神話でなかった古事記

日本の歴史を知るために、いろいろ考えてきました。古事記に残されていることから、思いついた事を書いてみようと思います。

日本書紀が書いたお城の話  水城 城造り その4

2016-10-02 04:42:31 | 古事記
城造り その1、その2において日本書紀に書かれている古城を見て頂きました。
その3では、日本書紀に書かれていない鬼ノ城を書きました。
 日本書紀の作者は、鬼ノ城のことは知っていたでしょうが、書きませんでした。

私の見解としては、この城は、中国人が造ったのですが、自分達が造ったとも書きませんでしたが、
天智天皇がつくったとも書きませんでした。
 
 今回取上げた『水城』は日本書紀に書いたお城です。 書いた以上は、書いた藤原氏と関係がある
からだと考えて見るべきです。

 『日本書紀』に、「・・・。また、筑紫に、大堤(おおつつみ)を築き水を貯へ、名づけて水城と
曰う。」と、記載されています。

この城は、ネットで、どのような城かを見ることが出来ます。
水城と大宰府
http://www.geocities.jp/kakitutei_pickup/mizuki/mizuki1.html

水城
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E5%9F%8E#.E6.A6.82.E8.A6.81
ネットの知恵をお借りしますと、水城は、次のような説明に成ります。  ネットより拝借


白村江の敗戦後、倭国には唐・新羅軍侵攻の脅威があり、防衛体制の整備が急務であった。664年の
唐使来朝は、倭国の警戒を強めさせた。この年、倭国は辺境防衛の防人(さきもり)、情報伝達シス
テムの烽(とぶひ)を対馬島・壱岐島・筑紫などに配備した。そして、筑紫における水城[注 2]の
建設である[2]。

白村江の敗戦の翌年に水城が、そのまた翌年に大野城が築かれた。ともに大宰府の防衛のためである。
水城は大野城のある四大寺山地と、西側の大野城市牛頸(うしくび)地区の台地の間の、一番狭い
くびれ部を塞ぐ形で造られている。全長約1.2キロメートル・高さ7~10メートル・基底部の幅約80
メートル・上部の幅約25メートルの土塁で、東西の端部の東門と西門が開く。土塁の基底部を横断
して埋設された木樋は、延長79.5メートル・内法幅1.2メートル・内法高さ0.8メートルである。
土塁の博多側の、現水田面より5メートル下に、幅60メートルほどの外濠が存在する[3]。

ネットでは、誰が造ったとは書いてありませんが、天智天皇が日本を守るために造ったと書いて居ら
れます。
 この説明に依りますと、水城は、一年で完成。その後、直ぐに大野城が造られた事になります。

 この方の説明では、それだけ、天智天皇は、追いつめられていたことに成りますが、日本書紀には、
そのような記述は見付かりません。

 当然、この城の近くには、天智天皇の軍隊はいた筈ですが、何人いたのでしょう。 以下、私の
いい加減な推理です。

白村江の戦いのときは、日本は、三回に分けて、27000人ずつ、戦争に派遣したことになっています。
合計51000人です。中国のほうは、130000人の軍隊だったと思われます。
日本は大敗しましたから、10000人帰国出来れば良い方でしょう。

 この10000人を11の城に分けますと、一つの城で、1000人の軍隊で防衛です。
中国は、30000人が日本に上陸するとしますと、水城と大野城は、1000人で守ることは出来ません。
 このような分析は、私が勝手に考えたことです。

多くの人は、日本書紀に書いてある『水城』ですから、他の11の城と同じ様に、天智天皇が造った。
それは、中国からの攻撃から守るからだと考えるようになってしまいました。

ネットで、水城を検索しますと、どなたでも、日本が防衛の為に造ったと書いてあります。

案の定、日本書紀に、日本人、全員が騙された事に成ります。

騙されなかった人は、田村誠一氏と田辺昭三氏だけです。
田辺氏著書 『よみがえる湖都』大津の宮時代を探る の158頁書いてあります。

田村誠一氏の著書は、なぜか、一冊も購入することも、図書館でも見ることも困難です。
『真説 建国史』を次の所に掲載していますから、ご覧ください。
http://obitikuoosaka.blog.fc2.com/

 今は4頁目ですから、下に移動して、はじめからご覧ください。