読書の記録

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私とは何か 「個人」から「分人」へ

2013年12月16日 | 哲学・宗教・思想

 私とは何か  「個人」から「分人」へ

 平野啓一郎


 現代日本の世相や社会状況の論評のひとつに「行き過ぎた個人化」というのがある。

 そもそも近代化とは、社会学的には「個人化」というものをつくることであった
 これは、コミュニティの全体最適よりも個人の部分最適のほうが優先されるというベクトルである。全員が一緒にいてほどほど幸福であるよりは、ひとりひとりがばらばらになっていいからそれぞれが幸福なほうがいい、ということである。
 このコミュニティの大きさは、かつてはムラ全体だったがやがて一族となり、本家だ分家だという話になり、そして戦後は核家族となり、そしていまや家族でさえも最小単位とならなくなり、一人ひとりとなった。
 昭和の日本型会社経営は、疑似家族という文化をとりいれた。これも時代が進むとともに契約型にシフトしていっている。

 メディアの技術革新もそれを手伝った。お茶の間で家族全員にむけて情報を提供してきたテレビはやがて、各部屋に置かれるようになった。これはみんなでそこそこ面白い番組をみるより、ひとりひとりがそれぞれ面白いと思う番組をみるほうが優先されるということである。テレビが個室に入っていく歴史と、紅白歌合戦の視聴率が迷走していく歴史は完全にリンクする。
 さらにインターネットの普及、ブロードバンドの躍進。携帯電話の登場。そしてスマホへ。「必要は発明の母」というのであれば、科学技術のほうは確実に「個人化」をフォローアップしていった。

 しかし、ほんらい人は孤独に弱い。孤独は免疫力を弱め、寿命を短くする。
 そこで家族や組織に代わるコミュニティを人は求める。学校のグループだったりママ友だったり。LINEやSNSはそれを補強する。
 だが、コミュニティというのは連帯であり、連帯というのは必然的に排除との関係で起こるものだから、かつてのムラのコミュニティがそうだったように、現代のコミュニティにも神経戦と人柱を覚悟しなければならない。


 というわけで、「行きすぎた個人化」で、かつての歴史にはないほど、現代は個人の嗜好や欲望が満たされるようになったが、その半面、だれもが個人つまり自分自身を優先するために、誰も自分を守ってくれない社会ともなった。
 現代は、個人の欲望がもっとも満たされやすい時代であるとともに、最も個人が攻撃されやすい時代にもなったわけである。

 そこで、「自分自身を使い分ける」という処世術が出てくるようになる。
 最近よく聞く「キャラを使い分ける」とか「キャラが被る」という切り口は、自分自身の立ち振る舞いをキャラクターという「機能」に仕立て上げる発想である。

 「機能」であるから、優秀なのとそうでないのがある。
 この機能が優秀かどうかは何で判断されるかというと、相手がそのキャラを受け入れられるかどうかである。優秀かどうかは相手が決める。「機能」とは作用されるものがあってこそ「機能」であり、この場合であればそれは人間相手そのものということになる。
 だから、キャラを使い分けるというのは、「相手に合わせて自分の立ち振る舞いを使い分ける」ということである。キャラが被る、というのは、「相手と同じになってしまう」ということである。
 相手本位の発想がここにはある。

 しかし、あらためて個人化の歴史を考えてみれば、昔から人間は社会を形成する上で「相手本位」だったということである。ムラ社会の時代から、大家族主義の時代から、相手との相対関係の中で自分の立ち振る舞いは決定されてきた。そして、そのこと自体は今も変わらないのである。ただ相手が地縁血縁から、同じ学校とか、SNSになっただけである。
 元来において人格とか個性というのはアフォーダンスなものなのだ

 つまり、かつてないほど個人の欲望が達成されやすい時代であるにもかかわらず、相手との関係性の中で立ち振る舞いが規定される社会、というのが現代の日本である。この前者と後者の格差が開ききったのが現代の日本なのである。
 相手との関係性の中で、自分のキャラが決定される、というのは時代に不変で、至極当然なことなのだが、なまじ個人礼賛というもうひとつのベクトルが働いたおかげで、「相手本位」が極度のストレスになったり、”本当の自分でない”という疑心をつくりやすくなったりしたと言える。


 本書で導入された「分人」という概念は、「相手本位」である人格というものを肯定的にとらえる試みである。
 「行き過ぎた個人化」の時代の中で、自分探しとか自分磨きとか、あるいは「かけがえのない自分」とか、自分自分と求心的になればなるほどなぜか苦しい。それはもともと「自分」とは相手あってこそできるものである。自分は他人がつくるもの。他人は自分がつくるもの。そうすれば喜びは2倍。悲しみは2分の1である。


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