なぜ空は青い?

思いつくままに記載します。

100年後の日本について心配しておりましたが、むしろ5年後がすでに心配です。」

2014年06月26日 17時12分05秒 | Weblog
日本がよい国になってゆくのだろうという期待がここ数日の与党の集団的自衛権を巡る動きから裏切られつつあることでがっかりしながら、日本の政治に対する期待を持っていたということに、自分はまだ日本人なんだなという自覚を持たされました。これが世界のどこかの国の話であればかわいそうな国民がいるもんだな程度の感慨で済んだのですが、今回のこの動きは恐ろしい結果を招くことは明らかなので、少しばかり心が沈みました。

しかし一方で日米関係がこれで強固になると思えますので、モラルの欠如している国が近隣でいま暴れまわっている状況においては一時的な気休めにはなるように思います。ただし米国がことある時に本当に米国民の反対を押して日本を助けてくれる否かは確信がございません。なにしろ現在でも韓国や中国やその他の東南アジアの方々と同じように日本に怨みを抱いている人が米国にも多く存在しているのを知っているからです。

政府や政治家が国民の自由や国民に対する公正を無視して国家を運営していると、なにか目的もはっきりしない戦争に駆り出されてしまうというのが70数年前の日本の経験です。当時しかし政府はアジアを西洋から解放するのだと喧伝していたように思いますが、実際は遅れてやってきた近代化の焦りから西洋諸国がアフリカやアジアで行ってきたことを日本はアジア人に対して行ってきたもので、あまりほめられた動機ではなかったのではないかと思います。いずれにしましても、自衛隊に希望して入隊する人がいなくなりますので、今後は徴兵制度の確立だと昨日の新聞に載っておりましたが、まさにその通りになると思います。

もちろんこれに国民は反対しますので、国が強制的に行うようになります。そのために報道が制限されます。そのために人々の自由な発想や行動が制限されます。こういう環境は戦前の環境と似ていると思います。昨日の新聞で赤ちゃん用の服にはひもが付いていてはいけないという法律ができたようですが、こうゆう事から徐々に国民の自由が制限されてゆきます。自由と正義を尊ぶことがない国家のやりそうなことです。というかいわゆる自由とか正義が国家目標でなければ、どの国でもやがては国民を縛ってゆきます。

憲法が国を縛ることが無ければ、つまり国家が束縛から自由になればなるほど、国民は自由を失ってゆきます。

自分が何をしているか解らない首相をもつ国民の不幸

2014年06月25日 12時27分14秒 | Weblog
昨日安倍さんの答弁を聞いておりまして、昔のことを思い出しました。

それは昔首都高速道路は将来無料になると政府の約束が実は、その時期が来たにも関わらず、無料化されないばかりか、現実には値上げとなったという事です。国民に約束したことは守らない、そもそも守ろうという意志もなかったのではないだろうかと思えるような結果になっておりました。

つまり安倍さんも情緒的に国民に訴えて、法案が通過すれば、今まで述べてきたことなどあたかもなかったかのごとく、ふるまうのではないだろうかと思えます。内心愚かな国民だなとでも思っているかもしれません。

秘密保護法で官僚にブランクチェックを切って、どんなことでも書けるようにしたうえで、しかもそれが国民からは見えなくしてあるという不思議な法律が通過してしまう国には正義も公正もまるで存在しないように見えます。

戦前の国家の横暴がやさしい言葉を隠れ蓑にして、現在によみがえって来ると言えます。なぜならば、集団的自衛権が法律として認められますと、確実に数百、数千のレベルで日本国民が国外で命を落とすことは確実だからです。現代の憲兵は国民を直接脅かしたりはしません。米国籍の船に乗っている数名の日本人を助けるために数百人規模の国民を出兵させるという方法で国民を苦しめるのです。

日本人が日本のために闘うなと申し上げているわけではありません。理想もなく、公正や正義を求めるのでもない単なる烏合の集団としての日本であるならば、それは過去の戦争において敗れた日本と同じであり、振り返れば敗れてかえって良い日本になったと言える国家であって、現在も過去と同じような国家になろうとしていますので、そのような国家への忠誠はなかなか難しいものがございます。しかし正義や公正が追及される日本国となるならば、命を懸けて悔いのないという思いを持つことに正当性を感じることが出来ます。

喜んで命を差し出すことが出来ない主義も主張もあいまいな国家が、つまり誰のためか解らないが、国民が国外で戦って命を失うかもしれない法案を通そうとすることは、北朝鮮と変わらない面を持っているという事になるように思います。

脅威の経済成長を達成したにも関わらず、日本は戦後一貫して、悪い方向へ向かっています。

2014年06月18日 20時59分39秒 | Weblog
集団的自衛権や秘密情報保護法をかくも熱心に可決しようとしている安倍首相は何によって動かされているのか気になるところです。

最初に思いつくのはやはり米国の意向というか圧力があるのではないかという事です。米国はもはや自国のみの軍事力では世界で起こっている問題に対処できなくなっておりますので、どうしても日本やドイツなどの同盟国にその役割を担ってほしいと願っています。

自国民がイラクやアフガニスタンで死んでゆく中で、同盟国がアメリカの軍事力の傘の下で平安をむさぼっているのは国民感情としても見過ごせないものがあるはずです。

そのような力が米国の議会や政府や大統領を動かして、日本の安倍首相に圧力をかけているのだろうという事は簡単に想像がつきます。

日本国民が世界の平和に貢献するのに金銭だけの援助で済ませることが出来ないところまで来ているという事で、集団的自衛権に対して反対する人たちの反対理由が日本国民の血が流されるので反対というのでは、現実に血を流している米国からすると認められない反対理由となっていることもまた事実だと想像することが出来ます。

世界の平和と日本の平和はつながっており、同じ水平線上にあります。中国が不安定化すれば日本もその不安定要因により、戦争に巻き込まれます。日本だけが世界の軋轢の中で平和憲法に依存することは、あてにならない軍事力に、無思慮に依存していることと同じで、現状では認めることが難しい状況になっております。

そもそも自衛隊を含む軍隊の目的は自国を守るために戦う組織です。その組織が戦いにおいて発生する死を想定していないというならば、自らの存在を否定していることになります。そのような自衛隊は存在意義がなく、納税者として認めることが出来ないはずです。

戦前のように死を美化して若者を戦地に送り出し、最後には自国民をそこに遺棄して、自ら国民を助けることなく、引き揚げてきたような軍隊を持ったことのある国民としては、政府や議会の議論に任せるのではなく、一人一人が明確な意見をまず持つべきではないかと思うのであります。まず手始めに国民一人一人が正義とはなにか公正とはなにか、私たちの求めている自由とは何か、真剣に考えてみる必要があるように思います。

日本国民が正義とは何か、公正とは何か、自由とは何か、はっきりと知って行動するようになれば、日本は正しい方向に変わってゆき、その祖国のために人生を賭けても悔いがないという心が生まれてくるのではないでしょうか。現状のままの、理想もなく目的もはっきりしない、不正や腐敗やご都合主義がまかり通る国には国民は人生をかけることはできません。

100年後の日本に望むこと

2014年06月12日 10時48分01秒 | Weblog
最近富に気になることがあります。

それは日本国民が歴史の事実や現状の認識において事態を直視し理性的な判断ができるのだろうかという疑問です。戦後日本は連合国に敗れまして、いわば上から押しつけのような形で現在の日本国憲法を持つに至りました。憲法ではそれまでに日本の憲法になじみのない概念や、日本国民にとっても理解できない概念が多く含まれているように思います。しかしながら現在の日本国憲法が自主的に作られたのではなく、上から与えられたという事で、実は国民が大いに学ぶ機会を逸してしまったのではないかと思うのです。

なぜなら現状の国家の運営を外部から眺めておりますと、国民は巧妙に国家のディシジョンメーキングから排除されているように思えるのです。そしてそのような状況にあるために、国民は自分の権利を行使することが出来ないか、その意思がないかのどちらかの理由により国がいま暴走を始めているように見えます。国家が国民を度外視して、暴走したのはまだ70年前のことで、多くの人の記憶にも残っておりますし、その方々は大きな声を上げる義務があるようにも思います。数百万人の方がなくなったきわめて非人道的な戦争から復興して、それを忘れてまた新たに暴走始めるには70年の月日が必要であったという事なのでしょうか。

秘密情報保護法により官僚は自由に決断し行動することが出来るようになり、ともあれ少なくとも決定したことに責任を持つ必要がなくなり、国民は一方でますます不自由になり、なにか自分の身辺を気にしないでは意見を述べることもできなくなっております。特に渋谷などにおいては右翼の活動家が町にあふれており、めったなことでは政治的な発言ができない雰囲気となりつつあります。

そしてここに来て集団的自衛権が認められようとしています。誰がどう見ても日本は積極的に平和を目指しているのではなく、積極的に戦闘や戦争を目指しているようにしか見えません。なぜなのでしょうか。おそらく日本国憲法には重大な欠陥が隠されていて、日本国民が喜んで信奉してゆくには十分ではないのではないかと思う次第です。それでは何が欠けているのか、それは前から繰り返していることですが、平和主義の憲法の内容は誇りにすることが出来ますが、国家が何を目指しているかが見えにくいように思います。次の日本国憲法には日本国は自由と正義と公正をまず第一に追求するという文言を入れたらいかがでしょうか。文化的な最低限の生活を営む権利があるであるとか世界の平和を希求するなどと述べてもあまり誇りにも感じられませんが、自由な社会を作り、公正な社会で正義がまかり通る社会にするのだという事であれば、大いに希望を持つことが出来ます。

このように改正されると役人が役得でなにかを手に入れたり、権力のあるものだけがなにか役得で有利な計らいを受けたりすることが憲法違反になりますし、街中で貧しい人々が国家の福祉の恩恵をうけないような状況が見られれば、それも憲法に違反することになります。たとえばブラック企業などは即座に憲法違反になります。ともあれ国家の運営や経営の携る方々にとって不都合なことは決められない、あるいは実行されないという社会はそれだけでブラック国家になる要素を含んでいます。また国家が政策として人々を縛るような法律は自由を侵害するという意味で即座に憲法違反となります。奔放がよいと述べているのではありません。自由がほしいと述べているだけです。自由とは他の人の自由も認めることが出来る自制心が要求されます。国民一人一人が自立した個を確立してゆかねばならない社会となります。

国が規制して行く社会と自分が自分を規制してゆく社会とどちらを求めるのでしょうか。私は圧倒的に後者を求めます。つまり自分のモラルが社会や自分を管理してゆくような日本になってほしいと思います。それがモラルのある国となるからです。


日本はどこに向かおうとしているのか

2014年06月03日 10時10分49秒 | Weblog
国家全体が理性的な判断が出来なくて、混乱の中で再び、国民にとって耳触りのよい言葉を連呼する人たちや、勇ましい言葉を無思慮に吐き続ける人たちの、無責任な世界に再び向かってゆくのでしょうか。戦前に今はよく似ているという方がおられます。

理性をなくしているので、歴史に学ぶこともできないのでしょうか。日本人はもっと理性的になり、政治的には日本国民は理想を追い続け、対外的にはもっと戦略的な思考が求められるように思います。美しい日本であるとか日本の伝統を守るとか、そのような情緒的な対応では現在の国際社会の荒波はとても乗り切れません。また多くの日本人も納得していません。いま日本人が求めているのは単純に安全のみを追求するような政治ではなく、また生きながらえることだけが目的の政治ではなく、なにか誇りに思えるような理想をもって、世界の模範となるような政治ではないかと思うのです。

戦時中の慰安婦の問題とか、南京大虐殺だとか、日本を非難する多くの事件が過去にありました。それが事実ならばというか、規模はどうであれ事実だったと歴史が示しているので、その通り受け取る以外道はないと思います。そのような過去を日本は真に悔いているということと、日本の理想の実現のために努力することによって、帳消しにし、埋め合わせてゆくことが出来ると思います。そうでないならば、日本人はどこまで行っても誇りを持つことができず、世界はいつまでたってもの日本を非難し続けることになるでしょう。

最近、しばしば考えることは中国や東南アジアに侵攻していった経緯はどうであれ、当時の日本人の多くが無思慮にも軍のそのような蛮行を容認していたという事なのではないか。そして現在でも状況と少しばかり勇ましい意見を述べる政治家が現れれば、善悪の判断を放棄してそれに従ってしまうのではないかという事に思い至っております。日本を動かす官僚組織の中に、あるいは政治家たちの間に、いまも根強い、国民を愚民と見做して、国家の運営に携わっている方々いるように思います。

国民がそんなに愚かではないという事を見せる時だと思います。

自衛隊の戦艦には神棚があるようです。

2014年06月01日 20時58分41秒 | Weblog
どうも自衛隊の戦艦の中に神棚があるようですが、政教分離の原則に反すると思いますがいかがでしょうか。

自衛隊員の中には仏教徒もおりますし、他の宗教を信奉する方もおられると思いますので、その人たちの心情は拘泥されていないのでしょうか。一部のいわゆる他の人の思想や信条に無頓着な70年前の精神構造の方が自衛隊の上層部に今でもいるという事でしょうか。憲法をこのようなところでも無視しているのはどうゆう事なのでしょうか。物事を理性的に考えることが出来ずに、感情的にしかとらえることが出来ないという事は、頭が悪いという事なんでしょうか。日本のキャリア制度というのは実は合理的な頭の良い人たちだと聞いていますが、試験問題は解けても現実の諸問題には対処できない人たちなのでしょうか。

ペーパーテストだけよくできる人たちが社会を動かし、国民を愚か者であるがごとく見ている人たちにはあまり国家の運営部門には居てほしくないと思うのですが、皆さんはどのように思いますか。