ディカプリオお味噌味

主に短編の小説を書く決意(ちょっとずつ)
あと映画の感想とかも書いてみる(たまに)

悲しみの傘⑪

2016-10-21 23:16:33 | 小説
「なあ、ノブ」
 裕次郎は酔眼を浮かべながら、アルコールが喉に絡んだせいか、濁声でポツリといった。
「俺の母親って、そんなにいい母親だったのか?」
 伸久は天井を眺めたままの姿勢で、「今日会った人たちの話聞いてなかったのかよ」と淡泊な口調でいった。
「記憶がないんだよ」
「記憶?」
「ああ」
 伸久は怪訝な表情を浮かべながら起き上がる。
「どういうことだよ」
「母親と一緒にいたころの記憶がないわけじゃないんだよ。もちろん顔は覚えてる。それくらいなら写真を見れば確認できるしさ。何となくだけど声も憶えてる。けど、母親がどんな母親だったか、覚えてないんだよ」
 伸久は戸惑い、なんて声をかければいいかわからなかった。五才の頃から母親に会っていないという経験をしたことがないだけに、何ともいえなかったのである。幼少時に母親と別れた子供というのは、もしかしたら大半が同じような感覚を抱いているのかもしれない。
 戸惑っている伸久を他所に、裕次郎は続けてこうもいった。
「実をいうと、母親だけじゃなくて、母親がいなくなったころの記憶がほとんどないんだ」
「五才のときの記憶ってこと?」
「そう。ノブとか透、亮介がそばにいたことは覚えているというか、当然な感覚であるんだけど、漠然と記憶がないんだよ」
「漠然と記憶がない……それは、やっぱりお母さんがいなくなったショックとか、そういうのが関係してたのかな」
「わからねえ。気づいたらいなかったし、最初からいなかったような感覚のが強くてさ」
 伸久は思った。その感覚は自分にはわからないと。激しいショックのゆえに母親との記憶の箇所だけに空洞が生じたのか、それともよく一般的にある幼少期のころの記憶が乏しいだけのことなのか。伸久にはわからなかった。
 裕次郎は二本目の残りを豪快に呷り、三本目のプルトップを開けていった。
「特にノブを誘った理由はないんだ。でも、もしかしたらそれだったのかも。母親の人物像と記憶がちゃんと符合する人が一緒にいてほしかったのかもしれない」
「なら安心しろよ。お前のお母さんは本当に優しくて素晴らしい人だったんだ。俺も保証する。それに、めちゃくちゃ美人だった」
「でもどうしてそんな女が夫が倒産したのをきっかけにあっさり家族を置いて出ていっちまったんだろうか」
 裕次郎も当然その疑問に辿り着いていた。
「俺にはわからないよ。でも、可能性として一つ考えられることは、お父さんの倒産が原因ではないということかな」
「どうしてそんなこといえるんだよ?」
 裕次郎の口調に突如鋭い棘が生えた。
「今日の話を聞いたら普通そうなるだろう」
「でもどれも昔の話だ。人間性は変わる。おそらく母親はどこかで金に目がくらむような人間になって、それであんなダメ親父と一緒になっちまったんだ」
「いや、今日会った人たちの話を聞くと、社会人になってからも交友はあったはずだ。そんな極端に人間性が変わったとは考えづらい」
「隠してただけだよ。よくあることじゃん、昔の人には良く見られたいことって。昔は大好きだった食べ物が大人になると嫌いになるってこともよくあるじゃねえか。一緒だよ」
「莫迦、性格と味の好みを一緒にするなよ」
「俺のこと莫迦莫迦いうな。これだからアメリカのエリートは困る」
 挑発的な言葉だった。裕次郎は大分酔っている。思えば裕次郎と飲むのはこれが初めてだった。まさかここまで酒に弱く、気性が激しくなるとはと、呆れた風情で伸久は「俺はエリートなんかじゃねえ」と不機嫌にいい返した。
「でも俺よりは百倍ましな人生送ってるよ」
「自分ばっか不幸みたいな言い方だな。俺だって悩んでる。悩みのない奴なんていないんだよ」
「同じ悩みでも悩みの質が違うんだよ」
「質じゃない、種類が違うだけだ」
「もしいま俺とノブの人生を交換したらきっと思うよ。これはひどい人生だ、ってな。それで思い知るよ、自分がどんだけ幸せ者なのかって」
「くだらない妄想はやめろって。そんな比較きりがねえよ。そんなこといったらまだ戦争が起こってる貧しい国の人たちはお前のこときっと羨ましがるよ。何不自由のない平和な国に住めてるってな」
「話が飛躍しすぎだ、莫迦」
「お前がいってることは莫迦げてるってことだよ」
「ああ、そうだな。俺はどうせ莫迦だよ」
「これ以上自己卑下するのもいい加減にしろよな」
 何となく不穏な空気が流れた。二人はまた沈黙に戻った。伸久は再びベッドの上に寝転がり、同じ天井を見上げた。
 天井には薄っすらとした汚れが付着している。それがいま二人の間に漂っている空気によく溶け込み、伸久はそれから目が離せなくなった。
「……ノブに俺のことはわからねえよ」
 裕次郎は三本目を飲み干し、その空き缶を握りつぶして力を込めた。
「ノブは頭が良いだけじゃなくて、スポーツもできた。何でもできた。私立の学校なんかいって、挙句の果てにはアメリカだ。誰がそんなことできるよ。それに加えて俺はどうだ。父親は失業、母親は蒸発、貧乏、頭もよくないしスポーツも別に得意じゃない。不良にもなり切れず、何もない真っ暗な人生だ」
 それはまるで独り言で、鎮魂歌を歌うような語り口だった。
 正直いって言い争いは好きじゃない。特によくお互いを知っているはずの友人とは。でも伸久はいった。
「わからねえよ。それがお前の人生なんだからな。俺の人生もそうだよ。裕次郎にはわからない」
「……うるせえ、そんなことわかってんだよ」
 裕次郎は握りつぶした空き缶を床に叩きつけた。わずかに残っていた液体が疎らとした染みをつくった。
 裕次郎は横になって布団の中に潜り込んだ。
「ちゃんと歯磨いてから寝ろよ」
 返答はなかった。数分後、寝息が聞こえてきた。
 伸久は中々寝つけなかった。むしろアルコールはすぐにとび、頭は冴えていった。
 目を閉じては開きを繰り返し、そのたびに天井の汚れだけをじっと見つめていた。