。

それをストーリーとしてよく表していたのがこの

「大豆田とわ子と3人の元夫」なような気がしています。

オトナであるとは、後悔とどういう関係を築いてきたのかである

とも言えるのかなと思わされたドラマでした。

このドラマはとにかくアップテンポでポップだけど、

出てくるオトナはみんなどこか残念。でも超魅力的なんです。

そしてそれぞれの後悔を抱え、毎日後悔し、後悔と共に生きています。

後悔を問題として捉え、それを「解決」する物語にせず、

後悔を必要以上に怖がりそれを回避する物語でもなく、

後悔と共に生きるという物語。

その後悔と共にいきる生き方はコミカルで、悲しいこともあるけど、

でもハッピーな時間もある。

そういう日常を非日常なストーリーで見せてくれたなと思います。

私たちは「後悔」に必要以上に影響力を与えてないかなって思いました。

後悔を異常に恐れていないか。

だとしたら、私たちの人生は後悔に囚われた生き方になってしまう。

「後悔」とはそこにあるものだ。

そこから逃げることもなかったことにすることも、打ち勝つこともできない。

でもそれは、後悔に振り回されて生きるということでもないし、

後悔に飲み込まれて生きることでもない。

後悔はもっと中立なものじゃないかな。

心が痛むことは悪いことじゃない。

それは私たちが人間だということでなはないか。

後悔は悔い改めの入り口な気がするんです。

そしてそれは愛を受け取る入り口でもある。

悔いて改める。それはドロドロとした世界ではなく、

もっと普通の日常の自分が人であり、神が神であるということではないか。

私たちは後悔の存在をもっとちゃんと受け止めることが必要じゃないか。

このドラマは後悔と人の関係を

あるオトナのあり方を提示したドラマかなと思います。

そして、とことんお洒落!

何度見ても楽しいドラマがあって私は嬉しい!


Stillwater・・・曖昧な真実

2021-08-18 | 映画

突然ですが、私はマット・ディーモンが妙に好きです。

単純に「好き」じゃなくて、「妙に好き」のカテゴリーです。

その、「妙に好き」なマット・ディーモンが主演のStillwaterという映画を観てきました。

主人公のビルはうだつの上がらない感じのオクラホマの男性です。

お母さんはクリスチャンのようで、その影響を強く受けている男性のように思えます。

ご飯の前に手を繋いで祈り、

ピンチの時はひざまづいて祈り、

会話の中にも「祈る」ということが度々出てきます。

彼の娘アリソンは殺人の罪でフランス、マルセイユの刑務所にいます。

彼はアリソンの無実を信じてマルセイユの刑務所に頻繁に面会に行っています。

アリソンは自分の無実を主張し、再判を望んでいます。

 

この映画を観ながら私が最初に思ったことは

「born again Christian」という言葉が生まれた理由です。

キリスト教国と言われ、中西部はバイブルベルトと呼ばれる地域ですが、

マット・ディーモンはブルーワーカーでちょっとうだつが上がらない感じの

信仰心がないわけじゃないけど、ブレブレで、でも、そこがホームなんだよ・・・

という揺らぎをとても上手に観せてくれます。

ビルの姿を観て、日本人の信仰心と重なる部分を強く感じたり、

映画のある場所に来ると「沈黙」のキチジローを想ったりするかもしれません。

とはいえ、キチジローとビルの違いは

キチジローが表現する波のように来る圧倒的な罪の意識を

ビルが感じていないということでしょうか。

この映画の空気感はちょっと湿ったそして動かない、もったりとした空気感です。

閉塞感というよりじっとりもったりとした感じ。

不快感というほどスッキリしていない、なんともいえないこもった感じでしょうか。

マット・ディーモンはそれを出すのがうまい!

 

この映画は「信仰」とは何か・・・を考えさせられる映画のように思います。

この映画はちょっとした推理小説とラブロマンのように観ることもできると思いますが、

「信仰」とか「祈り」とは?と思わせる場面が非常に多い。

それと、外から見た「アメリカ人」のイメージもよく描かれていると思います。

そして、移民問題。

この三つが重なり合っている映画と思います。

ビルがマルセイユで出会うバージーンとマヤ親子との関係も

「信仰」と「祈り」の部分の一つかなと私は思っています。

「祈り」も「信仰」も人間側の状態、祈るという行為とか信仰している心とか、が

何かを生むわけではなく、その対象が大事なんだということを思います。

誰に祈っているのか、願っているのか、誰を信じているのかわからないなら

それはセラピューティックな世界になってしまう。

ビルは「祈る」けど誰に祈っているのか、

その祈る対象を知ろうとしている行為はありません。

とはいえ、とにかく彼は祈ります。

彼にとって祈りはどこか逃げ場所であったり、

助けどころだったり、

履くのを忘れると気持ち悪いパンツみたいなものだったりするのかなと

思うわけです。

その姿を観ながら強く思うのは

ビルは祈りたいんだということ。

このどうしようもない状況の中、

もったりとしたどうにもこうにも動かない

じとっとした空気の中で

彼はどうにもこうにも祈りたいんだな・・・

それは根本的な人の姿のように思えました。

そしてバージーンとマヤとの関係を通して彼が

「帰りたい」場所があることを私たちは発見していきます。

 

ヨーロッパの移民問題にもこの映画は触れていきます。

自由ってなんなんだとか、

「うちとそと」はまるで日本の専売特許と思われている方には

そんなことはないってことを知ってもらえる映画かなと思う(苦笑)

西洋の国は皆さんが思うほどスッキリ裏表がないわけじゃない。

むしろかなりややこしいってことを見て取れるんじゃないでしょうか。

西洋に住んでいる人たちは自分勝手にやりたい放題言いたい放題で

「自由」を謳歌しているという誤解を是非といていただけたらと願います。

西洋の「自由」の定義はもっと違うところにあります。

そして複雑な難しさがある。

この映画でも「生活」する中で見えてくる世界観があることを見せます。

表面的なその国の表情の先にもっともっと複雑な

「外の人」は学ばないといけない、自分のやり方をゴリ押ししないことは

リスペクトなんだということも示唆されます。

 

映画の最後で「!?!?!?」な結末が待っています。

この映画、とにかく最後までもったりしています。

そして沢山の曖昧な「真実」が散りばめられています。

相反する二重の世界観。

ある意味、嘘と真実の曖昧さや

アングルを変えると正しかったり間違っていたりする事柄、

実にもったりとじっとりとしてるわけです。

最後の二人の会話を聴きながら

私がビルとアリソンに言いたいことはこれ。

「あなたが一生懸命祈ってる相手と思いきっり出会って欲しい!

見えている世界が変わる。そしてあなたはホームに帰ることができる。

過去の間違いも、嘘も、偽りも、モヤモヤしているそのことひつ一つを

イエス様のところに持っていって欲しい。このじっとりもったりとした場所に

風を吹かせてもらって欲しい。曖昧な真実ではなく動かない真実を手に入れて欲しい。」

なぜなら、祈るという行為自体が神様からの招きだと思うから。

この招きがあるからこそ、私たちは祈ることができる。

そしてその祈りを聞いておられる神と出会うことができると

思うからです。

 

この映画は「伝道者の書」を読んでいるような気持ちにさせる

そして、色々考えさせられる映画でした!

 

 


サインを見逃すな

2021-07-29 | 日記

お久しぶりでございます。

今日は覚書のような内容ですが・・・

5月からノンストップで事件続きの毎日。

殺傷事件あり、役職代わりあり、空き巣事件が実はアンチ教会のプロテストだった事件あり・・・

その間にコロナのフェーズが変わり、

自由になったような、そうでもないような・・・

のんびりしている空気の中に

微妙に得体の知れない不穏な空気が流れている中、

日本からの留学生はそれでも来る・・・

なぜ?いま???と凡人の私は思うんですが、

それでも来る。

そしてまさか交換留学はないだろう・・・という

私たちの予想を鮮やかに裏切って

なんと9月から来るんだそうです。

各有名大学の学生たちでできてる団体が、

こちらの留学課にかなり掛け合ったらしいんです。

まあ、それはそれでなかなか気骨のある学生たちじゃないか!と

思うのですが、

いやいや、今の日本の状態を考えて、

入国が現状でいくのかもわからないし、

そもそも9月から政府が予定しているようになるかも

全く不明なわけです。

嬉しいけど、むむむ・・・

そのニュースが耳に入った時、

私、なんか胸いっぱいになってしまって・・・

嬉しいんです、ときめくんです。

でも、胸いっぱい。

予測がたたなすぎるのもそうだけど、

急にどっと疲れが出てしまったようで・・・

私、この18ヶ月ノンストップで働いてて、

うまいこと気分転換とか休みとかしてたけど、

この3ヶ月を考えても、

かなりインパクトのある大事件があったり、

日本でもニュースになった熱波での夏バテから

イマイチ立ち直ってない、

そして、とにかく流動的にただひたすらアジャストしている・・・

そして何より、18ヶ月一人で家にいたという疲れ。

この「胸いっぱい感」は

私にとってはイエローカードの1枚。

これは「楽しい」の重量感を侵食する感覚。

自分が普段より傷つきやすかったり、

全ての感覚が敏感になっているし、

道を渡ることが苦しいし、

高いところが歩けない・・・

という、もうイエローカードが出まくってる。

これを放置すると

またXマンになってしまう。

そしてせっかちな苛になってしまう。

9月に学生たちが来る前に、

なんとかせんとならん!

ここでサインを見逃すと

投げたボールがボークになってしまう!

サインを見逃さない

これも霊性には大事な事です。

で、サインを見た私はどうするのか・・・

「休みます」

休暇を取るというのが理想だけど、

今回のサインは「環境を変えろ」だったなか、

コロナ+車がない私にはこれはハードルが高い。

そこで、休暇ではなく、エクストラで休日を取るを実行しようと思います。

車を持っている友達と1日ドライブに行くとか

ハイキングに行くとか・・・

それを自分の休日ではない日に行く。

9月に自分が学生たちにとって良い環境であれるように、

今はセルフケアをする時。

それがバーンアウトを回避する今できる事かなと思います。

そして、もしどこかに休暇に出られる可能性が出てきたら

私、行きますよ、休暇。


多様性と生まれた理由、そして「小さいことがね」

2021-06-04 | 普段使いの神学

NHK北海道がこのような番組を作ったそうです。

最近、NHK北海道やるなぁとか勝手に誇らしく思っている道民です。

この番組は私たち海外勢には見れないんだけど、

ちゃんと文字に書きここされています。

単純にこの人がクリスチャンと出会ってよかったね・・・っていう話で読まれるのは

ちょっと残念だなと思って、ちょっとだけ深堀させてください。

 

ぼくが生まれた理由 | NHK北海道

「どうしてぼくは生まれたんだろう」ひとりの男の子がいつも考えていました。フィリピン人の母と日本人の父。容姿が違うからと、幼い頃からいじめや差...

NHK札幌放送局

 

私はこれを読みながら、「多様性」と「生まれた理由」を思いました。

ここで話されている作品はこちらです。

 

ナイトdeライト×北海道いのちの電話|生きててくれてありがとう [MV]

北海道いのちの電話 011-231-4343      https://www.inochi-tel.com フリーダイヤルいのちの電話 ...

youtube#video

 

この曲を聞いて、私は心がいっぱいになって涙が流れました。

「生きていてくれてありがとう」この言葉を

私たちは普段どれだけ聞いているのだろう・・・

同時に

私たちはこの言葉を普段どれだけ伝えているのだろう・・・

どんな社会貢献をしたか、

どんな実績があるか、

どんな仕事をしていて、どんな役職なのか、

学校はどこで、専門はは何なのか・・・

どれくらい賛同されているか、どのくらい「いいね」がつくのか、

何人友達がいるか、そしてその人たちから誘われるか、

どのくらい褒められて、

どのくら叱られて・・・・

とどのつまりは「私が存在してる理由」を私たちはいつも探してるんじゃないかな。

それはクリスチャンでもそうでなくても。

 

人は誰もが「生きててくれてありがとう」って言われたい。

人は誰もがみんな「愛されたい」ってよく話題になるけど、

もちろんそれもそうなんだけど、

「生きている」ってことへの実感を毎日感じているのか・・・

「生きている」って思うほど当たり前じゃないし、

そもそも「生きている」の定義づけはそんなに簡単じゃない。

桜庭先生は「ドラゴン桜2」で

「いなくてもいい存在なんかこの世に一つもない!」と

けんた君にいうシーンがありましたが、

それは隣にいたDVを受けていたまりちゃんの心にも深く届いたと思います。

藤井君は勉強することで、自分の存在を主張していたし。

「大豆田とわ子と三人の元夫」で

あなたは一人で生きていけるでしょ?って言われたとわ子が

「小さなことにちょっと疲れるかな。自分で部屋の電気を点ける。自分で選んで音楽をかける。自分でエアコンを点ける。まっ、小さいことなんですけどね。ちょっとボタンを押すだけのことに、ちょっと疲れる感じ」

これに共感した人は私だけじゃなかったはず。

今クールのテレビドラマの多くは

存在の意味や価値観を問うものが多い気がします。

「着飾る恋には理由があって」でもあからさまにこの会話がなされていますよね。

コロナの世界の中で、今、これを人は問うているのかもしれない。

ステイホームは自分の存在の意味や価値を否応なしに考えさせるし。

 

そもそも社会は「多様」でできている。

複数の人がそこに存在するときに必ず「多様」にならざるを得ないのだ。

よく「社会」という時、誰かがつくった枠組のように話されるけど、

社会は私があなたが毎日存在し、生きることで出来上がるものだ。

つまり私たちはみんな押し並べて一瞬一瞬そこに生きる存在するものであることで

社会をつくっているのだ。

私たちは社会を、環境を気づいても気づかなくても

つくることから逃れられないのだ。

そしてその作り手が別の存在である以上、

「多様」であらざるを得ない。

問題はその「多様」の存在の仕方がどうなのか・・・

そこで私たちがつくりだし

醸し出している「価値観」はどんなものなのだろうか。

私たちがつくっているのは

「生きてくれてありがとう」の社会だろうか?

私たちクリスチャンはそういう社会をつくる者として

この世界に存在しているんじゃないのかな。

それはイエス様の在り方や生き方と重なるんじゃないかな・・・


待ち続け続ける

2021-05-19 | 日記

どんなカテゴリーで書けばいいのかよくわからないのですが、

私の住んでいるBC州では、1回目のワクチン接種が50%を超えましたが、

25日まで移動制限や厳しくなった規制がかかったままです。

去年の3月から長いロックダウン、そしてソフトロックダウンと

規制がなかったことがない中で、

私たちは規制の中でできることを模索してきました。

その中で、私が痛感している自分の中のストレスは

映画館が閉鎖していることです。

ロックダウンが始まったと同時に映画館が閉鎖されました。

去年の夏一瞬再開したのですが、新作はほぼ来ず、

あっという間に再閉鎖になって今日に至ります。

去年の3月に映画館が閉鎖する直前まで

心待ちにしていた映画が一体何本あったかな・・・

一体あの映画達を映画館で実際観ることはできるんだろうか・・・

映画館で観るということが自分の中でどれだけ大切なことだったのかを

ずっと思わされているんだと思います。

もちろんオンラインで映画を観てるんですが、

自分の中の映画館で観るあの圧倒的な感触が無い中で、

なかなか、書こうという気持ちになれないのはなぜだろうと

最近考えています。

一つは新作映画をあまり観れていないということ。

自分の中でこの1年以上「リバイバル」のような映画鑑賞をしてるんだなと思うんです。

それでも、心にふれ、紙に落としてきたのですが、

なかなか「外」に出したいという感情にならなかったと思います。

もう一つはプロセスの欠如かなと思います。

全てがオンラインになったことで、

むしろ、タイムマネージメントが難しいと思う日常です。

そんな追われる毎日の中で、

例えば別室に行って観るとかそういう環境にない私にとって、

映画を観ると日常があまりにも近すぎて、

まるで、牛丼をかっくらったような感触になってしまうのかもしれません。

自分のライフスタイルの問題なのですが、

同時に環境って大きいなと思ったりするんです。

目線を変えると自分の日常が見える時に、

私は気ぜわしい気持ちになってしまうのかもしれません。

映画祭の準備で沢山の作品を観るときの集中力が

とっても特別で、盛り沢山のポットラックディナーを一つ一つ味わう

至福の時であるように、

映画館が再開されるまで、このコンピューターの画面でも、

一般映画をじっくり味わえる心持ちを保っていたいなと思います。

それも能動的に待ち続ける一つのカタチなのかなって思います。


「家」ってなんだろうね・・・ 「俺の家の話」

2021-03-30 | テレビ

いや〜・・・

毎週泣いて笑ってのドラマでしたが、

最終回・・・いや〜・・・

クドカンやっぱりすごいなって言っちゃったら

それで終わっちゃうんですけど、

そして色々な人かすでに色々書かれているので、

私はもう、グーっと私の心に響いたことをまずは書こうと思います。

最終回を見て強く思ったことは、

このドラマは最初から最後まで寿一の「離見の見」だったなということ。

きっと最初から亡くなった寿一が思い返すという語り口だったんだなと思ったことです。

このドラマのタイトルは「家」の話。

そしてそれは「俺の」という寿一の所有格の家。

そして彼の「家」はお父さんそして「家族」だったんじゃないかなって思うんですね。

回想シーンで、お母さんが亡くなってから、

寂しくなかったのか、お母さん欲しいと思わなかったのかという話になります。

そこで「お父さん一人で十分だった」っていう会話になるんです。

お父さんが認知症になって、寿一という「お母さん」的な存在が帰ってきた

そんなストーリーだったのかもしれません。

寿一が帰ってきて家族は「家族」の体温を持った関係を取り戻していく。

そこには、「お母さん」のような寿一が必要だったんじゃないでしょうか。

確かに、自己主張をしているようで、いつも他者のことを思っている。

あの骨になってなお大きい寿一、お葬式でもみんな自分らしく寿一に話しかけたくなっちゃう・・・

存在がやたらにでかいけど、それはとても母性的な力強さな気がしています。

そして、なぜか亡霊の寿一が出てくるポイントは「お風呂」でした。

お父さん、寿一が怪我をして、寿限無がお風呂に入れた時、

「なんかやなんだ」って言いました。

(もちろんそれで寿限無はキレたけど)

寿三郎にとって寿一には自分の全てをさらけ出すことができる。

それだけ信頼できる存在で、身を任せられる存在。

それだけでも、大きな賛辞だと思うんですよね。

寿三郎の寿一愛もとっても昭和で伝わりづらいけど、

でも、終わらせたくないから、褒めないって

彼の最大の愛情表現だったのかもしれません。

 

寿一の褒められたくて、ただ褒められたくているその気持ち

昭和な私はとっても染みました。

「100点取るのが当たり前」って小学校の時、テストの度言われ、

それじゃあ、自分は一生褒めてもらえないって絶望的な気持ちになったことを

鮮明に覚えています。

満点が当たり前でスタンダードだと言われたら、

褒められるという可能性自体がそもそもないのだと。

私はそこで「褒められる」という可能性を捨てたわけですが、

寿一はずっと私より素直に、

「褒められたい」って思ったんだなぁって。

そしてきっと私の中にも

親父に褒められたいって思いは何処かにあるんだろうって思います。

それが寿三郎のような偉大な人間国宝の父なら尚更かなって。

敵わないって思う相手だからなおさらじゃないかな。

なのに、寿三郎は「褒めたら終わってしまう」って思う。

それは人の人に対する期待と言う名の愛。

だから「人間家宝」って褒めるとそこで終わってしまう。

でも寿一嬉しかったと思う。

 

実は私は寿限無も「褒められたい」って気持ちあったと思うんですよ。

褒められるって認められるってことじゃないですか。

受け止めてもらえた、そして価値を見いだしてもらえた、

それを寿一も寿限無も寿三郎から欲しかったんじゃないかなって。

 

寿三郎ってすごく昭和なお父さんだと思うんです。

ありがとうって言いたいのに言えないとか

本当は嬉しいのにそうじゃないフリしてしまうとか。

うちの親父と重ねてるのかもしれないけど。

まるで認知症の症状としてのように

亡霊との会話を描いていましたが、

どうなんでしょうね・・・

受け止めきれない姿にまた泣けてくる。

そんな簡単に死は受け止められない。

実感も湧かない。

兄弟たちだって「泣けない」

でも、お母さんみたいな「お兄ちゃん」がいたから

本当に思っていることとか言えたり、

暖かい鼓動のある家族になっていくことができたのかもしれない。

家族ってなんだろうって思うドラマだったなって思います。

「家」って言う時に建物とか家系とかそう言うのもあるけど、

もっとここで使われいてる「家」は人の関係性を示していると思うんです。

その「家」を構成してるのは人なんだって。

 

そして、人がもっている「家」は歳を重ねると複数になり得る。

実家、自分の家、仲間、職場・・・私たちは色々な「家」を建てているのかもしれません。

寿一の一つ一つの「家」は寿一という人を通してオーバーラップする。

それが私たちが耕している文化で社会なんじゃないかな。

私たちは毎日「家」を「建て」ている。

問題はどんな「家」を建てているのか・・・

 

一貫して寿一の「会いたいから会いにきました」って言うスタンスも良かった。

「自分がない」って言いますが、

自分の「家」が大事でたまらないって言うのも自分。

そして「会いたいから会いにくる」って

めっちゃ自分ありますよね。

ここで「ない」と言われる「自分」って

何をもって「自分」と言っているのか・・・

私は寿一が「自分がない」と言うのはちょっとしっくりいかない。

 

亡くなってもそれでもそこに「いる」「いつづける」

会いたくなったら会いにいく

自分の「家」が大好き。

生きてる私たちは

どんな「家」を「建てたい」と、つくりたいと思ってるんだろう・・・

社会の起点でもある「家」

それを毎週思わされました。

 

やっぱクドカンすげぇ・・・

 

最終回まで観たから、

今度は最初から見直したい。

そして味わいたい・・・そんなドラマでした。

 

 

 


にじいろカルテ

2021-03-24 | テレビ

このドラマを私は毎週心から楽しみにしていました。

今のこの状況をすごく意識して

コロナの最中だからこそ、このドラマに込められたメッセージは

私の心を掴んだんだろうなって思います。

登場人物それぞれ一人一人がそれぞれ痛みを抱えています。

そして一人一人それぞれその痛みをしっかり受け止め感じながらも

執着しているわけではないのです。

(執着していた太陽くんも、執着から引き受けるという

プロセスを通っていく回もありましたね)

そういう、一人一人のキャラクターが

成熟した大人のあり方をしているのもとても特徴的でした。

それぞれがトラウマを抱えている。

痛みをともに嘆き、ともに受け入れる。

そういうシーンに溢れていました。

でも、執着しているのではないから、

それも含めて、みんな笑っている。

ドラマはこのフレーズで始まり終わります。

「虹は雨が降らないと見れない」

雨の後には虹が出る・・・だから雨もちゃんと受け止めて生きよう。

 

先日RJCのお二人の講師が「嘆くこと」を語られましたが、

私たちは痛みを感じ、嘆くこと、そしてその先にある虹をみるところまで

ともに生きること・・・そんなことを思います。

このドラマのもう一つのテーマは

「ともに生きる」だったように思います。

病気で倒れた眞空先生に送られる言葉は

「病気でも医者でも、どっちでもいいよ。眞空さんがいないとダメなんだ」

「一緒に生きていくんでしょ」

こじれまくっている太陽くんには

「絶対に離してやらないんだから。ずっと一緒にいるんだから」

 

コロナで分断された世界にいる私たちに

「何がなんでも一緒にいよう」は心をギュッと掴む言葉です。

このドラマではとにかくスキンシップが多い。

そして食卓を囲むシーンも多いんです。

そして、その上、食事をしながら口いっぱいに頬張ったままで

しゃべったり怒鳴ったりするんです(笑)

今、絶対やっちゃいけないことをとどんどんやる。

見ているだけで、人の体温を感じるドラマでした。

そして、まさにこの「人の体温」がこの1年圧倒的に欠けていることなのです。

人として人らしく生きるということは、

この「体温」を感じて、

何がなんでも共にいるという思いが必要なのかもしれません。

私たちが渇望している世界、

それが虹の村だった気がします。

それぞれのキャラクターは完璧な聖人だから優しいんじゃない。

むしろ、痛みを感じているからこその優しさだったと思います。

痛みを感じているからこそ他者を丁寧に大切にしていく。

なんだかんだ言って、雑な人が出てきなかったなぁって思います。

自分の過去の話をできずにいる朔先生にも

みんな「なんで?」ってきかない。

他者を信頼する姿をそこに見たわけです。

信頼は愛することだと私は思います。

そして愛は待つこと。

そしてそれは「あなたが誰か知っている」という事に基づいている。

 

このドラマの一人一人は本当にお互いをよく知っている。

他者を知る事を惜しまず、それを受け止めていく姿は

痛みや喪失感を知る者のあり方だと思います。

「雨が降っても大丈夫、必ず虹が出るから」という

不確定要素の中にある最大公約数における予測に基づく励ましではなく

あえて

「虹は雨が降らないと見れない」なのです。

痛みや嘆きに執着するのではなく、

痛みや嘆きを受け止めて虹を見る。

痛みや嘆きを通過点とせず傷の存在を受け止めてよしとする。

そこには丁寧なあり方が問われているのだと思います。

繕いの世界観がそこにあると思います。

そして繕われた布はその繕われた場所が強くなる。

変わってないけど変化している。

それも含めて私であること、

それも含めてあなたであること、

私たちは互いに存在し合っていることを喜び合うこと。

 

虹は神様との契約の印です。

それは愛のしるし。

イエス様の十字架で私たちが贖われ

そして神に愛されているものとして

互いに愛し合う。

私は虹の村になんだかコイノニアを垣間見た気がしました。

私も虹の村の住人になりたいなぁって思った人はきっと私一人じゃなかったと思います。

 


3月11日 「でももう一度」

2021-03-12 | 普段使いの神学

心を掴まれる言葉を聞きました。

 

311 VOICE Message | radiko

東日本大震災から10年がたとうとしています。あの日から私たちはたくさんのことを学びました。そのひとつが、言葉になって、詩になりました。それが...

311 VOICE Message

 

どの方の声で聞いても涙が溢れてくるのは、

この詩の中にある

「知ってるし、わかってるし、言葉にしなくてもわかってるし

でも、もう一度やっておこう。

大切な事を大切にしていると、かけがいのないものになる。

日々はそれだけで宝物だから」

に心を掴まれるんだと思います。

ここで挙げられている、普通の事。

それを「もう一度」っていうその大切にするという行為。

先週末のRJCで講師をしていただいた、鎌野先生と吉川先生に

1時間インタビューをする企画があったんですが、

その中で「丁寧に生きる」事をみなさんと語り合ったんですが、

この詩にそれが溢れていた。

「日々はそれだけで宝物だから」

そんな生き方を私たちは問われているんじゃないかと思う。

神様の只中に生きるってそういう今を神様からいただいた宝として

自分のことでいっぱいいっぱいでも「もう一度やっておこう」って

立ち止まる事なんじゃないかな。

私たちは「当たり前じゃん」って言葉で神様がいる大切な美しいその場所を

駆け足で通り抜けてしまうんじゃないか。

ありがとうをもう一度言っておこう

ごめんねをもう一度だけ伝えよう。。。

それって「大好きだよ」をもう一度伝えておこうって

そういうことじゃないかなって思う。

あなたの存在が美しいってこと。

神様に心からの感謝を捧げること。

こんな宝物をありがとう・・・

当たり前(ordinary)こそ宝(extrordinary)なんだ。

立ち止まって「もう一度」

わざわざもう一度。

それを大事にしたいなって思う。

丁寧に生きたい。

神様の美しさをなに一つとり逃したくない。

宝探しの毎日がいい。

もう一度・・・大切なものを大切にできる

そんな宝を慈しむ毎日がいい。

インマヌエルの主はそういうあり方に招いてくれているんじゃないかな。

当たり前だけど「でも」その「でも」を善とする生き方。

それが愛する生き方、それが主と共にある生き方なんじゃないかな・・・

私が何度聞いても泣いてしまう詩をここに貼っておきます。

でも、ぜひ声で聞いて欲しいなって思います。

 

******

お母さんにありがとう、もういちど言っておこう

お父さんにおこづかい、もういちどもらっておこう

お兄ちゃんにゴメンネ、もういちどだけ伝えよう

妹のあたまをポンポン、もういちどしておこう

忙しくても

悩んでても

戦ってても

自分のことでいっぱいいっぱい

でももういちどやっておこう

いちばんの宝物はいまそこにあるもの

知ってるし

わかってるし

言葉にしなくたって大丈夫だし

でももういちどやっておこう

大切なものをたいせつにしてると

かけがえのないものになる

日々はそれだけで、宝物だから

お母さんにごめんね

お父さんにありがとう

お姉ちゃんにちょっかい

弟とけんか

もういちどやっておこう

日々はそれだけで、宝物だから


言葉

2021-02-11 | 普段使いの神学

アメリカの弾劾裁判の中継をロイターのライブ配信で見ながら

言葉の力を思いました。

良くも悪くも言葉には力がある。

そして語られる言葉には熱量がある。

最近clubhouseが流行ってきて、

それに入っても思う。

言葉には力がある。

そして、声を通して伝わる言葉には命があるなと思います。

今、Japan Film Festivalというのをこちらでやっていて、

私の大好きな「舟を編む」が上映されます。

「人は分かり合えないから伝えたい」

「言葉で伝える」そのあり方を

丁寧にこの映画は描いていると思います。

原作にはない、ヨハネの福音書1章1節で始まるこの映画

私は何度見ても、心に響きます。

声だけのclubhouseでは

言葉選びが選びが問われるなと思うんです。

ネガティブな言葉や

他者をなじるような言葉や

そこにいない人を詰る言葉は

仲間内では楽しいのかもしれないけど、

やはり公の場で何も知らない人が聞いているという前提だと

私は耳障りがするなぁと感じてしまいます。

ヨハネの1章1節から5節を思い出しながら

私も発信したいと感じています。

徳を高める、互いに愛し合うことに拘りたい。

そして、聞いている人にも配慮したい。

伝えたいことがあるから話すんだから。

「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」

そういう実がそこにある会話がいいなって思います。

冗談を言って笑うことも

たわいのないしょうもない話をする時も、

そこにそういう実があることを願います。

こういう時代だからこそ、

こういうあり方をすることが「とんがっている」奴なんじゃないかな。

問題提起もそれをみんなにシェアして意見交換をする時も、

そこにある言葉が命を大切にするものだったらいいなって思います。

生かし生かされる。

顔が見えないからこそもう一度覚えたいと思います。

意見が違っても、

相入れない思想があっても、

全然好きになれなくても、

神様が作られたその存在に対する敬意と神様への賛美を

持ち続けたいと願います。

人は分かり合えないからせめて少しでも分かり合えたらと願って伝え続けている。

そんな思いを最近強く感じるのです。

 

こんなめんどくさい、興醒めなこと書いていますけど、

私自身はclubhouse楽しんで使わせてもらっています。

そこで楽しい話や勉強になる話や意見交換をさせてもらっているし、

いつか実際会いたいねって言えるのも素敵だなって思っています。

自分も発信側になることがある中で、

私自身が覚えたいことなんだと思います。

 


最近つくってるもの

2021-02-10 | 手仕事

今までも何度か書かせていただいていますが

(手仕事っていうカテゴリーを自分が作ってたことに気づかず、ほぼみんな「日記」に入っちゃってますよね・・・すみません)

私は普通捨てちゃうものを再生するのが好きです。

いつ書いたか覚えてないんですが、

ローカルの羊の毛を紡ぐのが好きなんですけど、

そもそも、北海道の羊は肉食用が普通なので、繊維が短いんですね。

それをウチの家族は紡いで、織って、カタチにしてきたわけです。

こちらでも羊を食用に買っている私の周りの人たちにとっては、

羊毛は基本産業廃棄物的立ち位置です。

多くの人にとって価値がないものかもしれないけど、

私にとっては、超ポテンシャルが高いお宝なわけです。

同じように、古い生地の端切れやあまり糸も

私にとってはキラキラした可能性に満ちた宝です。

よく「お直し」を頼まれるんですけど、

そういう時って、なるべくわからないように戻すっていうのが

期待されるわけです。

(かけはぎの技術とか持っている方、もう、涙もので尊敬!!)

あえて、そこを生かして楽しんでやろう!っていうのが

繕いだったりダーニングだったりするわけですよね。

それぞれ必要な場所があると思います。

私はとにかく最後まで、使い切りたい。

尻尾も切れ端もきっと輝ける場所がある!と思って、

大切にとっておきたいわけです。

で、最近真剣につくっているもの・・・

それは、自然素材の生地(素材も染色も)を使っている

仕立て屋さんが放出してる端切れを使って

ただひたすら繕うっていう作品です。

って全然わからないですよね・・・

興味がある方はインスタのsawkakhugを覗いてみてください。

過程を時々アップしています。

いつもなら、リネンのガチで端切れを

自分で袋詰めして買えるんですけど、

コロナなので、なぜかきっちり四角に切って

ドーンと一包みにしてとんでもなく安い値段で売ってくれています。

(この四角に切った後の布は捨てられているのだろうか・・・涙)

それをランダムに大体私の身長くらいにつなげて、

バッキングにあえて薄いオーガニックコットンをはって、

今はただひたすら繕っています。

糸をかけて、弱いところや、表とバッキングがよれないように

ただひたすら手縫いで糸をかける。

そして形状上、埋まらなかった部分はダーニングでつなげていこうと思っています。

ここではそれぞれがもう1年家にこもっています。

繋がれない時だから繋ぎたいのかな・・・

弱いところも埋められないところも、

聖霊は静かに満たしてくれる。

そしていつも書いていますが、

糸をかけて繕った場所は

とても強くなります。

前とは違う、でも、同じっていう

不思議な存在になるのです。

繕われた場所は強い。

そして美しい。

それだけではなく、繕いは、あえて暖かくなるように足すこともできるのです。

また破れないように、

また裂けないように、

また、バラバラにならないように、

そして、触れる他者の心も体も暖かさで包まれるように・・・

そんな作品を仕上げられたらと思います。

 


1月27日

2021-01-28 | 日記

先日、ちょっと思いついて、zoom同窓会もどきをしました。

そこで、思わぬ話のトピックが出たのです。

それは・・・「終活」

私は日々「就活」の話はしても「終活」の話はしたことがないので、

なんとも不思議な気持ちでその会話を聞きました。

話の内容を聞いていても、いまいち終活の定義がわからず、

とはいえ、そんなことを口に出していうこともできず、

終わった後、こっそり調べてみました。

さっと調べると以下のような文章が出てきます。

「終活とは、死と向き合い、最後まで自分らしい人生を送るための準備のことです」

はて・・・これは私が20歳の頃からしてることではなかろうか・・・

成人した時から毎年、自分の誕生日に遺書とお葬式の式次第を書いてきました。

そもそも、死ぬということは必ずあることだということを

13歳の私は望来キャンプで劇的に知り、同時に洗礼を受けようとそこで決心したわけです。

だとしたら、私、13歳の頃からずっと終活をしてきたことになりますよね・・・

あのキャンプから、私は今は永遠、与えられた今日をしっかり生きるを考えてきたわけです。

だとしたら、あそこで出ていた会話といまいちマッチしないわけです・・・

何故か「終活とは」と検索するとりそな銀行のこの文章が出てくるのですが、

これが同窓会での会話とマッチする気がします。

「終活とは、自分の死と向き合い、生前準備をする活動のこと 終活とは、人生の後半戦を楽しみ、自分の望む最期を迎えられるように元気なうちから準備をすることです。 年齢を重ねるにつれ、老後の生き方や人生の締めくくり方を考えるようになる人も少なくありません。」

この生前準備の話を多分してたんだと思うんです。

その内容が、

1・今までしてきたけどちょっとしんどくなったことをやめる

2・ものを捨てる

という2点に集約されていたように思います。

主に趣味や活動をやめたという話や

必要なもの以外は所有物を捨てるという内容でした。

そんな中で、色々な取り組みをしている人たちは

「若い」のだと言うのです。

そもそも終活って老け込むことなんでしょうか?

死は老人にのみ訪れる「終わり」なのでしょうか?

私がモヤモヤしているのわかっていただけるでしょうか(笑)

終活=人生のお片付け という発想に石を投げたいと思います。

どんな年齢でも、不必要なものはない方がいいと思います。

その方が軽やかに生きられるだろうし、移動する時もしやすい。

でも、大切なものを諦めるのはやめた方がいいと思います。

目が見えずらくなった、体力が落ちたという理由で何かをやめるなら

それはきっと人生の中でそれほど大切でも好きでもなかったんだと思います。

そもそも神様からのコーリングだったら、自分の都合でやめるというのはないかなと思うから。

年齢を理由に新しいことをしないのは不誠実な生き方だと思います。

そして、誰かを「若い」と揶揄するのはもっと不誠実なあり方だと思います。

そんな終活なら私はしたくない。

終活は本来、子供の頃からずっとしてても良いんです。

それは与えられた1日をしっかり生きるってことから始まると思うから。

人は必ず死ぬ。それはいつかわからない。

ちゃんと生きること、ちゃんと愛すること、それが本来の終活じゃないかな。

佐々木蔵之介さんが「死んでこの世を去るよりも生きるにあたり、私佐々木蔵之介は、

50歳で始めた終活をしない事にしました」とおっしゃったそうです。

やりたいことをやる、新しいこともやる、ちゃんと生きる、健康に気をつける、なんでも捨てない等々

そのリストを見て、とっても同感しました。

いらないものは捨てたらよろしい。

必要ないものはそれを誰かに使ってもらったらよろしい。

でも、終活のためにそれをするのはどうかなと思うんです。

それは本当に愛することなのか・・・それは生き、生かすことなのか・・・

新しいことやりましょうよ!それは何歳でもgenerativeな生かすものかもしくは

散ってなくなるべきものか・・・

どちらにせよ、年齢を理由に新しいことから逃げるのはかっこ悪い生き方だと思います。

後藤はつめさんのように、

73歳で絵を始めて、82歳で現代童画展新人賞を受賞する人だっているんです。

西本貴美子さんだって72歳で写真を始めて、

超面白い写真を撮って話題になった方、素敵じゃないですか。

別に大物や有名人にこれからなろうよって言ってるんじゃないんです。

幾つになっても新しいことを始めて、その道具を揃えて、良いじゃないですか!

人生のセカンドハーフは諦めるためにあるんじゃない。

生きて、愛するためにあるんです。

残された人のことは10代の頃から慮ってください。

それは「たしなみ」としてあるべきものです。

生きることは死を忘れることじゃないし、

死を考えることは生きることを放棄することじゃない。

二者一択になってはいけないんです。

幾つの時も、終活は当たり前にあるもの。

幾つになってもときめいて、ワクワクして、挑戦し続けたいと思います。

小さな小さな挑戦かもしれない。

でも、やっぱり新しいことにワクワクして

いっぱい新しい発見をして新しいことをやってみたい。

しわしわのおばあちゃんになるまでもし生きられるとしたら、

その時もやっぱり、新しいことでワクワクしていたい。

私たちは日々新しくされているんです。

幾つになっても神様の冒険は続くのです。

だから、歳は取らずに重ねましょう。

老化ではなく円熟していきましょう。

枯れるのではなく芳醇になっていきましょう。

そんな風に人生を歩んでいかせてもらおうと思う次第です。

死ぬまでしっかり生き生きと生きるを満喫いたしましょう!

 


1月9日

2021-01-10 | 日記

あけましておめでとうございます!

今年もどうぞ宜しくお願いいたします!

新年のご挨拶がこんなに遅くなってしまってごめんなさい・・・

なんだか、2021年はバタバタと始まりました。

年末のEC20で神様からしっかりと語られ、

それを思い巡らしながら2021年を迎えたたのですが、

なんだかとにかく落ち着かない感じでこのおよそ10日を過ごしてしまいました。

カナダ政府が入国に対して新しい規定を設けたので、

冬学期から戻ってきた学生たちは一気にわちゃわちゃしました(苦笑)

それがちょっと落ち着いた・・・と思ったら

今度は私が突然の激痛に見舞われ・・・

左股関節から足に向かっての激痛で、

いやはや、寝込むこともできないっていう(苦笑)

横になると吐くほど痛いけど、起き上がれなくなるし(苦笑)

座るにしても高さとかが微妙だし、そもそも座ったら立ち上がれないとか、

体重がかけられないから歩くのもえらいこっちゃ・・・

4日ほど睡眠不足になりました(苦笑)痛み止めも全く効かなかった。

そんな時に行ったのが鍼です!

これが効いたんです!!

5日目にはほぼ痛みもなくなり、普通に動けたんですよ!!

神様って本当に体を複雑にそして不思議に造られたんだなと

痛感しました。

ECで語られた一つのことは

「外野の声が気になる自分」でした。

応援の声の中に一人だけヤジを飛ばしている人がいるとする。

私はそのヤジの声が気になるんです。

すっかり応援してくれている人もみんなヤジを飛ばしているんじゃないかっていう

気持ちになってしまうんです。

この痛み、ヤジでした・・・

治ってみて思うのは、

たまたまこの4日間に連絡を取らないといけなかった人たちが

すごく心配して祈ってくれたことが

どれだけ励ましになったか・・・

痛みが治った時に一緒に「ハレルヤ!!」って言えたことが

どれだけ嬉しかったか・・・

コロナが始まって、規制だらけの生活になってそろそろ1年になろうとしています。

みんな疲れを感じています。

そして、不安な人も多い。

そんな中でも励まし合えること、

祈りあえることが

こんなに嬉しいことだったか・・・

とっても大切な再確認を年の初めにさせていただきました。


クリスマス2日目・・・今年中に・・・

2020-12-27 | 日記

皆さんメリークリスマス!

ソロクリスマスを予定していたのですが、

同じ一人暮らしをしている独身の友達と

一緒にクリスマスを過ごすことになりました。

BC州では、一人暮らしの人で2名まで決まった人となら

バブルを作って一緒に過ごす事ができます。

そういう経緯で、とんでもなく久しぶりに

人と家で過ごしました。

ちゃんとしたターキーディナーを作ったので、

これからしばらくターキー三昧です(笑)

お昼過ぎに家に戻ってきてから、

今年中にしなければいけないことのリストを作りました。

明日からECも始まるので、

もう後回しにできないこともたくさんあります。

そんな事柄を見る時に、

自分の根本的な問題と再開しています(苦笑)

私には幼少期のトラウマから「後回し」にするという問題があります。

この問題は一生かけて戦わないといけないことなのですが、

大人になればなるだけ、笑い事では済まされない事でしかないのです。

後回しにしてしまうのは意図的でもなく、

怠け心でもなく、

恐怖心により

一歩を踏み出したり、取り組むことが

とんでもない大きさの心的ストレスになってしまうという

なかなか厄介な問題です。

自分の意志の強さでなんとかなる事でもなく、

何年も何年もかけて、

プロの助けを借りながら、少しずつ付き合えるようになってきた

そういう問題です。

交通事故にあってしまった事で随分後退してしまい、

階段を上がったり、降りたり、道を渡ったり、人とすれ違ったり・・・

そういう事すらできなかったけれど、

それも時間をかけて一つ一つ、

日常に支障なく生きていけるように向かい合ってきました。

事故の後遺症で音や匂い、光や色、色々な五感の異常過敏も

随分人並みに抑える方法を身につけられました。

2020年の間にどうしても1歩を踏み出さねばならない事の

量を見る時に、随分回復したんだなと思います。

それでもまだまだ追いついていない事がたくさんある事も事実です。

色々な人にご迷惑もかけています。

それでも、この4年間、随分回復したと思います。

そして、長期の問題である、この「後回し」も

なんとか少しずつ減らすことができるようになってきたのかなって思います。

2021年にはまた少し「後回し」にしなくても

恐怖心なしでできることが増える事を期待します。

イエス様の手の温もりをもっと知る一年がきっと待っている

だから最後までしっかり、

絶対に今年中に終わらせないといけない事を終わらせられるように

イエス様が私の手をしっかりと握ってくれている事を覚えたいと思います。

このどうしようもない体の中に息づいている恐怖を

主が知っていてくださる事に信頼しつつ・・