「――――妻は、眞由美は、私が殺したようなものなんだ」
突然、足元が消えたと思った。がしかし、伸久はそこに座っていて、目の前には哲郎がいる。頭に集中した緊張はスパークし、全身に解き放たれた。血液が盛んに循環しているわけでも逆流しているわけでもないのに、体が熱くて呼吸がうまくできない感覚だ。
最初の一言で明らかになったことが二つある。
一つは裕次郎の母親はやはりもう死んでいること。そして二つ目は殺されたということ。
だが、引っかかった。「殺したようなもの」とは一体。
「ノブくんは私が昔どんな仕事をしていたか知ってるかい?」
「いえ、大まかでしか聞いたことがなくて、具体的には……たしかIT関連の会社だったと」
「そう。当時はインターネット人口が爆発的に伸びていた時期でね、九十年代の中盤だった。最初はホームページの作成依頼を受けたりとかそんなので始めた会社だったんだが、いまでは信じられないかもしれないがこれが売れてね。それを資金にエンジニアを増やしてITマネジメント、つまりコンサルのような業務を行うようになって、これも順調にいって会社は右肩上がりだった。ちょうど眞由美に出会ったころだった。友人同士の集まりで初めて眞由美と会ってね、恥ずかしい話一目惚れしてしまったんだ。眞由美は美しく聡明で、昔の自分だったら高嶺の花だったが、会社経営者という薄っぺらい肩書きが僕を強くしたのか、誠心誠意、交際を申し込んでね。結果的に彼女と交際することになり、二年で結婚して、すぐに裕次郎が生まれた。私は貧しい家庭の育ちで、見てのとおり見てくれも良くなくて、自分が頑張れるものは勉強しかなかった。なんとか勉強して国立に入って、自分の努力を信じて起業して、それもうまくいった。何もかもがうまくいっていた、不思議なくらいにね……」
初めは寂しそうな横顔で、そしてノスタルジックな眼まで浮かべて話していた哲郎だったが、一区切りつくと、口を真一文字に結んだ。哲郎の喉仏がゆっくり上下するのがはっきり見えた。他人の欠伸がうつるように、伸久もまた隆起している自身の立派な喉骨を上下させる。
「あれは、六月だった。もうそのころには、会社は傾き始めていた」
突如、空気が一変した。哲郎の右目は横からみても明らかなほど赤く染まり出し、次に発した声はまるで別人だった。
「――――仕事から帰ってきた私を出迎えたのは、玄関で頭から血を流して倒れていた裕次郎だった。私はパニックになって、初め裕次郎が生きているかどうかも判断がつかなかった。ただ何度名前を呼んでも裕次郎は目を覚まさなかった。後頭部に生える髪は血で固まっていた。私は裕次郎を抱えながら、リビングルームに向かった。妻の名前を呼びながらね。中に入った瞬間、死のにおいがした。単なる血液のにおいじゃない。眞由美は床に倒れていた。玄関のものとは比較にならないほど、大量の血が水たまりのようになっていた。眞由美の顔は血に染まっていた。眞由美の命が絶たれていることはすぐにわかった。妻の死相を見て気づいた。裕次郎は生きているのか、死んでいるのかをね――――。裕次郎の鼓動を確認した後、私はすぐに裕次郎を病院連れて行った――――」
裕次郎が休んだ一週間だ。実際一週間だったかどうか定かではないが、裕次郎は包帯を巻いてやってきた。つまり、あのときもうすでに裕次郎の母親は死んでいたことになる。
だが、真実の問題はそこではない。
数分で伸久の全身は汗で濡れていた。身体の中心は血液が沸騰して溢れ出るように熱いのに、汗で濡れたシャツが張り付いた皮膚は氷を接着されたように冷たい。
伸久は両手を祈るように組んで問うた。
「おばさんは何者かに殺されたということですよね?裕次郎も何者かに殴打された――――なぜそれを隠したんですか?なぜ救急車を、なぜ警察を呼ばなかったんですか?」
哲郎は何度も頷いている。当然の疑問だと言いたげに。瞑目したまま、自分に言い聞かせるように何度も頷く。
そして、哲郎は右手の親指と人差し指を使って何かを手に持った仕草を見せた。もちろん、そこには何もない。
「――――リビングの机の上に紙が一枚置いてあった。そこにはこう記されてあった。『これはお前が受けるべき当然の報いだ。もし警察に知らせれば、こちらもお前が犯した罪を警察に話す』と」
「お前が犯した罪って……?」
「たった一つだけ思い浮かぶことがあった。ハッキングだ」
「ハッキング?そんな……いったい何をしたんですか」
「当時、他社との競合が激化していって、ずっと右肩上りだった業績が急に冷え込んだときだった。私は必死だった。間違った方向に必死だったんだ。過去の栄光を、いまの家庭を何とか守ろうとした。そして、ある若い勢いのある競合会社の顧客情報をすべて盗んで漏出させた。当時はまだセキュリティが甘かったところがあってね、ハックするのもわけなかった。その会社の信頼は失墜した。私は法を破って一つの会社を潰したんだよ。それで何人、何十人という人間が苦しむことをわかっていながらね。経営者としての才がないことを否定できず、私は人間の道を踏み外してしまった」
「ちょっと待ってください。そしたら、おばさんを殺した犯人は、その会社の人間だったということです?」
「その可能性が高い」
「でも、そんなのおかしいですよ。どうしてそんなことする必要があったんですか?おじさんの犯行だとわかった時点で、犯人はどうしておじさんを訴えなかったんですか?」
「考えられることは二つある。一つは私がしたという完璧な証拠までは得られなかった。あとは、私の会社にはもう将来がなく自然消滅するこちに気づいていて、別のやり方で復讐しようとしたのかもしれない」
「そんな……そんなことって……」
犯人はよほど大きな恨みを抱えたに違いない。会社が倒産することによって、かけがえのないものを失ったのかもしれない。
いまわかった。哲郎がいった「私が殺したようなもの」とはこういうことだったのだ。
それだけではない。なぜ哲郎が犯人が脅したように妻が殺害されたことを隠したか。無論、自分の罪を隠しきるためであろう。だが、もしそれだけであるのならば、哲郎はすべてを認め、犯人捜索を選んだに違いない。問題は裕次郎だった。母が死に、父まで逮捕されれば幼い裕次郎はどうなるか。考えるだけでも恐ろしいことである。哲郎は選んだ。犯人の思惑通り、妻の存在を消して、二人で生きていくことを選んだのだ。自ら蒔いてしまった種とはいえ、どれほど懊悩の底沼でもがいただろうか。どれほどの悲劇の大嵐にもまれただろうか。
伸久はこれ以上哲郎を見ることができなかった。頭を垂れ、床だけに目線を落として続けた。
「それで、おばさんの死体は一体どこに」
「うちの庭に埋めた。家を出ていったということにするために、妻の所有物はほとんど一緒に埋めた。まだきっとあるはずだ」
「裕次郎の頭の傷はばれなかったんですか」
「そのときは咄嗟に出たテーブルの角に思い切りぶつけたという嘘はばれなかった。いまだったら幼児虐待の疑いをかけられていたかもしれない」
「齋藤守と名乗った男が犯人の可能性は高いと考えられますか」
「おそらくそうだろう。なぜ現れたかはわからないが」
「時効だからじゃないでしょうか」
「時効?」
「これもまた僕の妄想ですが――――犯人は裕次郎に顔を見られたという恐怖がずっとあったのではないでしょうか。犯人は今回の自らの犯行を死刑もしくは無期懲役に値するものではないと考えた。なぜなら、自分は被害者の夫の不正な行為で会社を潰されたという主張があったからです。もしかしたらそれによって家族を失ったのかもしれない。いずれにせよ、犯人はこの殺人の時効を十五年と判断した。そして十五年目を迎えたいま、犯人は堂々と裕次郎に会いに来たんです、齋藤守という偽名を使って。裕次郎は何も覚えていなかった。犯人はこれで安心して自由になれると思ったのかもしれません。裕次郎がもし思い出した素振りでも見せれば殺そうと思っていたのかもしれない。でも、結局犯人が裕次郎に与えた一撃が、いまとなって裕次郎を苦しめているのかも……」
伸久は立ち上がって廊下のガラス越しから小さく見える裕次郎を眺めた。裕次郎はいま必死に戦っている。必死に生きようとしている。
「おじさん、これからどうするんですか」
「……過去の罪を認めるしかないと思っている」
「すべてですか」
「裕次郎がこうなってしまった以上、そうするしかあるまい」
「でももし裕次郎が回復したらどうするんです」
「私にもう裕次郎を支える資格も権利もない。私はこの十五年間、嘘と泥にまみれた手であの子を育ててきた。嫌悪感を抱いて当然だ。息子が父親の真実に気づかないわけない。ノブくんがいったように、裕次郎は何かに気づいていたに違いない」
「だからといって、それじゃ無責任だ!裕次郎は一人になってしまう……」
哲郎もまた重い腰を上げ、伸久の横まで歩み寄った。すっと目を細め、じっと慈愛と悲哀に満ちた視線を傷ついた息子に注いでいる。
「――――ノブくん、これからもずっと裕次郎の友達でいてくれるかい」
「……どういう意味ですか」
「信頼できる友人が一人でもいれば、裕次郎の人生は救われるかもしれない……私はもう、何もしてやれない」
「おじさん……」
いうべき言葉が何も見つからなかった。代わりに裕次郎の先の人生を考えた。もし意識が戻り、回復したときの人生だ。
そのまま父親との二人での生活がいいのか。それとも父親が犯罪者であったことを知り、また母親が殺害されたことを知り、そして犯人と相対したことまで知ったとき、裕次郎はどうなる。恐怖と瞋恚。裕次郎の人間性は確実に破壊される。
自分一人で救えるわけがない。ならばいっそ、このまま父親と二人で生きていくべきではないか。たとえ真実を明かさずとしても。
むしろこのまま目覚めないほうが――――
そんな最悪の結末を思い描いた瞬間、黒い物体が視界の左端に入った。それは、裕次郎のベッドの足元にかけてあった。
「傘……?」
傘だ。花柄の刺繍のようなものが施された、大きな黒い傘。それは、哲郎と裕次郎のアパートに置いてあったものだった。
裕次郎はいっていた。遺品のようなものだ。お気に入りのはずだったのに、あの傘だけ置いていった、と。おそらくそう哲郎から話を聞いたのだろう。だがそれは嘘だ。
伸久は聞いた。「一つ聞いてもいいですか」
「まだ話すことがあれば」
「あの傘は、どうして処分しなかったんですか」
「あれか……」
哲郎の声が深く沈んだ。「あれもたしか、天気の悪い、いつ雨が降ってもおかしくない日だった。私が初めて彼女を食事に誘ったときだ。デパートのディナーに招待して二人でイタリアンを食べたんだ。僕は緊張しっぱなしで、交際を申し込もうという焦りばかりで、食事の味や景色も何も覚えていない。結局最後まで何もいえなくてね。帰ろうとして外を出たら雨が降っていた。二人とも傘を持っていなかったから、せっかくだからデパートで傘を買おうと私が提案したんだ。店が閉まる直前だった。妻はすぐにあの傘を選んでね。私が自分のを買おうとしたとき眞由美がこういったんだ。わざわざこんな高い場所で二本も買う必要はないとね。この傘なら男性でも使えるっていうんだ。結局私はその一本を買って、二人並んで駅に向かった。そのとき私は、これはきっとチャンスだと思った。いまここで思いを打ち明けなくてどうするのかと。私はあの傘の下で彼女に告白したんだ。人生最高に幸せな瞬間だった。――――そう、あれは私にとって幸福の傘だった。いまとなっては、持ち主に一人取り残された、悲しい傘だがね。そのすべての原因は私にある……」
話し終えた哲郎はついに限界の線を跨いだ。そして嗚咽した。深い心の傷から溢れ出る涙は止めどなく、老体の乾いた頬を濡らした。
伸久はICUを出て、出入り口の受付でバッジを渡して外に出ると、排煙が充満したような空から雨が降り注いでいた。
そうか、今日から梅雨だったっけ――――
そう思いながらしばらく立ちんぼしていると、背後から「これ使いますか?」と受付の女性がビニール傘を一本差し出してくれた。
「いいんですか?」
「ええ、いくらでもあるので、どうぞ」
お礼をいって伸久はそのビニール傘を受け取った。
広げると、頭上で雨粒がビニールを打つ音が響いた。
別れ際、哲郎がこんなことを伸久に語った。
「眞由美がこういっていたことがある。ノブくんは本当に賢い。将来必ず偉い学者さんになるって」
そして、「私がこんなんじゃなければ、裕次郎も……」と再び嗚咽をこらえ、伸久の胸は張り裂けそうになった。
だが、なぜだろうか。ふとそのとき、あの黒い傘が頭に浮かんだ。
白い花の残像を残し、大きな黒い傘は瞬く間に四方に広がり、地上に残された二人の男を包み込んだ。
伸久はふと立ち止まると、広げた傘を閉じて空を見上げた。
見上げる空はやはり灰色で、瞬く間に顔が濡れた。
そして振り返り、「裕次郎、元気でな。また来るよ」とごちて、伸久は傘を閉じたまま一人歩き始めた。
(終)
突然、足元が消えたと思った。がしかし、伸久はそこに座っていて、目の前には哲郎がいる。頭に集中した緊張はスパークし、全身に解き放たれた。血液が盛んに循環しているわけでも逆流しているわけでもないのに、体が熱くて呼吸がうまくできない感覚だ。
最初の一言で明らかになったことが二つある。
一つは裕次郎の母親はやはりもう死んでいること。そして二つ目は殺されたということ。
だが、引っかかった。「殺したようなもの」とは一体。
「ノブくんは私が昔どんな仕事をしていたか知ってるかい?」
「いえ、大まかでしか聞いたことがなくて、具体的には……たしかIT関連の会社だったと」
「そう。当時はインターネット人口が爆発的に伸びていた時期でね、九十年代の中盤だった。最初はホームページの作成依頼を受けたりとかそんなので始めた会社だったんだが、いまでは信じられないかもしれないがこれが売れてね。それを資金にエンジニアを増やしてITマネジメント、つまりコンサルのような業務を行うようになって、これも順調にいって会社は右肩上がりだった。ちょうど眞由美に出会ったころだった。友人同士の集まりで初めて眞由美と会ってね、恥ずかしい話一目惚れしてしまったんだ。眞由美は美しく聡明で、昔の自分だったら高嶺の花だったが、会社経営者という薄っぺらい肩書きが僕を強くしたのか、誠心誠意、交際を申し込んでね。結果的に彼女と交際することになり、二年で結婚して、すぐに裕次郎が生まれた。私は貧しい家庭の育ちで、見てのとおり見てくれも良くなくて、自分が頑張れるものは勉強しかなかった。なんとか勉強して国立に入って、自分の努力を信じて起業して、それもうまくいった。何もかもがうまくいっていた、不思議なくらいにね……」
初めは寂しそうな横顔で、そしてノスタルジックな眼まで浮かべて話していた哲郎だったが、一区切りつくと、口を真一文字に結んだ。哲郎の喉仏がゆっくり上下するのがはっきり見えた。他人の欠伸がうつるように、伸久もまた隆起している自身の立派な喉骨を上下させる。
「あれは、六月だった。もうそのころには、会社は傾き始めていた」
突如、空気が一変した。哲郎の右目は横からみても明らかなほど赤く染まり出し、次に発した声はまるで別人だった。
「――――仕事から帰ってきた私を出迎えたのは、玄関で頭から血を流して倒れていた裕次郎だった。私はパニックになって、初め裕次郎が生きているかどうかも判断がつかなかった。ただ何度名前を呼んでも裕次郎は目を覚まさなかった。後頭部に生える髪は血で固まっていた。私は裕次郎を抱えながら、リビングルームに向かった。妻の名前を呼びながらね。中に入った瞬間、死のにおいがした。単なる血液のにおいじゃない。眞由美は床に倒れていた。玄関のものとは比較にならないほど、大量の血が水たまりのようになっていた。眞由美の顔は血に染まっていた。眞由美の命が絶たれていることはすぐにわかった。妻の死相を見て気づいた。裕次郎は生きているのか、死んでいるのかをね――――。裕次郎の鼓動を確認した後、私はすぐに裕次郎を病院連れて行った――――」
裕次郎が休んだ一週間だ。実際一週間だったかどうか定かではないが、裕次郎は包帯を巻いてやってきた。つまり、あのときもうすでに裕次郎の母親は死んでいたことになる。
だが、真実の問題はそこではない。
数分で伸久の全身は汗で濡れていた。身体の中心は血液が沸騰して溢れ出るように熱いのに、汗で濡れたシャツが張り付いた皮膚は氷を接着されたように冷たい。
伸久は両手を祈るように組んで問うた。
「おばさんは何者かに殺されたということですよね?裕次郎も何者かに殴打された――――なぜそれを隠したんですか?なぜ救急車を、なぜ警察を呼ばなかったんですか?」
哲郎は何度も頷いている。当然の疑問だと言いたげに。瞑目したまま、自分に言い聞かせるように何度も頷く。
そして、哲郎は右手の親指と人差し指を使って何かを手に持った仕草を見せた。もちろん、そこには何もない。
「――――リビングの机の上に紙が一枚置いてあった。そこにはこう記されてあった。『これはお前が受けるべき当然の報いだ。もし警察に知らせれば、こちらもお前が犯した罪を警察に話す』と」
「お前が犯した罪って……?」
「たった一つだけ思い浮かぶことがあった。ハッキングだ」
「ハッキング?そんな……いったい何をしたんですか」
「当時、他社との競合が激化していって、ずっと右肩上りだった業績が急に冷え込んだときだった。私は必死だった。間違った方向に必死だったんだ。過去の栄光を、いまの家庭を何とか守ろうとした。そして、ある若い勢いのある競合会社の顧客情報をすべて盗んで漏出させた。当時はまだセキュリティが甘かったところがあってね、ハックするのもわけなかった。その会社の信頼は失墜した。私は法を破って一つの会社を潰したんだよ。それで何人、何十人という人間が苦しむことをわかっていながらね。経営者としての才がないことを否定できず、私は人間の道を踏み外してしまった」
「ちょっと待ってください。そしたら、おばさんを殺した犯人は、その会社の人間だったということです?」
「その可能性が高い」
「でも、そんなのおかしいですよ。どうしてそんなことする必要があったんですか?おじさんの犯行だとわかった時点で、犯人はどうしておじさんを訴えなかったんですか?」
「考えられることは二つある。一つは私がしたという完璧な証拠までは得られなかった。あとは、私の会社にはもう将来がなく自然消滅するこちに気づいていて、別のやり方で復讐しようとしたのかもしれない」
「そんな……そんなことって……」
犯人はよほど大きな恨みを抱えたに違いない。会社が倒産することによって、かけがえのないものを失ったのかもしれない。
いまわかった。哲郎がいった「私が殺したようなもの」とはこういうことだったのだ。
それだけではない。なぜ哲郎が犯人が脅したように妻が殺害されたことを隠したか。無論、自分の罪を隠しきるためであろう。だが、もしそれだけであるのならば、哲郎はすべてを認め、犯人捜索を選んだに違いない。問題は裕次郎だった。母が死に、父まで逮捕されれば幼い裕次郎はどうなるか。考えるだけでも恐ろしいことである。哲郎は選んだ。犯人の思惑通り、妻の存在を消して、二人で生きていくことを選んだのだ。自ら蒔いてしまった種とはいえ、どれほど懊悩の底沼でもがいただろうか。どれほどの悲劇の大嵐にもまれただろうか。
伸久はこれ以上哲郎を見ることができなかった。頭を垂れ、床だけに目線を落として続けた。
「それで、おばさんの死体は一体どこに」
「うちの庭に埋めた。家を出ていったということにするために、妻の所有物はほとんど一緒に埋めた。まだきっとあるはずだ」
「裕次郎の頭の傷はばれなかったんですか」
「そのときは咄嗟に出たテーブルの角に思い切りぶつけたという嘘はばれなかった。いまだったら幼児虐待の疑いをかけられていたかもしれない」
「齋藤守と名乗った男が犯人の可能性は高いと考えられますか」
「おそらくそうだろう。なぜ現れたかはわからないが」
「時効だからじゃないでしょうか」
「時効?」
「これもまた僕の妄想ですが――――犯人は裕次郎に顔を見られたという恐怖がずっとあったのではないでしょうか。犯人は今回の自らの犯行を死刑もしくは無期懲役に値するものではないと考えた。なぜなら、自分は被害者の夫の不正な行為で会社を潰されたという主張があったからです。もしかしたらそれによって家族を失ったのかもしれない。いずれにせよ、犯人はこの殺人の時効を十五年と判断した。そして十五年目を迎えたいま、犯人は堂々と裕次郎に会いに来たんです、齋藤守という偽名を使って。裕次郎は何も覚えていなかった。犯人はこれで安心して自由になれると思ったのかもしれません。裕次郎がもし思い出した素振りでも見せれば殺そうと思っていたのかもしれない。でも、結局犯人が裕次郎に与えた一撃が、いまとなって裕次郎を苦しめているのかも……」
伸久は立ち上がって廊下のガラス越しから小さく見える裕次郎を眺めた。裕次郎はいま必死に戦っている。必死に生きようとしている。
「おじさん、これからどうするんですか」
「……過去の罪を認めるしかないと思っている」
「すべてですか」
「裕次郎がこうなってしまった以上、そうするしかあるまい」
「でももし裕次郎が回復したらどうするんです」
「私にもう裕次郎を支える資格も権利もない。私はこの十五年間、嘘と泥にまみれた手であの子を育ててきた。嫌悪感を抱いて当然だ。息子が父親の真実に気づかないわけない。ノブくんがいったように、裕次郎は何かに気づいていたに違いない」
「だからといって、それじゃ無責任だ!裕次郎は一人になってしまう……」
哲郎もまた重い腰を上げ、伸久の横まで歩み寄った。すっと目を細め、じっと慈愛と悲哀に満ちた視線を傷ついた息子に注いでいる。
「――――ノブくん、これからもずっと裕次郎の友達でいてくれるかい」
「……どういう意味ですか」
「信頼できる友人が一人でもいれば、裕次郎の人生は救われるかもしれない……私はもう、何もしてやれない」
「おじさん……」
いうべき言葉が何も見つからなかった。代わりに裕次郎の先の人生を考えた。もし意識が戻り、回復したときの人生だ。
そのまま父親との二人での生活がいいのか。それとも父親が犯罪者であったことを知り、また母親が殺害されたことを知り、そして犯人と相対したことまで知ったとき、裕次郎はどうなる。恐怖と瞋恚。裕次郎の人間性は確実に破壊される。
自分一人で救えるわけがない。ならばいっそ、このまま父親と二人で生きていくべきではないか。たとえ真実を明かさずとしても。
むしろこのまま目覚めないほうが――――
そんな最悪の結末を思い描いた瞬間、黒い物体が視界の左端に入った。それは、裕次郎のベッドの足元にかけてあった。
「傘……?」
傘だ。花柄の刺繍のようなものが施された、大きな黒い傘。それは、哲郎と裕次郎のアパートに置いてあったものだった。
裕次郎はいっていた。遺品のようなものだ。お気に入りのはずだったのに、あの傘だけ置いていった、と。おそらくそう哲郎から話を聞いたのだろう。だがそれは嘘だ。
伸久は聞いた。「一つ聞いてもいいですか」
「まだ話すことがあれば」
「あの傘は、どうして処分しなかったんですか」
「あれか……」
哲郎の声が深く沈んだ。「あれもたしか、天気の悪い、いつ雨が降ってもおかしくない日だった。私が初めて彼女を食事に誘ったときだ。デパートのディナーに招待して二人でイタリアンを食べたんだ。僕は緊張しっぱなしで、交際を申し込もうという焦りばかりで、食事の味や景色も何も覚えていない。結局最後まで何もいえなくてね。帰ろうとして外を出たら雨が降っていた。二人とも傘を持っていなかったから、せっかくだからデパートで傘を買おうと私が提案したんだ。店が閉まる直前だった。妻はすぐにあの傘を選んでね。私が自分のを買おうとしたとき眞由美がこういったんだ。わざわざこんな高い場所で二本も買う必要はないとね。この傘なら男性でも使えるっていうんだ。結局私はその一本を買って、二人並んで駅に向かった。そのとき私は、これはきっとチャンスだと思った。いまここで思いを打ち明けなくてどうするのかと。私はあの傘の下で彼女に告白したんだ。人生最高に幸せな瞬間だった。――――そう、あれは私にとって幸福の傘だった。いまとなっては、持ち主に一人取り残された、悲しい傘だがね。そのすべての原因は私にある……」
話し終えた哲郎はついに限界の線を跨いだ。そして嗚咽した。深い心の傷から溢れ出る涙は止めどなく、老体の乾いた頬を濡らした。
伸久はICUを出て、出入り口の受付でバッジを渡して外に出ると、排煙が充満したような空から雨が降り注いでいた。
そうか、今日から梅雨だったっけ――――
そう思いながらしばらく立ちんぼしていると、背後から「これ使いますか?」と受付の女性がビニール傘を一本差し出してくれた。
「いいんですか?」
「ええ、いくらでもあるので、どうぞ」
お礼をいって伸久はそのビニール傘を受け取った。
広げると、頭上で雨粒がビニールを打つ音が響いた。
別れ際、哲郎がこんなことを伸久に語った。
「眞由美がこういっていたことがある。ノブくんは本当に賢い。将来必ず偉い学者さんになるって」
そして、「私がこんなんじゃなければ、裕次郎も……」と再び嗚咽をこらえ、伸久の胸は張り裂けそうになった。
だが、なぜだろうか。ふとそのとき、あの黒い傘が頭に浮かんだ。
白い花の残像を残し、大きな黒い傘は瞬く間に四方に広がり、地上に残された二人の男を包み込んだ。
伸久はふと立ち止まると、広げた傘を閉じて空を見上げた。
見上げる空はやはり灰色で、瞬く間に顔が濡れた。
そして振り返り、「裕次郎、元気でな。また来るよ」とごちて、伸久は傘を閉じたまま一人歩き始めた。
(終)