ときどき、ドキドキ。ときどき、ふとどき。

曽田修司の備忘録&日々の発見報告集

カンパニー・マリ・シュイナール「オルフェウス&エウリディケ」

2009-02-07 23:04:34 | アーツマネジメント
カナダ・モントリオールを本拠とする世界的なダンスカンパニーであるカンパニー・マリ・シュイナールが3年ぶりに来日公演を行っている。

まず、2月1日に高知県立美術館ホールで1回の上演、6日から8日まで東京・北千住のシアター1010(これで「せんじゅ」と読む)で3回公演、そのあと、11日に、滋賀県のびわ湖ホール(中ホール)で1回の公演を行う。

今回の作品は、「オルフェウス&エウリディケ」である。
ギリシア神話に登場する世界最初の詩人オルフェウスとその妻(舞台奥に投影されたスライド字幕によると森の精霊だとされていた)エウリディケの物語をバレエ化(クラシックバレエではなく、コンテンポラリーバレエ)したものである。

その基になっているギリシア神話はおおよそ次のようなものである(Wikipediaを参照)。
エウリディケの死を嘆き悲しむオルフェウスに心動かされたゼウス神たちが、オルフェウスに愛の神を遣わし、黄泉の国からエウリディケを連れ帰ることを許すと告げる。オルフェウスは地上に連れ戻る際に決してエウリディケを振り返ってはならぬという試練を与えられる。ところが、エウリディケは途中で夫が振り向かないことに疑念を抱き、不安からついていくのをやめてしまう。オルフェウスが耐え切れず後を振り返るとエウリディケはたちまち死んでしまう。

マリ・シュイナールは、これをただ優雅に哀切に美しくバレエ化しただけではない。
これを、奇妙奇天烈に、大胆に、暴力的に、根源的かつ宇宙論的なスケールで、そして、この上なく優雅に繊細に哀切に美しくバレエ化したのである。およそ、人間(じんかん)のちまちました世界ではとてもではないが計れないほどの、この上ないスケール感がこの作品には感じられる。

カンパニー・マリ・シュイナールのダンスは、端的にいうと非常にエキセントリックである。エキセントリックであり、同時にエレガントでもある、という、通常ならまったく互いに相反する概念をダンス作品として実体化している世界的にも稀有なカンパニーである。

それにしても。

舞台上でダンサーがこんなにも自在でエネルギッシュでユーモラスに踊り、ダンサー自身が男であれ女であれ、舞台上で獣のごとく野太く咆哮を繰り返すダンスを創造しているところなど、世界中探しても、このカンパニー以外にどこがあろうか。

3年前の「コラールchorale」という素晴らしい作品でもそうだったのだが、彼らの舞台では、人間の野性というものが「目に見える化」されている。ここで私は、わざと、視覚化ではなく「目に見える化」と言っている。

その振り付けは、単なる抽象的な身体の動き、にとどまるのではなく、それ自体がつねに存在論的な意味をもってしまう。

たとえば、ダンサーたちが、一列に連なって下手から出てきて、舞台を横切って上手に去る、という一連の動きとか、何人かのダンサーが舞台奥からまっすぐに、あるいは斜めに舞台前方に出てくる動きとか、ともすれば、何でもない、ただ動きを見せているだけ、となりそうなシンプルなシーンさえ、それは、単なる抽象的な動きではなく、観客には何らかの意味が見えてしまう。

それは、そういう言い方ができるのであれば、まるで、人間というものが、どこであろうと、いつの時代であろうと、たしかにこのようなあり方で存在してきたのだということを常に思い起こさせてくれるような野性の力強さにあふれている。

あるいは、この舞台は、私たちが西洋的思考によって無意識のうちのそのように考えることをしむけられているように、人間というものが他の生物に対して特権的であるとするのではなく、逆に、人間が世界に(宇宙に)存在しているということ自体が意味性をもっているという感覚を自然に感じさせる。私はそのようにこの舞台を見て感じた。

舞台では、男女ほぼ半々のダンサーたちの踊りが、ときに静的なポーズをシルエットで見せる手法を多用しながら、さまざまに組み合わせられて展開されるが、彼らは男のダンサー、女のダンサーとしてだけ舞台上にいるのではなく、ときにユニセックスであったりトランスセックスであったりの変化を繰り返す。

振り付けや構成演出のすべてが力強く洗練されているが、今回、私にとって、表現技法として一番ユニークでケタはずれだったと感じられたのが、女の人が口を開けて立ち、そばに寄ってきたもう一人の女が、その女の喉の奥(腹の中)からとんでもなく太い(と感じられる)見えない何ものかを引っぱり出すシーンである。その「もの」が引っ張り出される動作によって引き起こされる太く奇妙な音がそのダンサー(女)自体の太く不気味に響く野性的な発声によって擬音として表現される。その、長い長~い「もの」を引き出す動作とそれに伴う不気味な咆哮がどこまで行ってもつづき、どこまでも反復され、そのまま終わらないのではないかと思うくらいに繰り返される。シーンとしてはごく小さなものだが、ひとつの表現の冒険として、まさにばかばかしく圧巻であった。

ダンス作品であるにも関わらず、感覚としては野性のミュージカルとかフィジカル・オペラと呼びたい誘惑に駆られるほど、身体によって「目に見える」音楽が奏でられる舞台だった、と言っておこう。






コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 報道番組のミスリード | トップ | 2/21・22「星を見てい... »

コメントを投稿

アーツマネジメント」カテゴリの最新記事