ディカプリオお味噌味

主に短編の小説を書く決意(ちょっとずつ)
あと映画の感想とかも書いてみる(たまに)

悲しみの傘⑱(終)

2016-10-31 17:34:01 | 小説
「――――妻は、眞由美は、私が殺したようなものなんだ」
 突然、足元が消えたと思った。がしかし、伸久はそこに座っていて、目の前には哲郎がいる。頭に集中した緊張はスパークし、全身に解き放たれた。血液が盛んに循環しているわけでも逆流しているわけでもないのに、体が熱くて呼吸がうまくできない感覚だ。
 最初の一言で明らかになったことが二つある。
 一つは裕次郎の母親はやはりもう死んでいること。そして二つ目は殺されたということ。
 だが、引っかかった。「殺したようなもの」とは一体。
「ノブくんは私が昔どんな仕事をしていたか知ってるかい?」
「いえ、大まかでしか聞いたことがなくて、具体的には……たしかIT関連の会社だったと」
「そう。当時はインターネット人口が爆発的に伸びていた時期でね、九十年代の中盤だった。最初はホームページの作成依頼を受けたりとかそんなので始めた会社だったんだが、いまでは信じられないかもしれないがこれが売れてね。それを資金にエンジニアを増やしてITマネジメント、つまりコンサルのような業務を行うようになって、これも順調にいって会社は右肩上がりだった。ちょうど眞由美に出会ったころだった。友人同士の集まりで初めて眞由美と会ってね、恥ずかしい話一目惚れしてしまったんだ。眞由美は美しく聡明で、昔の自分だったら高嶺の花だったが、会社経営者という薄っぺらい肩書きが僕を強くしたのか、誠心誠意、交際を申し込んでね。結果的に彼女と交際することになり、二年で結婚して、すぐに裕次郎が生まれた。私は貧しい家庭の育ちで、見てのとおり見てくれも良くなくて、自分が頑張れるものは勉強しかなかった。なんとか勉強して国立に入って、自分の努力を信じて起業して、それもうまくいった。何もかもがうまくいっていた、不思議なくらいにね……」
 初めは寂しそうな横顔で、そしてノスタルジックな眼まで浮かべて話していた哲郎だったが、一区切りつくと、口を真一文字に結んだ。哲郎の喉仏がゆっくり上下するのがはっきり見えた。他人の欠伸がうつるように、伸久もまた隆起している自身の立派な喉骨を上下させる。
「あれは、六月だった。もうそのころには、会社は傾き始めていた」
 突如、空気が一変した。哲郎の右目は横からみても明らかなほど赤く染まり出し、次に発した声はまるで別人だった。
「――――仕事から帰ってきた私を出迎えたのは、玄関で頭から血を流して倒れていた裕次郎だった。私はパニックになって、初め裕次郎が生きているかどうかも判断がつかなかった。ただ何度名前を呼んでも裕次郎は目を覚まさなかった。後頭部に生える髪は血で固まっていた。私は裕次郎を抱えながら、リビングルームに向かった。妻の名前を呼びながらね。中に入った瞬間、死のにおいがした。単なる血液のにおいじゃない。眞由美は床に倒れていた。玄関のものとは比較にならないほど、大量の血が水たまりのようになっていた。眞由美の顔は血に染まっていた。眞由美の命が絶たれていることはすぐにわかった。妻の死相を見て気づいた。裕次郎は生きているのか、死んでいるのかをね――――。裕次郎の鼓動を確認した後、私はすぐに裕次郎を病院連れて行った――――」
 裕次郎が休んだ一週間だ。実際一週間だったかどうか定かではないが、裕次郎は包帯を巻いてやってきた。つまり、あのときもうすでに裕次郎の母親は死んでいたことになる。
 だが、真実の問題はそこではない。
 数分で伸久の全身は汗で濡れていた。身体の中心は血液が沸騰して溢れ出るように熱いのに、汗で濡れたシャツが張り付いた皮膚は氷を接着されたように冷たい。
 伸久は両手を祈るように組んで問うた。
「おばさんは何者かに殺されたということですよね?裕次郎も何者かに殴打された――――なぜそれを隠したんですか?なぜ救急車を、なぜ警察を呼ばなかったんですか?」
 哲郎は何度も頷いている。当然の疑問だと言いたげに。瞑目したまま、自分に言い聞かせるように何度も頷く。
 そして、哲郎は右手の親指と人差し指を使って何かを手に持った仕草を見せた。もちろん、そこには何もない。
「――――リビングの机の上に紙が一枚置いてあった。そこにはこう記されてあった。『これはお前が受けるべき当然の報いだ。もし警察に知らせれば、こちらもお前が犯した罪を警察に話す』と」
「お前が犯した罪って……?」
「たった一つだけ思い浮かぶことがあった。ハッキングだ」
「ハッキング?そんな……いったい何をしたんですか」
「当時、他社との競合が激化していって、ずっと右肩上りだった業績が急に冷え込んだときだった。私は必死だった。間違った方向に必死だったんだ。過去の栄光を、いまの家庭を何とか守ろうとした。そして、ある若い勢いのある競合会社の顧客情報をすべて盗んで漏出させた。当時はまだセキュリティが甘かったところがあってね、ハックするのもわけなかった。その会社の信頼は失墜した。私は法を破って一つの会社を潰したんだよ。それで何人、何十人という人間が苦しむことをわかっていながらね。経営者としての才がないことを否定できず、私は人間の道を踏み外してしまった」
「ちょっと待ってください。そしたら、おばさんを殺した犯人は、その会社の人間だったということです?」
「その可能性が高い」
「でも、そんなのおかしいですよ。どうしてそんなことする必要があったんですか?おじさんの犯行だとわかった時点で、犯人はどうしておじさんを訴えなかったんですか?」
「考えられることは二つある。一つは私がしたという完璧な証拠までは得られなかった。あとは、私の会社にはもう将来がなく自然消滅するこちに気づいていて、別のやり方で復讐しようとしたのかもしれない」
「そんな……そんなことって……」
 犯人はよほど大きな恨みを抱えたに違いない。会社が倒産することによって、かけがえのないものを失ったのかもしれない。
 いまわかった。哲郎がいった「私が殺したようなもの」とはこういうことだったのだ。
 それだけではない。なぜ哲郎が犯人が脅したように妻が殺害されたことを隠したか。無論、自分の罪を隠しきるためであろう。だが、もしそれだけであるのならば、哲郎はすべてを認め、犯人捜索を選んだに違いない。問題は裕次郎だった。母が死に、父まで逮捕されれば幼い裕次郎はどうなるか。考えるだけでも恐ろしいことである。哲郎は選んだ。犯人の思惑通り、妻の存在を消して、二人で生きていくことを選んだのだ。自ら蒔いてしまった種とはいえ、どれほど懊悩の底沼でもがいただろうか。どれほどの悲劇の大嵐にもまれただろうか。
 伸久はこれ以上哲郎を見ることができなかった。頭を垂れ、床だけに目線を落として続けた。
「それで、おばさんの死体は一体どこに」
「うちの庭に埋めた。家を出ていったということにするために、妻の所有物はほとんど一緒に埋めた。まだきっとあるはずだ」
「裕次郎の頭の傷はばれなかったんですか」
「そのときは咄嗟に出たテーブルの角に思い切りぶつけたという嘘はばれなかった。いまだったら幼児虐待の疑いをかけられていたかもしれない」
「齋藤守と名乗った男が犯人の可能性は高いと考えられますか」
「おそらくそうだろう。なぜ現れたかはわからないが」
「時効だからじゃないでしょうか」
「時効?」
「これもまた僕の妄想ですが――――犯人は裕次郎に顔を見られたという恐怖がずっとあったのではないでしょうか。犯人は今回の自らの犯行を死刑もしくは無期懲役に値するものではないと考えた。なぜなら、自分は被害者の夫の不正な行為で会社を潰されたという主張があったからです。もしかしたらそれによって家族を失ったのかもしれない。いずれにせよ、犯人はこの殺人の時効を十五年と判断した。そして十五年目を迎えたいま、犯人は堂々と裕次郎に会いに来たんです、齋藤守という偽名を使って。裕次郎は何も覚えていなかった。犯人はこれで安心して自由になれると思ったのかもしれません。裕次郎がもし思い出した素振りでも見せれば殺そうと思っていたのかもしれない。でも、結局犯人が裕次郎に与えた一撃が、いまとなって裕次郎を苦しめているのかも……」
 伸久は立ち上がって廊下のガラス越しから小さく見える裕次郎を眺めた。裕次郎はいま必死に戦っている。必死に生きようとしている。
「おじさん、これからどうするんですか」
「……過去の罪を認めるしかないと思っている」
「すべてですか」
「裕次郎がこうなってしまった以上、そうするしかあるまい」
「でももし裕次郎が回復したらどうするんです」
「私にもう裕次郎を支える資格も権利もない。私はこの十五年間、嘘と泥にまみれた手であの子を育ててきた。嫌悪感を抱いて当然だ。息子が父親の真実に気づかないわけない。ノブくんがいったように、裕次郎は何かに気づいていたに違いない」
「だからといって、それじゃ無責任だ!裕次郎は一人になってしまう……」
 哲郎もまた重い腰を上げ、伸久の横まで歩み寄った。すっと目を細め、じっと慈愛と悲哀に満ちた視線を傷ついた息子に注いでいる。
「――――ノブくん、これからもずっと裕次郎の友達でいてくれるかい」
「……どういう意味ですか」
「信頼できる友人が一人でもいれば、裕次郎の人生は救われるかもしれない……私はもう、何もしてやれない」
「おじさん……」
 いうべき言葉が何も見つからなかった。代わりに裕次郎の先の人生を考えた。もし意識が戻り、回復したときの人生だ。
 そのまま父親との二人での生活がいいのか。それとも父親が犯罪者であったことを知り、また母親が殺害されたことを知り、そして犯人と相対したことまで知ったとき、裕次郎はどうなる。恐怖と瞋恚。裕次郎の人間性は確実に破壊される。
 自分一人で救えるわけがない。ならばいっそ、このまま父親と二人で生きていくべきではないか。たとえ真実を明かさずとしても。
 むしろこのまま目覚めないほうが――――
 そんな最悪の結末を思い描いた瞬間、黒い物体が視界の左端に入った。それは、裕次郎のベッドの足元にかけてあった。
「傘……?」
 傘だ。花柄の刺繍のようなものが施された、大きな黒い傘。それは、哲郎と裕次郎のアパートに置いてあったものだった。
 裕次郎はいっていた。遺品のようなものだ。お気に入りのはずだったのに、あの傘だけ置いていった、と。おそらくそう哲郎から話を聞いたのだろう。だがそれは嘘だ。
 伸久は聞いた。「一つ聞いてもいいですか」
「まだ話すことがあれば」
「あの傘は、どうして処分しなかったんですか」
「あれか……」
 哲郎の声が深く沈んだ。「あれもたしか、天気の悪い、いつ雨が降ってもおかしくない日だった。私が初めて彼女を食事に誘ったときだ。デパートのディナーに招待して二人でイタリアンを食べたんだ。僕は緊張しっぱなしで、交際を申し込もうという焦りばかりで、食事の味や景色も何も覚えていない。結局最後まで何もいえなくてね。帰ろうとして外を出たら雨が降っていた。二人とも傘を持っていなかったから、せっかくだからデパートで傘を買おうと私が提案したんだ。店が閉まる直前だった。妻はすぐにあの傘を選んでね。私が自分のを買おうとしたとき眞由美がこういったんだ。わざわざこんな高い場所で二本も買う必要はないとね。この傘なら男性でも使えるっていうんだ。結局私はその一本を買って、二人並んで駅に向かった。そのとき私は、これはきっとチャンスだと思った。いまここで思いを打ち明けなくてどうするのかと。私はあの傘の下で彼女に告白したんだ。人生最高に幸せな瞬間だった。――――そう、あれは私にとって幸福の傘だった。いまとなっては、持ち主に一人取り残された、悲しい傘だがね。そのすべての原因は私にある……」
 話し終えた哲郎はついに限界の線を跨いだ。そして嗚咽した。深い心の傷から溢れ出る涙は止めどなく、老体の乾いた頬を濡らした。
 伸久はICUを出て、出入り口の受付でバッジを渡して外に出ると、排煙が充満したような空から雨が降り注いでいた。
 そうか、今日から梅雨だったっけ――――
 そう思いながらしばらく立ちんぼしていると、背後から「これ使いますか?」と受付の女性がビニール傘を一本差し出してくれた。
「いいんですか?」
「ええ、いくらでもあるので、どうぞ」
 お礼をいって伸久はそのビニール傘を受け取った。
 広げると、頭上で雨粒がビニールを打つ音が響いた。
 別れ際、哲郎がこんなことを伸久に語った。
「眞由美がこういっていたことがある。ノブくんは本当に賢い。将来必ず偉い学者さんになるって」
 そして、「私がこんなんじゃなければ、裕次郎も……」と再び嗚咽をこらえ、伸久の胸は張り裂けそうになった。
 だが、なぜだろうか。ふとそのとき、あの黒い傘が頭に浮かんだ。
 白い花の残像を残し、大きな黒い傘は瞬く間に四方に広がり、地上に残された二人の男を包み込んだ。
 伸久はふと立ち止まると、広げた傘を閉じて空を見上げた。
 見上げる空はやはり灰色で、瞬く間に顔が濡れた。
 そして振り返り、「裕次郎、元気でな。また来るよ」とごちて、伸久は傘を閉じたまま一人歩き始めた。

(終)
 

悲しみの傘⑰

2016-10-30 18:14:23 | 小説
 裕次郎はまだそこにいた。ガラス越し向こうに寝そべっている友は、四日前と同じ、酸素を与えられ、包帯を頭に巻いていた。十五年前のあの十月――――いや、六月に巻いていた包帯よりも、何重も分厚く、何倍も重いものを、裕次郎は頭に抱え、目覚め方を知らぬまま寝ている。
「こんにちは」
 伸久は立ち止ってそういうと、哲郎は「やあ」といって温厚な眼差しを向けてきた。その横顔はいささか翳を増し、心身の疲弊が空気の色となって滲み出ている。
「十月だったと思ったけどね……」
 昨日、節子はそういって語尾を濁した。他のお母さんに聞いてみる?など言い出すから伸久は止めてそれ以上なにも聞かなかった。もし本当にそれを知る必要があるというのなら、哲郎に聞けば三秒でわかることである。彼が嘘をつかなければの話だが。
 裕次郎はもう起きないかもしれない。裕次郎が助かりさえすれば、六月か十月かなんて、そんな二択の問題などあまりにも些細だ。それが伸久の本音だった。
「すみません、突然来てしまって」
「いや。わざわざ遠いところまで来てくれてありがとね」
「何もすることないですから。裕次郎は?」
「相変わらずだよ。このままだ」
「ずっと付き添ってたんですか」
「一度家には帰ったよ。着替えとかを取りにね」
「お仕事は」
「しばらく休みをもらった。いいんだ、どうせいてもいなくても何も変わらないし困らない仕事さ」
「いつでも駆けつけられるようにですか」
「まあ、そうだね」
「そうですか」といって伸久はゆっくりと歩き始め、裕次郎と哲郎との距離を縮めた。
「一つお伺いしたいことがあるんです」
 哲郎は年老いた顔を向けて、「ん、どうしたの」と柔らかい口調だ。
「齋藤守という男のことをご存知ですか」
 哲郎は目を細めて怪訝な表情を浮かべ、「さいとう……まもる?」と繰り返した。
「ご存知ないですよね。いえ、それでいいんです」
 伸久は前だけを見て滔々と話し始めた。
「裕次郎と福井に行く前、ある男性が家を訪ねてきたらしいです。中学のころ裕次郎のお母さんと同級生で、何十周年かの同窓会でおばさんのことが話題になって、気になって捜してるって。どうやらその齋藤という男にとっておばさんはマドンナのような存在だったらしくて、会いたくなったそうです。それで些細なことでも知りたい、君も気になるだろ?って真剣に問われたって。それがきっかけで裕次郎も気になり始めたといってました。知ってますか、そんな名前の男のこと」
 あえてもう一度尋ねた。人間の記憶というものは曖昧だ。積まれれば積まれるほど、埃を被れば被るほど、よほどの光を放たない限り、それは光の当たることのない、底の底へと埋もれていき、ついには取り出すことなど不可能になる。
 哲郎は口を閉じたまま何も発しなかったが、顔の皮膚表面に心なしが赤褐色が映えてきている。
 伸久は唇を舐めて唾を飲み込んだ。
「裕次郎は何とも思わなかった。僕もそれを聞いて何も思いませんでした。いい年してそんな憧れを追ってくるくらいだから、おばさんはよっぽど魅力的な人間だったんだなって、それくらいにしか思いませんでした」
 そういって伸久はずっと手に持っていた一枚のハガキを哲郎に手渡した。
「これは……」
「おばさんの友人からのハガキです。おばさんがいなくなった後に届いたやつで、これを頼りに二人で福井に行ったんです。その中でも僕が一番印象的だった椛田さんという人に昨夜電話をしました。そして聞いたみたんです。斎藤守という名の同級生はいたか――――」
 伸久と哲郎の双眸と双眸が合致した。そしていった。
「答えは――――いませんでした。いなかったんです、そんな男は。わざわざ卒業アルバムを取り出して確認してもらったくらいなので、間違いありません」
 いつの間にか塞がっていた哲郎の口はわずかに穴を開き、絶句していた。
 息苦しかった。辛かった。伸久は目の前で生死を彷徨っている旧友を見た。目が乾いて視界が白く霞んでいく。
 だが伸久は目の前に対峙している何者かに恐れることなく毅然と続けた。
「これが一体どういうことなのか。齋藤守という偽名を使った男は何者だったのか。僕にはそれを知る手立ては何もありません。だから――――だから、ここに来ました。おじさんは知っているんじゃないですか。その男が一体誰なのか」
 問いかけると、哲郎は伸久の目を見ようとはしなかった。ただ肩で息をしている老体の全身四肢からただならぬ感情が横溢していることは一目瞭然だった。
「僕は稚拙な妄想を披露してしまいました。ありえない妄想です。おばさんが裕次郎を傷つけるわけない。またおじさんが裕次郎やおばさんを傷つけるわけないって。喋ってから気づいたんです。本当にごめんなさい。でも、そしたらなぜおばさんは消えてしまったのか。あのときの――――ちょうど十五年前のこのときの、裕次郎の包帯は本当にテーブルの角に頭をぶつけたからなのか」
 その言葉を最後に、沈黙が訪れた。この間のように、二人の間には無音の空気のみが流れていた。
 しばらく時間が経った。答えは出ないのだろうか。そして、いつも一方的に話しているのは自分だと、伸久は居場所を見失いそうだった。
 だが、
「ちょっと座ろうか、ノブくん」
 外に出ようとする哲郎を追ってICUの外に出ると、廊下に設置されている白いソファーに並んで座った。
 哲郎は体内に存在するすべての生気を吐き出すかのような、深い、深い溜息を時間をかけて吐き出した。それは消えることなく、二人を囲繞して特別な空間を作り出していた。吐き終えると両手に顔を埋め、その状態のまましばらくポーズした。
 そして両手の仮面を外したとき、哲郎は覚悟を決めきった老父の面相を構えていた。
「まさか、ノブくんに話すことになるとはなあ」
 耳が急激に火照り始めた。全神経が一気に首より上に集合した。
 

悲しみの傘⑯

2016-10-30 00:32:51 | 小説
 裕次郎が倒れてから三日が経った。
 哲郎からは連絡はない。ということは目覚めてはいないが、生きているということなのだろうか。伸久は強くそう願った。
 本当は自分から連絡したかったが、もう少し哲郎からの連絡を待つことにした。
 レンタカーはかりた場所を裕次郎から聞いていたため、伸久から連絡して事情を説明し、石川サービスまでとりにいってもらった。車内に置いていった裕次郎のハガキと、伸久が福井で買ったお土産は後日取りに行った。
 蒼白とした顔面に浮かび上がる青筋と額に汗を浮かべて四肢を震わす裕次郎が何度も脳裏に蘇る。
 カーテンを引くと灰色の空が一面に広がっており、どこからともなく雷鳴が響き渡り、澱んだ空気を打ち震わしている。天気予報によると、明日には東京も梅雨入りするらしい。一年で最も嫌いな時期の一つである。だが、その誰もが嫌う雨季も実は必要であったりするのだ。干ばつになって水が足りなくなったり、作物が育たなくなったり、影響は大きい。だから梅雨もある範囲ではなくてはならぬものなのかもしれない。
 人生も同じかもしれない。誰もが本当は避けたい時が、実はその人にとって必要であったりする。悩みが人を育てるとは数多の偉人が常にいっていることであり、実体験であろう。ならば、自分のいまの悩みは将来大きく羽ばたくための翼になるか、高く伸び咲き誇るための肥やしになるか。伸久はそんなことを考えながらしばらくぼんやりとしていた。
 裕次郎はどうなるのだろう。これまで散々光の見えぬ苦悩のトンネルと深海を潜ってきた男はいま病床に伏している。このまま起きることがなければすべてが終わる。羽も根っこもない。飛び立つことも、育つこともない。何もかもが消えてなくなるのだ。
 色のない景色を眺めていると陰鬱になる。やはり伸久は梅雨が嫌いだ。たとえそれが必要なものだとわかっていたとしても。
 カーテンを再び閉めて、敷きっぱなしの蒲団に身を投げて目を閉じたが、眠気はやってはこなかった。
 伸久は透と亮介に裕次郎のことを伝えた。小学校・中学校の同級生にも連絡を回すと躍起になった二人だが、入院してる病院はまだ聞いていないということにしておいた。万が一のことが裕次郎の身に起こる前に、見舞いに行きたい人は行くべきだとは思ったが、今の段階でこの件に関しては伸久だけのものにしておきたかった。自分のみが知る特別なものというわけではなく、ただ複雑な心がそうさせた。
 裕次郎のことがきっかけで、伸久は透と亮介の三人で駅前のファミレスで軽く飲むことになった。
 安いジャンクフードに安いグラスワインで乾杯し、三人はすぐに酔っぱらった。
「くも膜下って、こんな若くして起きるもんなのかよ」
 透は前会ったときと同じ黒のタンクトップに透け透けの白シャツを羽織っている。タンクトップは同じものを数枚持っているのだろう。
 伸久は苦手な赤ワインに舌先を浸しながら、「高齢者のがもちろん頻度は高いけど、若年性のクモ膜下出血とかもあるらしい」と説明する。
「こんなこといったら気分悪いかもだけど、裕次郎の奴ついてねえな……」と赤のボストンレッドソックスのキャップを被っている亮介が容姿に似合わず申し訳なさそうにごちた。
「なあ、幼稚園の年長のときさ、裕次郎が一週間くらい休んだときのことって覚えてる?」
 伸久の問いに、二人は少し考えふけって、「まったく覚えてない」といった。伸久は少しがっかりしたが、「十月ごろの話だよ。頭に包帯巻いて来たの覚えてないか?ちょうど同じくらいの時期に裕次郎のお母さんがいなくなったんだよ」と加えて聞いた。
「あの美人のおばさんか?」
「ああ、懐かしいな。綺麗で優しくて、いいおばさんだったよな」
 二人は真剣に考えてるんだかよくわからない質素な面持ちで「うーん」と唸った挙句、透は「いや、覚えてないけど」とあきらめた。
 一方で、亮介が意外なことを口にした。
「裕次郎が休んだとか包帯巻いてたとか正直あんまり覚えてないけど、おばさんがいなくなったのって、もうちょっと前じゃねえのかな」
「もっと前?」伸久は即座に問い返した。
「ほら、裕次郎がいまのアパートにおじさんと引っ越す前って、よく家に遊びにいってたじゃん。それで年長のときにさ、夏休みに裕次郎んちに泊まる計画立ててたじゃん。でも夏休み前になって急にそれがボツになったんだよ。たしかあんときにはもうおばさんはいなくて、おじさんの会社も大変な状態になってたんじゃないかな。覚えてない?」
 いきなり立場が逆転した。伸久と透は首を傾げて必死に思い出そうとしたが、二人とも思い出すことができなかった。
「もしや別のやつらと企画してたんじゃねえのか?」と透がやや裏切り者といいたげな猜疑心を垣間見せたが、「違うよ。俺ら以外誰と遊ぶっての」と亮介はやや不満気な面をして乾いたピザを口に放り込んだ。
 たしかに裕次郎宅のお泊り会のような話は出たことがあったかもしれないが、それが夏だったという記憶は正直ない。成績がいつも底辺の亮介の記憶力ははっきりいうと信憑性に欠けるが、否定する材料が伸久にもなかった。
「でも、俺の母親も、それに裕次郎本人も、お母さんが出ていったのは十月ごろだったっていってたぜ」
「ぶっちゃけ十月って微妙な時期じゃない?あといまの時期とかさ、なんか中途半端じゃん。六月は春と夏の間で、十月は夏と秋の間って感じしない?なんか思い出しづらい季節なんだよな。幼稚園のころ運動会は六月だったけど、小学校では十月だったりしてさ、色々混同しちゃわない?」
 亮介らしからぬ言葉だと思ったが、決してわからなくもなかった。たしかに、小学校六年間の運動会は十月だったが、幼稚園二年間の運動会は六月だった。いまのような梅雨の時期で、濡れた校庭で開催したのを覚えている。ただ次の六年間の方が記憶が新しい上に期間が長く内容も濃いため、運動会はすべて十月という意識が強くなってしまう。季節的にもそれがいえるのかもしれない。七月と八月は夏休みに入るため、お互い会うことがあまりない。つまり六月から九月までは空白となる。天候的にも、六月と十月は暑すぎず寒すぎずという、ある程度の共通点がある。
 もし裕次郎と節子の記憶が曖昧なまま何となくで十月と思い込んでいるとしたら、むしろ亮介の記憶の方が正しいのかもしれない。だとしたら、裕次郎が包帯を巻いてきたときも、あれは六月だったのだろうか。
 自分の記憶というのは曖昧で偏りやすいことを思い知りながら、伸久は腕を組んで一人考え込んだ。
 その間、透と亮介が裕次郎の家の話をきっかけに、一種の暴露話を始めた。
 透は裕次郎が所持していた仮面ライダークウガのフィギュアの腕を折ってばれないように隠したとか、借りていたゲームをなくしたとか、やんちゃでがさつな透らしい話だった。次は亮介だった。
「俺はさ、間違えておじさんとおばさんの寝室のドアを開けちゃったことがあってさ、ちょうどおばさんが着替えてたんだよ。ブラジャーと下着一枚の格好でさ、恥ずかしくてすぐにドア閉めたね」
「まじかよ。その年で同級生のお母さんの覗きかよ」
「莫迦、間違えたっていっただろ。いまだからこそいえるけど、そんときは恥ずかしかったしまずいことしたと思って、誰にもいえなかったもんな」
「お前それは犯罪だぜ」
「お前だって人の物なくしたり、壊したりしてるじゃねえか。それにもう時効だろ、こんなの」
「違いねえ。時効だ、時効」
 二人は酔いに頼ってケラケラと笑う。
 伸久はそれを片耳で聞いて、自分にも人にいえないことがあると思った。例えば、幼稚園のとき蹴ったサッカーボールで植木鉢を割ったこと、アクシデントで同級生の女の子の胸に手を触れてしまったこと、駄菓子屋さんのお菓子を一度万引きしたこともある。すべてそのときには人にはいえないと思っていたことである。でもいまならいっても笑い話になるだろう。もう時効だ。
 そう、もう時効だ――――。
 すっと何かが背後に忍び寄ってきた。それが背筋に張りつき、上昇して後頭部内に侵入してきた。
 記憶。それは、曖昧な記憶だった。
 六月。包帯を巻いた裕次郎。十月。包帯を巻いた裕次郎。
 幼稚園の年長。そして六月。十月でなく、六月。
 六月。十五年。六月。裕次郎が倒れた。
 まさか――――。
 そんなことありうるのだろうか。
「ごめん、先に帰るわ」
 伸久は財布からお札を取り出して、透と亮介の言葉を聞かずにファミレスを出た。
 早歩きで自宅に向かう途中で酔いは十分にさめた。
 家に着くと、階段を一気に駆け上った。自分の部屋に入り、机の上に置いてあるハガキを手に持った。
 織田眞由美。裕次郎のお母さんに宛てられたハガキ。
 伸久は携帯電話を手に取っていた。
 
 

悲しみの傘⑮

2016-10-27 22:54:33 | 小説
 哲郎は口を閉じたままである。
 時が流れているのか、滞っているのか、よくわからなくなった。
 否定も肯定もない。つまりはそれは肯定なのか。
 重たい淀んだ空気が伸久にのしかかる。
 何かいってくれ。心の中でそう叫んだ。
 ぼんやりとした視界がやっと鮮明になり、待合室の灯りの下、視点が哲郎の横顔を捉えたとき、ハッとした。
 自分は何をいっているのだ。
 一人息子が生死をさまよっているときに、何てことを口にしてしまっているのだ。
 いま自分がすべきことは、友の回復を祈ることだ。勝手に友人の家族をとやかくいうことではない。
 取り返しのつかない発言をしてしまった――――そう思って伸久の全身が芯から凍りつき始めたときだった。
「話してくれないか」
 哲郎がポツリといった。自分にいったのだろうか。伸久は混乱した。
「ノブくんが考えたことを話してくれないか」
 哲郎がこっちを見て促した。伸久は恐怖にも似た戸惑いを振り切れぬままいった。
「一つ思い出したことがあったんです。おばさんがちょうどいなくなったとき、まだ僕らが五才の年長だったときです。たしかそれは十月で、裕次郎が頭に傷を負って一週間近く休んだときです。幼稚園に戻ってきたとき、裕次郎は頭に包帯を巻いてた。家のテーブルの角に頭をぶつけて何針か縫ったって。いまになって鮮明に思い出したんです。あれは十月だった。おばさんが家を出ていったときだって。これは僕の完全な想像でしかないんですが、おばさんがいなくなったのと、あの怪我というのは、何か関係してたんじゃないかって。本当に例えばですが――――当時はおじさんの会社が傾いて倒れかけていたときでもあったと思うんです。それが原因かは知りませんが、おばさんは悩みを抱えて、得意でないお酒を飲むようになった。これは昨日の夜はじめて裕次郎と飲んで思ったことなんです。裕次郎は二、三本アルコールを入れただけで性格が急変しました。すぐに寝ちゃったけど。アルコールの弱さは遺伝すると聞いたことがあるので、もしかしたらおばさんがそうだったんじゃないかって思ったんです。福井でおばさんを知ってる誰もがおばさんのことを称えてました、人格者の才色兼備の正にそれだって。でももしかしたら、みんなが知らない欠点か何かあったんじゃないかって思ったとき、缶を床に叩きつけて寝入った裕次郎が横にいたんです。つまり、これはあまりにも稚拙な考えなんですが……」
「眞由美が酒を飲んで狂暴になって裕次郎を傷つけたということか」
「いや、幼稚で短絡的であることはわかってるんですが……」
「それで眞由美はどうなったのかな」
 伸久は口を噤んだ。もしかしたら、もしかするとだが、いま目の前にいる男は、重体の一人息子を心配して駆けつけてきた優しい父親が、彼女を消した人間であるかもしれないのだ。
 膝の上に乗せた両こぶしを強く握りしめた。
「知っているんですか、どうなったか」
 再び哲郎は視線を下に落とし、何も語ろうとはしなかった。
「裕次郎は、おじさんのことをひどく嫌ってました。そこまでいうことないだろうってくらいに。どうしてそんなに嫌ってるのか最初はよくわからなかった。でも、いまなんとなくわかるというか、それなりの理由があるんだと思うんです。それは、おじさんがおばさんのことで何か隠していることに気づいていたんじゃないでしょうか。裕次郎はそれが知りたかった。でも聞けなかった。聞いたら、何もかもが消えてなくなることがわかっていたから。それが苦しくて、でも耐えるしかなくて、結局それがおじさんへの感情を歪めてしまったんじゃないと思うんです」
 その言葉を最後に、二人は沈黙の倉に閉じこもった。伸久は目を瞑り、しばらく寝ようと思った。
 壁にかかった時計の針が深夜〇時を過ぎたころ、看護師が部屋に入ってきた。
「無事手術が終わりました。ご家族の方は先生からお話があるので」
 哲郎はその看護師に連れていかれ、伸久は別の看護師にICUへ案内してもらった。
 消灯しているICUは厳かで張りつめた空気のみがあった。人間の生命が落ちるか落ちないかの瀬戸際の雰囲気。息が詰まりそうになった。
 ドラマみたいに白衣やマスクを着用して完全防備でいくかと思ったが、それはなく、遠くで裕次郎を眺めることになった。
 はっきりいってよく見えないが、裕次郎はそこにいた。そこに寝ている人間と数時間前まで一緒にいたことが信じられなかった。
 酸素が機械から口に運ばれており、頭を包帯で巻かれているのが何となくわかる。おそらく髪はもうないのだろう。
 背後から人気を感じた。哲郎が立っていた。
「ノブくん、ありがとね」
「いえ。あの、裕次郎は」
「いつ意識が戻るかはわからない状況らしい。それに戻ったとしても、後遺症が残る可能性が非常に高いようだ」
「そうですか……」
「迷惑かけたね。疲れただろう」
 そういって哲郎は伸久に万札を三枚手渡した。
「タクシーで帰りなさい。これで足りると思うから。お父さんお母さんによろしくね」
 哲郎にとってそのお金は大金であろう。ここに来る前に売店のATMか何かで下したのかもしれない。
 しばらく返す言葉が出なかったが、「今日は失礼なことをいってすみませんでした」というしかなかった。
「いや、いいんだ」
「あの、またお見舞いに来てもいいですか」
「ああ、構わんよ。目を覚ましたら連絡させてもらうね」
 伸久はタクシーを呼んだ。一人後部座席に座った瞬間、どっと疲労の波が押し寄せ、緊張の糸がプツリと切れ、もう何も考えないと決めて伸久は深い眠りについた。

悲しみの傘⑭

2016-10-26 17:55:12 | 小説
 窓外に広がる闇に幾筋もの糸が縦横無尽に流れ動いている。目を閉じて耳を澄ますと、パタパタと雨が落ちる音がした。
 伸久は八王子市内にある総合病院に来ていた。救急車を呼んで突然倒れた裕次郎と一緒にそれに乗ってきた。
「ご家族に連絡をとりたいのですが」
 救命の看護師にそう尋ねられ、伸久は母親の節子にまず電話を入れた。裕次郎のアパートの電話番号聞くためだ。事情を説明すると節子は慌てて家にある小学校のころの卒業アルバムを押入れから引っ張り出し、そこに記載されていた電話番号を口にした。それにコールしたが、父親の哲郎が電話に出ることはなかった。伸久は留守番電話に病院の住所などの伝言を残した。倒れた裕次郎の携帯はロックがかかってあり開くことができず、父親が留守電の伝言を聞いて来ることを期待するしかなかった。
 意識を失っている裕次郎はすぐに検査室へと運ばれた。
 くも膜下出血だった。すぐに緊急手術となった。
 伸久は手術中という赤いランプを見ては何度も祈った。
 助かってくれ。
 同時に苦しい疑問が湧いた。
 どうして突然こんなことになったのか。
 前兆はあったのかもしれない。前に会ったとき後頭部の古傷が痛むと吐露していた。自転車で激しく転倒したということもいっていた。
 倒れる友人を目の前にし、何もできず頭が真っ白になった。伸久は変な自己嫌悪に陥りそうになった。
 そのとき、ポケットの携帯が揺れた。知らない電話番号だ。
「ノブくんかい?」
 懐かしい声が受話器の向こうから聞こえた。少し掠れた太いその声から、背の低い恰幅豊かな男の温顔が頭に浮かんだ。
「お久しぶりです」
「裕次郎はどんな状態なんだい?」
 哲郎の声が震えている。過去の父親の姿はすぐに消えてなくなり、危機迫るものを感じた。
「いま手術中です。長くかかるそうです」
 哲郎はすぐに行くからといって電話を切った。伸久は看護師にその旨を伝え、再び席について待機した。口はカラカラに乾いていたが、飲み物を買う気にはならなかった。
 一時間待っている間に節子から電話があった。あたふたする節子を伸久は落ち着かせ、手術が終わったらまた連絡するといってすぐに切った。石川サービスに放置したレンタカーが若干気になったが、裕次郎の携帯に電話がかかってきたときに事情を説明するしかないと思った。
 そして一時間が過ぎたとき、人気のない待合室のドアが開いた。
 顔を上げると、伸久の目の前に男が息を切らして立っていた。
「ノブくん」
 男は哲郎だった。だがそれは伸久のよく知る男の顔ではなかった。薄っすらとしか残っていない白髪、艶も張りもない茶色顔にこけた頬は伸久の知っている哲郎とはあまりにもかけ離れていた。血の気を失っているのか、顔面は真っ青だった。
「ご無沙汰しております」
 絶句しかけたが、伸久は平静を装い、看護師がいる方へ哲郎を案内した。横に並ぶと哲郎が弟のように小さく見えた。
 伸久は一人待合室に戻り、再び祈るように目を閉じた。
 哲郎が待合室に来ると、伸久は顔を上げて立ち上がりなぜか頭を下げた。
「しばらくかかるようだね」
 顔は白いままだが、哲郎はしごく落ち着いていた。そして目線を伸久に合わせると、しみじみとした口調でこういった。
「ノブくん、大きくなったな……見違えた。立派になったなあ」
 その声を聞くと、胸が詰まった。
「どうして福井なんかに」
 哲郎はここまで来る途中気になっていたに違いない。なぜ裕次郎が伸久と二人で福井に行っていたのかと。
 伸久はほとんどない生唾を飲み込み、正直にいった。
「――――裕次郎がお母さんの友人に会いに行きたいって」
 哲郎の視点が宙に止まり、その状態のまま、「裕次郎が?」と口だけが動いた。
「はい」
「どうしてだろう」
「……なんか、お母さんとの記憶がないらしいです」
「記憶がない?」
「あ、いえ、正確にいうと、お母さんがどんな人だったのか、そこの記憶が曖昧で、あとお母さんがいなくなったころの記憶が漠然としているといってました」
 哲郎は顔色も目の色も変えず、唸りもせず、何も見せなかった。それが逆に気になったが、哲郎はさらに尋ねてきた。
「それで、なぜノブくんが一緒に」
「一人で来たくなかったそうです。僕は帰国したばかりで、暇だったというのもあるんですが」
「そうか。迷惑かけたね」
「いえ」
 哲郎は一度外に出て缶コーヒーを二本持ってきて一つを伸久に渡した。ほろ苦いコーヒーが下の上にねっとり残るだけで、口の渇きはなくならなかった。
 そして沈黙が二人を包み込み、夜雨の不気味な囁き声だけがわずかに耳に届くだけだった。哲郎は貝のように口を閉じてしまっている。
 恐怖なのか緊張なのか、肺と心臓が急激に収縮して息苦しい痛みを感じた。冷や汗が額に滲み出る。
 それは、昨夜ベッドの上で一人考えふけったことが、そして見えた一つの可能性が、それほどのリスクを伴っていることを意味している。
 もし、裕次郎がこのまま命を落としたら、最悪命が助かっても今までの裕次郎に戻らない可能性もあるし、もう目を覚まさないことだって考えられる。
 委ねられた気がした。だから自分はここにいるのか。これは最初から決まっていたのだろうか。
 何かが一瞬でひっくり返って固まったとき、伸久は顔を上げていた。
「あの、一つ伺ってもよろしいですか」
「ん?どうしたんだい」
「気を悪くさせてらすみません。あの――――」
「どうしたんだい」
「おばさんは――――本当に出ていったんですか」
 少し間があった。哲郎の眉間にじわじわと細かな皺が寄り始めた。
「どういうことだい」
「おばさんは、家族を捨ててしまう女性だったとは到底思えないんです」
 哲郎は目を細めてそれを逸らした。伸久はそこで妥協せず、逃がすまいとした。
「そうですよね?」
 哲郎は目を逸らしたまま、無言を貫いている。
「おじさんは、知っているんじゃないんですか。裕次郎もそれに気づいていた。おじさんが何かを隠していることを。おばさんがいなくなった本当の理由を、おじさんは知っていることに、裕次郎は感づいていた。でも聞けなかった。怖かったのかもしれない。不安だったのかもしれない。もしかしたら、おじさんを信じたかったのかもしれない。だから、自分で知るしかなかった」
 動かす唇が麻痺してきた。視界が波のように揺れる。
 哲郎がやっといった。
「何がいいたいのか、さっぱりわからんが」
「僕もわかりません。ただ聞きたいだけだから」
「何を?」
「――――もういないんじゃないんですか」
 指先にまで麻痺が伝わったときだった。伸久はいった。
「おばさんはもういない。この世のどこにもいない。おじさんはそれを知っていた。隠してきた。違いますか」
 闇夜に光る無数の雨が頭上に見えた。