ディカプリオお味噌味

主に短編の小説を書く決意(ちょっとずつ)
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老いての恋 ④ 終

2017-07-15 20:11:27 | 小説
 きよ子が転移性の腎癌にかかったと聞いてから亡くなるまでの五年間、西嶌の心が安らぐことは一度もなかった。
 西嶌は仕事第一の人間だった。家庭のことはきよ子に任せっきりで、そこに自らの責任は感じていなかった。自分の使命は真面目に働いて安定な収入を得て自分と家族に生活を提供すること、それのみだった。
 思えばきよ子と子供が同時に熱で床に臥していたときも、西嶌は仕事を優先した。子供の運動会と聞いても、無理に休みを取ることもなかった。そんな西嶌にきよ子は何ひとつ文句をいわなかった。実際、子供も父親がそういうイベントに来なかったことに不満はこれっぽちもなかったようだと、子供が大きくなって聞いて、西嶌は安心した。酒、タバコ、ギャンブルには縁がなく、仕事だけを真面目にこなす西嶌を、妻も子供も無害で安心な夫、父親として見ていたのかもしれない。そういう意味で妻も子供も文句を垂れずに自分を受け入れてくれていたのだなと思うと、西嶌は年老いてから少し寂しく思うようになった。
 仕事を退職し、波風も立たない真っ平な人生を見事に歩んできた西嶌にとってきよ子の病気は予定外だった。きよ子は弱音を吐かず、泣き言もいわず、いつもと変わらなかった。
 西嶌はきよ子のこういうところに惚れ込んだのだと気がついたときがあった。嵐がこようが、雷雲が唸りをあげようが、自分も子供も熱にうなされようが夫が帰ってこなかろうが、微動だにしない心の強さ。自分にはきよ子以外ではダメだったのだと、死という現実に直面して初めてそれを思い知り、西嶌はきよ子が死ぬまでため込んできたツケを支払うかのように尽くした。
「あなたの人生楽しかった?」
 食後の薬を服用した後、ベッドに横たわりながらきよ子はいった。薬の副作用で貧血を起こして倒れたこともあった。手足の皮膚がひび割れて痛みに耐えうる日もあった。それを乗り越えてきたきよ子は常に安らかであった。
「私の人生はまだ終わっていないぞ。  お前の人生もだが」
「わかってる。今日までのってこと」
「楽しかったさ。それにいまが一番楽しい」
「私を毎日看病することが?」
「看病という看病はしていない。現に未だにお前が飯を作っているしな。ただ、いままで一緒にいられなかった分、こうやって二人でいられるのが楽しいといえば楽しい」
「あら、そうなのね。そしたら私が死んだら大変ね」
「そういうことはいうな。それより、お前はどうなんだ。楽しかったのか」
「もちろんよ。満足。夫は真面目に働いてくれるし、子供は二人欲しいと思ってたし、薬も効いて楽になってきたし、色んな人に守られてきて、満足満足です」
「そうか」
 その半年後に薬が効かなくなり、二次治療薬で一年治療し、次の薬はあまり効かずに最後は在宅緩和ケアにうつった。医者からいわせると五年の間生きたのは大したものらしい。どうやら妻は満足に生き抜いたようだ。最後の表情を見てそれはわかった。最後の最後まで西嶌のことを心配した妻だった。
 西嶌にとってきよ子との晩年は恥ずかしさもあった。いままでいう必要のなかった本音を語らなければいけなかったから。
 きよ子が亡くなってしばらくの間、西嶌は魂が抜き取られた、ただの肉体の殻になった。気持ちが落ち着くまで時間を要することはきよ子が亡くなる前からわかっていたことだが、ショックは想像以上だった。
 一歩前に踏み出さなければいけない。でも、何をすればいいかわからない。何かしたいことがあるわけでもない。
 このまま孫が大きくなるのを見届け、自分も身体が弱って病気になって、死ぬのみなのか。
 そう思っていたとき、安藤に出会った。彼女は西嶌の心の奥、最も脆いところへ入り込み、老人が死ぬまで味わうことがないであろうと思っていた罪悪感、羞恥心、快楽を与えた。
 安藤が消えて一ヶ月、西嶌はその夜もマクドナルド二階でアップルパイを口にしていた。安藤が勧めたアップルパイだ。
 不味い。
 どうしてこれをおいしいと思えていたのだろう。
 西嶌は半分残ったアップルパイをテーブルの上に置いて、天井を見上げた。店内の明かりがすべて自分の頭上に集まっているかのように眩しく、それが空虚と化した心に沁み込んでいく。
 目を閉じてもその光は視界に割って入ってくる。
 もうここに来ることはなくなるのだろう。彼女がどんな理由でどこに行ったのかも知らない。そのままここを去ることは西嶌にとって屈辱というか、敗北のようで、寂しかった。
 若い男二人に啖呵を切った夜を思い出した。まさかあの二人に原因があるということはないか。安藤の身に何か起こったということはないか。
 最後に不安を拭い切れぬまま、余ったものをゴミ箱へ持っていくと、ちょうど二階へ上がってきた店員が代わりに片づけるという。背の低いポニーテールに眼鏡という若い女性店員は、安藤ばかりに気を取られていたせいであまり気にかけなかったが、時々レジで見かけることがあった。西嶌は一言お礼をいって彼女にトレーごと渡し、階段の手すりに手を掛けたとき、足が止まった。
「あの、すみませんが」
 自分の食べ残しと飲み残しを処理している店員は西嶌の方を振り返り、「はい!」と若い快活な声を返す。
「失礼なことをお聞きしますが、一ヶ月くらいまでレジにおられた安藤さんという女性なんですが」
「あ、はい」
 俄かに警戒心が彼女の表情に浮かぶ。しかし、それくらいでは簡単に引けない。失うものは何もない。
「最近あまり見かけないんですが、どうかされたんですかね」
 彼女は戸惑った色を浮かべたまま、「彼女は辞めました」といった。
「辞めた?」
「はい」
「なぜですか?」
「ええっと、留学、です」
「留学?」
「ここのバイト代で貯めたそうです」
 同い年なのにすごいですよね、といいたげな彼女は無邪気な笑顔を浮かべ、「失礼します」と足早に去ろうとしたときだった。西嶌は突発的に口にしていた。
「彼女の名前は?」
「はい?」
「その安藤さんの名前を教えてくれませんか」
 最後にせめてそれだけは知りたい。
 そこまで元同僚のプライベートはと、複雑な面持ちの店員をよそに、切実な西嶌は懇願した。
「教えてください」
 店員はあきらめた。そしていった。
「キヨコです」
「キヨコ?」
「はい」
 失礼しますといって彼女は逃げるようにして下へ降りていった。
 安藤キヨコ。
 西嶌は再び手すりに手をかけて階段を下っていく。外へ出るときさきほどの女性店員の「ありがとうございました」という声が聞こえたが、いままでのものとはまったく違う。
 夜はその暗さを増していた。しかし、もう夏も終わる。
 留学か。彼女は前へと進んでいたのか。
「楽しかった?」
 きよ子の声がした。
「ああ、楽しかった。ありがとう」
 西嶌は店を離れた。気持ちは不思議と晴れやかだった。
 西嶌は亡き妻を思った。今夜ほど、妻に会いたいと思うことはなかった。
 闇は深くなり、夜はさらに湿気ていた。
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