三酔人の独り言

ルポライター・星徹のブログです。歴史認識と国内政治に関わる問題を中心に。他のテーマについても。

E.H.カー『危機の二十年』から学ぶ ⑥(最終回)

2014-06-18 12:07:36 | 政治論
 今回の「⑥」では、E.H.カー『危機の二十年─理想と現実─』(岩波文庫/訳・解説=原彬久/2011年)から第4部「法と変革」の第13章「平和的変革」と結論の第14章「新しい国際秩序への展望」を取り上げる。本書に関する最終回。

*<   >内は本書からの引用。「・・・」は略。 [  ]内は引用者(星徹)が補った。

第4部「法と変革」
第13章「平和的変革」
(1)国際関係における道義と権力の妥協
<道義の規準は、戦争が「侵略的」性格を帯びているのかそれとも「防御的」性格をもっているのか[A]ということではなくて、追求されたり抵抗されたりしている変革がいかなる性質のものか[B]、というところに置かなければならない。>(P394)─①

<政治的変革の問題に対する解決策はすべて、それが国内問題であれ国際問題であれ、道義と権力の間の妥協に基礎を置いていなければならない>(P395-396)─②

<平和的変革は、正義についての共通感覚というユートピア的観念と、変転する力の均衡に対する機械的な適応というリアリスト的観念との妥協によって初めて達成される>(P420)─③

【(1)の考察】
≪①について≫
 変革は、「邪→正」と「正→邪」の2つに大きく分けられるはずだ。だから、この「正・邪」の価値判断が正しいと仮定すれば、「前者は正しく、後者は正しくない」という事になる。→【Bの問題】

 しかし、どちらの側が正しいかは別にしても、一方の国が他方の国に武力侵攻することは許されるのか、という問題もある。→【Aの問題】

 カーは、道義の規準で考えた場合、重点を「Aの問題」に置くのではなく、「Bの問題」に置くべき、と主張する。しかし、「Bの問題」における「正・邪」の価値判断を誰がするのか、という難題が残る。国際的な争いを公正に判定し、諸国がその裁定に従うような司法裁判システムは、現実には存在していないのだから。結局は、「話し合いと妥協によって」ということなのか(→②③へ)。

≪②と③について≫
 国際的に権力を有する国からすれば、そのような「道義の規準」に基づく理屈は、受け入れがたいだろう。そもそも、そういった国からすれば、権力を持つに至った経緯を「道義の規準」で検証されたくないはずだ。現状肯定からスタートし、もしどうしてもその変更が必要な場合は、自らが主導して決めた「国際ルール」に則(のっと)るべき、と考えるはずだ。

 しかし、そういった理屈で押し通せば、国際的に権力を有しない国々の不満は蓄積していくはずだ。そして、彼らが力(軍事力)を強めるに従い、「現状変更」への目論みが現実化する危険性は高まっていくだろう。

 実際、当時の欧州では、そういった動きが進行しつつあった。だからこそカーは、<道義と権力の間の妥協に基礎を置いていなければならない>と訴えたのだ。

(2)国際政治秩序のための共通感覚
<難しさは、国際立法機関を欠いていることにあるのではない。難しさは、立法権・・・の確立を可能にすべく十分に統合された国際政治秩序が存在しないということにある。>(P400)

<平和的変革の国際的手続きを阻害する真の障害は、国家間のこの共通感覚が未成熟であるということであって・・・>(P415)

【(2)の考察】
 ジョセフ=S=ナイ=ジュニア『国際紛争─理論と歴史[原書第7版]』(2009年/有斐閣)のP4-5に、次のような記述がある。

<国際政治とは、共通の主権者の存在しない状況において、自らより上位の支配者を持たない政治体の間で行われる政治である、と定義される>

<国際法は、複数の競合する法律システムの下にあり、その上、共通の強制力を持っていない。法を執行する国際警察は存在しないのである。>

 もちろん、これらは「現在の世界状況」についての記述なのだが、カーが『危機の二十年』を執筆した「国際連盟下の世界」でも基本構造は変わらなかった、と思う。

 しかしながら、第2次世界大戦後の国際連合を軸とする世界秩序は、相変わらず大きな矛盾を内包しながらも、国際連盟下のそれから徐々に成熟しつつあるのではないか。また、各国の「国際ルール順守」に関する認識も、不十分ながらも少しずつ広がってきたのではないか。

 こういった状況下での難題はやはり、▽「国際ルール」に違反した国をどう取り締まり、罰するのか ▽強大国の横暴をどう抑制するのか──という事だと思う。

(3)国際権力の「原則」よりも戦争阻止を
<[第1次世界大戦での敗戦を経て]ドイツが再び力を回復した頃、同国はすでに国際政治における道義の役割について完全に軽蔑的な態度をとっていた>(P418)

<ドイツは・・・むき出しの力を用いてますます露骨にその要求を押し出していった。このことがまさに、現状維持国の態度に影響を及ぼしたのである。・・・ドイツの行為を現状維持列強がやすやすと黙認したのは・・・これらの変革がそれ自体道理にかなっていて正しいのだという合意に一部拠るものでもあった。>(同)

<現状を守ることはそれ自体持続的にうまくいく政策なのだ、ということではない。硬直した保守主義が確実に革命となって終わるのと同様、現状を守ることは戦争となって終わるだろう。・・・したがって、平和的変革の方法を打ち立てることは、国際道義や国際政治の根本問題となるのである。>(P419)

【(3)の考察】
 カーがこれら文章を書いたのは、ナチスドイツが軍事強国となり欧州で領土拡張圧力を極限まで強めた1930年代後半だった。

 カーは、ナチスドイツのこのような現実を受け止め、上記(1)①~③のような妥協的姿勢を示すようになった。何としても「第2次」世界大戦を阻止したかったのだろう。そして、米・英とドイツとの対話を望み、英・仏などによる「宥和政策」を期待した。

篠田英朗『「国家主権」という思想─国際立憲主義への軌跡─』(勁草書房/2012年)のP193・P211[注52]参照。当ブログ2014.6.1「E.H.カー『危機の二十年』から学ぶ ⑤」の【(3)(4)の考察】で取り上げた。

 国際権力の側が主導する「原則」からすれば、「力(軍事力)による現状変更の禁止」を含む国際ルール(条約等)は、当然守られるべき事柄のはずだ。しかし、カーの「リアリズム」は、それよりも「戦争を避ける」ことを優先した、ということなのだろう。

結論
第14章「新しい国際秩序への展望」
(4)今そこにある危機
<権力が国際関係を全面的に支配する限り、軍事的必要性に他のあらゆる利益が従属し、まさにそのことが危機を増幅させ、戦争それ自体につきまとう全体主義的性格の前触れとなるのである。ところが、いったん権力の問題が解決され道義がその役割を回復すると、状況に希望が生まれてくる。>(P450)

<犠牲を払うという動機に直接訴えればつねに失敗する、と決まっているわけではないのである。
 これもまた、ある種のユートピアである。しかしそれは、世界連邦のヴィジョンや、より完璧な国際連盟の青写真に比べて、より直接的に新しい進歩の方向を指し示している。これら格調高い上部構造は、その基盤を探り出すのに何らかの前進があるまでは、その実現を待たなければならないのである。>(P452)

【(4)の考察】
 カーは訴えたかったのは、次のような事だったのだろう。

①私たちは現在、「直面する重大な危機をどうやって切り抜けるか」を優先して考え、行動すべきだ。

②世界連邦や国際連盟モデルの完成などは、そういった危機を乗り越えた後に考えるべきことだ。

③だから、国際権力の側(英・米・仏など)は、ナチスドイツなどの主張する「道義」にも耳を傾け、戦争を避けるために妥協する必要がある。

 私は、カーのこういた妥協・宥和姿勢について、「賛成」とも「反対」とも言えない。

 私たちは、その後の歴史を知っているので、ナチスドイツへの宥和姿勢やそれに基づく政策に対して、即座に「論外だ!」と答えがちだ。

 しかし、真に重要なのは結論ではなく、思考過程の方ではないか。この思考過程を重視することこそが、現在の問題を考える際にも役立ってくる、と思うのだ。

 そういった意味でも、本書の持つ意味は非常に大きい。

                               ≪終わり≫

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