まずい、クリスマスがやってくる!
プレゼント作りが間に合ってない・・・
Where God happensは2005年に出版された本ですが、
この頃は丁度私がリージェントで学びを始めた頃で、
community(共同体)というのが非常に強く語られていました。
現在もそうですが、霊性(Spirituality)というのが個人主義と結びつくと、
Solitude(独居)の必要性を強調することが多く、
共同体と切り離して話されたり、理解されたりして居る事への懸念が
大きいと思います。霊性は自分と神様との関係の中だけに置かれることが
多かったからです。霊性と伝道は全く別々に語られることが多いですしね。
そのようなことを話すときに、多くの人がDesert Father/Motherを
Solitudeという観点で話したがるけどそうじゃないんじゃないかな、
本来のSolitudeの立ち位置を取り戻しましょうよというのが
話され始めた頃なんじゃないかなと思うんですね。
カナダは静かで強い個人主義の国なので、
この共同体の必要性を考えるには良い場所なのかもしれません。
この本の目線もそこにあるかなと思います。
昨日はデズモンド・チューチューの前書きを引用させていただきましたが、
今日は本文から・・・
plain acknowledgment of your solidarity in need and failure opens a door: it shows that it is possible to live in the truth and to go forward in hope. It is in such a moment that God gives himself through you, and you become by God’s gifts a means of connecting another with God. You have done the job you were created to do.
(独居によって得られる自分の必要や失敗を知ることは、真実に生きることへの可能性と希望への前進の扉を開きます。この瞬間こそ神ご自身をあなたに与え、あなたを通して現れ、あなた自身が他者を神と繋ぐ賜物となるのです。あなたはあなたがするべきように造られたそもそもの「仕事」をなすことができるのです)
これをウイリアムスは Where God happens(神が始まるところ)と呼びます。
私たちのミニストリーもそれをとても大事にしてきました。
どう伝えるかじゃなくて、何が伝わるのか・・・誰が伝わるのか・・・
私たちはシャロームの中に共に歩みたいと願う中で、
自分が福音に生きることに真剣になることから始めようという立ち位置です。
でもそれは、福音に生きられたからじゃあ次伝えますじゃなくて、
そのプロセスの中にこそ伝わるものがあると考えるわけです。
「神様が始まるところ」つまり「聖霊がすでに働かれている場所」に行くことを
大事にしてきました。
これか、あれかじゃなくて、
これができたから次じゃなくて、
色々なプロセスの中で
solitudeとcommunityが共存する場所が
必要だと私も思います。
It is opening doors for them to healing and to wholeness. Insofar as you open such doors for another, you gain God, in the sense that you become a place where God happened for somebody else. You become a place where God happens. God comes to life for somebody else in a life-giving way, not because you are good or wonderful but because that is what God has done. So if we can shift our preoccupations, anxiety, and selfishness out of the way to put someone in touch with the possibility of God’s healing, to that extent we are ourselves in touch with God’s healing. So, if you gain your brother or sister, you gain God.
To find my own life is a task I cannot undertake without the neighbour; life itself is what I find in solidarity, and not only in a sense of togetherness (talking about solidarity can easily turn into no more than this) but in that willingness to put “on hold” the perspective I want to own and cling to and possess, so that something else may happen through my presence and my words- the something else that is the announcing of the gospel.
私、やっぱり普通のことを普通にしてただけだったんだって
安心しました(笑)