ディカプリオお味噌味

主に短編の小説を書く決意(ちょっとずつ)
あと映画の感想とかも書いてみる(たまに)

悲しみの傘⑤

2016-10-14 23:45:52 | 小説
 しかし、裕次郎がそのすべてを失うのも早かった。
 まだ年長のころ、裕次郎の父親の会社は倒産し、多大な借金を背負うことになった。それが原因で母親は蒸発したと聞いている。幼い裕次郎を置いて。広々とした豪邸は差し押さえられ、残された二人はこのアパートに移り住むしかなかった。おそらく当時の裕次郎にとってのすべては失われた。
 激しいショックだったかもしれない。裕福で何の不自由もない暮らしから、一転母親のいない貧しい生活へ。天国から地獄へ。すでに大人であればまだ受け入れられるかもしれない。自分の人生なんて結局こんなものだろう、と。だが、まだ五才のやっと一人でトイレできるようになりましたくらいの男の子にとっては処理しきれない内容だったのではないだろうか。少なくとも裕次郎はそのころから変わった。極端に暗くなる一方、暴れやすくなり、小学校でもクラスメートと喧嘩することが多くなった。
 だが、貧しさは決して、裕次郎の心までを貧しくしたわけではなかった。そういった変化がありながらも、人一倍友達思いだった性格があり、伸久は裕次郎のそういう部分が好きだったし、信頼していた。だからずっと仲良くできた。決してこのアパートには入れたがらなかったが、いま目の前にいる裕次郎の本質はきっと昔のままだと思って伸久は嬉しかった。
 いま改めて振り返って不思議に思うことは、母親が何も言わず裕次郎を置いて出ていってしまったことだ。「ノブちゃん」と呼んでくれた裕次郎の母親は細く長身で笑顔の素敵な美しい女性だった。まだ幼稚園児の鼻たれが明確に記憶しているのだから、よっぽどインパクトがあったのだろう。あの笑顔は裕福さの余裕ゆえにつくられたものだったのかもしれない。思い返してみると、裕次郎の父親と母親はルックス的にみると不釣り合いと考える意見がマジョリティを占めていたのではないだろうか。馴れ初めは知らない。ただ、やはり経済的な部分に重きを置いて結ばれた二人だったのではないか。物欲が強かった母親はそのすべてを失ったと知った途端にその家族への愛情も冷え込んで底に消え、新たな人生を求めて立ち去った。
 勝手で安易な想像だけが伸久の頭の中で渦巻き、目の前にいる友が大きくも、また小さくも見えた。裕次郎は誰もが経験できない、経験することを望まないことを経験してきたのだ。寂しさを、苦労を知っている人間は強い。いま海外という厳しい環境で一人揉まれている伸久には、それがわかるというよりかは、そうであることを信じたい気持ちの方が強かった。
 裕次郎が聞いた。
「やっぱり英語はもうペラペラ?」
「みんなどうしてそれを絶対聞くんだろうな」
「そりゃそうだよ。俺ら凡人には想像できない世界にいるんだ、ノブは」
「俺は誰よりも凡人だよ」
「やっぱペラペラか。すげえな」
「いや、そうでもない。たしかに日常会話には困らなくはなかった。だがあっちのドメスティックの英語とはまだまだ差はあるよ。語学という点に関しては追いつけない部分があるような気がする」
「俺もいってみたいね、そんな横文字。ノブは俺らと同じ暴れ馬だったのに、ここだけは誰よりもよかった」
 裕次郎は指で自分の頭を指した。
「別によかったわけじゃない。それなりに勉強してただけさ」
「それでアメリカの大学に行けるやつが実際どれだけいるのやら」
「ただの少数派だよ、俺は」
「いや、ノブはすごいんだよ。俺の自慢だ。透や亮介も悪い奴らじゃないし楽しい連中だけど、尊敬はできない。ノブみたいな奴は他にはいないよ」
 旧友に褒められるとこそばゆいが決して悪い気はしない。
 裕次郎とは価値観が似ているのかもしれない。ふとそれに気づいた伸久は、今さらながら目の前にいる男のことをもっと知らなければという思いが衝動的に強まり、コーラを一口含んで一歩踏み込む勇気を持った。

悲しみの傘④

2016-10-14 00:49:58 | 小説
「携帯持ってねえのか」
「こっちではな。すぐ買う予定だ」
「俺の部屋は汚ねえし、狭い。そこに座ってくれ」
 裕次郎は伸久を居間に通して座るよう促した。
 ここの玄関をくぐった記憶はある。だが、中の内装、雰囲気の記憶はまるでない。伸久は一人勝手に緊張を覚えた。
 織田家のアパートの一室には見事に何もなかった。テレビに低い円卓と四段作りの古箪笥が一つずつ。天井はどうやら木製のようで、壁にはよれたダブルのブラックスーツが二つ肩を並べている。裕次郎の父親のものだろう。背が小さくて幅のある、いつも笑ったような顔をしている裕次郎の父親をすぐに伸久は思い出せた。
 床に座って周囲を見渡していると、裕次郎はコーラが注がれたグラスと、「こんなもんしかねえ。凱旋帰国にふさわしくねえけど許せ」といってポテチの袋を開けた。
 お父さんは、元気なのか――――
 そんな第一声が思わず言葉が出そうになったが、伸久はそれをコーラ一口で飲み込んだ。だが、結局聞いた。
「お父さんは元気にしてるのか」
 裕次郎はすっと表情を奥の方に隠し、「まあ、生きてることはたしかだな」とポテチを口に放り込んでバリバリ音を立てる。
「本当に一緒に住んでるのか」
「まあな。一日でも早く出てっちまいたいよ、こんな家」
 苦笑を浮かべた裕次郎の顔が斜めに歪んだ。
 裕次郎にとってここは、こんな家、なのだ。
 伸久にとって「裕次郎の家」とは、当時その地域では誰もが知っているほど有名な、それは洒落た一戸建ての印象が強かった。幼稚園のころはよく遊びにいった。その裕次郎の家には何でもあった。当時流行っていたゲーム、おもちゃ、お菓子まで何もかもが揃っていた。父親が会社を経営していた。裕次郎の母親はガキんちょから見ても美人のそれで、自分の母親と同い年とは到底信じがたかった記憶がある。裕次郎の家には何でもあった。全てが揃っていた。それが羨ましく思ったこともあった。