神話でなかった古事記

日本の歴史を知るために、いろいろ考えてきました。古事記に残されていることから、思いついた事を書いてみようと思います。

阿須々伎神社に付いて考察(5)  高皇産靈神 天御中主神 神皇産靈神

2014-09-28 04:30:50 | 古事記
 今回は、高皇産靈神のことを調べています。

高皇産靈神は
古事記の記述
天地が初めてできたとき、高天原に現れた神の名は天之御中主神。次に高御産巣日神。次に神産巣日神。この三柱の神は、みんな独神で、身を隠された。

日本書紀(一書の四)天地が初めて分かれて、初めて共に生まれた神がいた。國常立尊言う。次に國狭槌尊 。
また、高天原において生まれた神の名を、天御中主尊と言う。次に高皇産霊尊。次に神皇産霊尊 。
 ----本文には、高皇産靈神 天御中主神 神皇産靈神は書いてありません。

古事記には、高御産巣日神は登場しますが、別名として、高木神というと書いてあります。
高木神社(嘉麻市小野谷1580番)
 祭神 高御産巣日神、神武天皇が東遷時ここにやってきて高皇産霊神を祀った。福岡県神社誌には、「本村は往昔、英彦山神社の神領地なりし依て英彦山に於いては当社を英彦山四十八大行事社の中にして本社はその首班に位せり。各地にある大行事社今は皆高木神社という。」 とある。

英彦山神宮 ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%B1%E5%BD%A6%E5%B1%B1%E7%A5%9E%E5%AE%AE
 祭神は、古事記の表記ではなくて、
天忍穂耳尊を主祭神とし、伊佐奈伎尊・伊佐奈美尊を配祀する。
と記されています。
 此の事から、福岡県神社誌を書かれた方は、歴史を取り違えておられることになります。 神と書かずに、「尊」と書くのは、日本書紀に断ってある通りです。

高木神社は、福岡県だけで、次の通り有ります。

高木神社 田川郡添田町大字津野6717番の1
高木神社 田川郡添田町落合3583番
高木神社 田川郡添田町津野2227
高木神社 田川郡大任町大行事118番
高木神社 田川郡大任町大行事2496-1
高木神社 嘉麻市熊ヶ畑1075番
高木神社 嘉麻市桑野2588番
高木神社 嘉麻市小野谷1580番
高木神社 嘉麻市桑野1399番
高木神社 嘉麻市平217番
高木神社 久留米市田主丸町豊城1088番
高木神社 宮若市黒丸1572番
高木神社 京都郡みやこ町犀川上伊良原字向田308番
高木神社 京都郡みやこ町犀川下伊良原字荒良鬼1594番
高木神社 築上郡築上町船迫字水上1133番
高木神社 筑紫野市大石字上ノ屋敷569番
高木神社 筑紫野市天山字山畑241番
高木神社 朝倉郡東峰村小石原鼓978-8
高木神社 朝倉郡東峰村宝珠山24番
高木神社 朝倉郡東峰村小石原655番
高木神社 朝倉市佐田377番
高木神社 朝倉市黒川1806番
高木神社 朝倉市黒川3328番
高木神社 朝倉市佐田2953番
高木神社 朝倉市江川1201-1
高木神社 朝倉市杷木白木172番
高木神社 朝倉市杷木赤谷744番
高木神社 朝倉市杷木松末2784番
高木神社 朝倉市須川1683番

高御産巣日神は、古事記によれば、高天原にやって来た神ですが、これでは、高天原は、福岡県の朝倉市に有って、仲間が、その周りの嘉麻市、久留米市、宮若市、筑紫野、京都郡みやこ町に住んでいたことになります。

それだけではなくて、京都府綾部市に、高皇産靈神 天御中主神 神皇産靈神の三人の神産を祀ることとなり、その神社の名は、阿須々伎神社といい、高木神社より、理屈が合わない歴史を経て来たことになります。

阿須々伎神社に付いて考察(4)  天御中主神 神皇産靈神 高皇産靈神

2014-09-22 02:51:15 | 古事記
道主貴神のことはご存じでしたか。
道主貴神は宗像三女神の事だったのです。

 宗像三女神のことは、古事記に

多紀理毘売命は胸形の奥津宮に坐す。
市寸島比売命は胸形の中津宮に坐す。
田寸津比売命は胸形の辺津宮に座す。

と書いてあります。
それは古事記が間違っているのだろうと誰でも思われるでしょう。
歴史の専門家もその様に書いて居られます。

 宗像大社のホームページには、次の様に書いてあります。
 
「古事記」「日本書紀」によれば、三女神は天照大神と素戔嗚尊の誓約のもとに誕生し、天照大神の神勅によって、この大陸との交通の要路にあたる「海北道中(かいほくどうちゅう)」(宗像より朝鮮半島に向かう古代海路)に降臨されました。と書いてありますが、「古事記」には書いてありません。

では、「日本書紀」が書いてある様に、三女神は天照大神と素戔嗚尊の誓約のもとに誕生するものでしょうか。
 天照大神のお言葉により宗像の地に降りられ、祀られるようなったことが記されています。どうして、九州の宗像の地に降臨されたのでしょうか。 しかも、海の中の島に祭られているのでしょうか。
 お参りしようと思っても簡単に参る事が出来ません。 不自然ですね。

 交通安全(海)のための神さんです。 
これはまあ、信用するとします。
では、三女神を先祖と思っておられる方が、全国にどれぐらい居られると思われますか。
 ムナカタ神社がどれぐらいあるか調べてください。確か、私は、6000社程あった様に記憶します。
 神社に、氏子の方が、50人居られたとしますと、5人家族ですと、
6000×50×5 で、150万人の方が、居られることになります。
 しかし、海の神さんは、外にも居られますから、どのようになるのでしょう。
今回は、天御中主神 神皇産靈神 高皇産靈神 の神さんの事です。
 この三人の神さんが、一つの神社で主祭神であるという意味が分りません。
この三人の事を造化三神と云います。

造化三神
http://www.ffortune.net/spirit/zinzya/kami/zoka.htm

 このブログを書かれた方は、古事記に書いてある三女神を記して居られますが、間違っておられます。
  天御中主神ではなくて[天之御中主神]です。 この方は、[天(之)御中主神]書いて居られますが、天御中主神と天之御中主神とは、違います。 (之の字が有るのと無いとの違いだけだと思われるでしょうが、ここが重要な点だと思っています)
 
自分の先祖の名前を間違える訳がありません。自分達が、祀って来た神社は、必ず云い伝えられましたから、現在ある神社に残っています。
 では、「天御中主神」をキーワードにして、神社を探してください。

[天之御中主神]を祭神とする神社を探してください。

「天御中主神」を祀る神社は、吉備津彦神社があります>

http://www.genbu.net/data/bizen/kibituhiko_title.htm

高御産巣日神、 神産巣日神は古事記に書いてある神の名ですが、天御中主神は、何処にも書いてありません。
 どのように書いてあるかは、確かめていませんが、古語拾遺 と云う本に書いてあるだけだそうです。
 
次の所に調べた方が書いて居られます。
別天津神(出現表)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A5%E5%A4%A9%E6%B4%A5%E7%A5%9E
-
 日本書紀の本文の所には書いてありません。 書いてありませんどころか、日本書紀には、天御中主神、高御産巣日神、 神産巣日神も書いてありません。ただ、日本書紀ではなくて、別の第四書という本に、天御中主尊、神皇産靈尊、 高皇産靈尊と書いてあります。ということは、日本書紀の本文には書いてないと云うことです。

 日本書紀は、最初に登場した神は、国常立尊であると書いています。

ある歴史家に依りますと、日本の歴史は、日本書紀が正しくて、古事記は偽書だと書いて居られる方が有ります。それがた正しいとしますと、古事記を書いた太安万侶は、日本書紀を参考にして書いた可能性が大きいことになります。

 日本書紀は、720年に出来たことになっていますから、太安万侶は、その後にでき上がった古事記は、712年(和銅6年)にできたという月日を入れて捏造したことになります。

しかし、そんな無理な考えをしなくても、こんなに最新の多い吉備津彦神社の由緒が間違っていると考える方が、自然です。
 でも、言えればとっくに、訂正していた筈ですが、言えない複雑な歴史があった神社だと考えています。

阿須々伎神社に付いて考察(3) 祭神 神話でなかった古事記

2014-09-19 04:41:38 | 古事記
阿須須岐神社
http://www.genbu.net/data/tanba/asusuki_title.htm
 に書かれている資料から阿須須岐神社はどの様な神社であるかを考えます。

祭神
天御中主神 神皇産靈神 高皇産靈神 道主貴神

祭神の事は、〔阿須々伎神社に行きたくなった理由(2)〕に書いています。だぶりますが、もう一度記します。

祭神は、天御中主神 神皇産靈神 高皇産靈神 道主貴神 です。
 
道主貴神は、はじめて聞く神の名ですので、興味はありました。インターネットで調べましたら、次の様に書いてありました。古事記には、書いてありません。
『日本書紀』では、この三女神を「道主貴(みちぬしのむち)」と尊称し、天照大神のお言葉により宗像の地に降りられ、祀られるようなったことが記されています。
〔宗像の地〕をキーワードにして検索しましたら、宗像大社が見つかりました。
http://www.munakata-taisha.or.jp/html/gosaijin-yuisyo.html

一部を転記します。

宗像大社は、またのお名前を「道主貴(みちぬしのむち)」と申し上げます。
「貴(むち)」とは最も高貴な神に贈られる尊称で、「日本書紀」には宗像三女神が「道主貴(みちぬしのむち)」、すなわち国民のあらゆる道をお導きになる最も尊い神として崇敬を受けたことが記されています。
道主貴(宗像三女神)以外には、伊勢神宮の大日靈貴(おおひるめのむち)(※天照大神)、出雲大社の大己貴(おおなむち)(※大国主命)のみですので、宗像三女神が皇室をはじめ、人々からいかに篤い崇敬を受けていたかがうかがえます。 また、ここ宗像の地は中国大陸や朝鮮半島に最も近く、外国との貿易や進んだ文化を受け入れる窓口として、重要な位置にあり、「古事記」「日本書紀」によれば、三女神は天照大神と素戔嗚尊の誓約のもとに誕生し、天照大神の神勅によって、この大陸との交通の要路にあたる「海北道中(かいほくどうちゅう)」(宗像より朝鮮半島に向かう古代海路)に降臨されました。 当大社には二千数百年前に交通安全のためにお供えされた、人形(ひとがた)、馬形、舟形といわれる石製の形代(かたしろ)(実物に代わるもの)が、現在国宝として保存されていますが、これは古代より、「道の神様」としての篤い信仰を集めていたことを表しています。
ここに書いてあることは 本当の事でしょうか。

確かに、三女神の事は、古事記には次のように書かれています。 似ていますが、少しずつ漢字が異なります。
多紀理毘売命は胸形の奥津宮に坐す。
市寸島比売命は胸形の中津宮に坐す。
田寸津比売命は胸形の辺津宮に座す。
 
神社の説明には、次のような文章が書いてあります。
http://www.munakata-taisha.or.jp/html/gosaijin-yuisyo.html

沖津宮がおまつりされている沖ノ島は、九州と朝鮮半島とを結ぶ玄界灘のほぼ中央にあります。また、女性はこの島には渡れず、今でも古代からの風習をそのまま守り続けている神の島でもあります。この島からは、鏡、勾玉、金製の指輪など、約十万点にのぼる貴重な宝物が見つかり、そのうち八万点が国宝に指定されました。これらの宝物は国家の繁栄と海上交通の安全を祈るために、神様にお供えされたものです。その内容や遺跡の規模の大きさなどからも、沖ノ島は「海の正倉院」ともいわれています。この神宝は、辺津宮にある神宝館(しんぽうかん)に所蔵、展示されております。

三つの宮の所在地の図が http://www.munakata-taisha.or.jp/html/sanmiya.html 
に有ります。

九州と朝鮮半島との間を行き来する時は、この三つの島に立ち寄ったと云うことでしょうか。こんな小さな島を見付けるのは大変だったでしょうね。
 三人の女性の神を祀るのに、どうして女人禁制なのでしょう。
 確か、船を付ける施設も無かったと思うのですが、国家の繁栄と海上交通の安全を祈るために、お祭りに行っていたと記されています。
 宗像大社には、このような伝承や記録が残されているのでしょうか。

 おかしな話ばかりです。
でも、この島からは、鏡、勾玉、金製の指輪など、約十万点にのぼる貴重な宝物が見つかったということは、事実です。

 以前に、此の事に付いて調べた事がありますので、次に記しておきます。
胸形神社と宗形神社
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page1419.html
道主貴神が、どうして阿須須岐神社の祭神に加えられたかが不思議ですが、理由はあるのでしょうが、、、ここまでにします。

阿須々伎神社に付いて考察(2)

2014-09-16 05:40:11 | 古事記
 阿須須伎神社に関する資料は、外に有るのでしょうが、私は持っていませんので、
次の方のブログを拝借します。
阿須須伎神社
http://www.genbu.net/data/tanba/asusuki_title.htm

先ず、神社名からです。
式内社 丹波國何鹿郡 阿湏々伎神社
明治二年に、式内社・阿湏々伎神社に比定されていたが
明治十二年、篠田神社と式内社争いが起こり
式内社指定を取り消されたらしい。


以上の文面から、阿須々伎神社は、延喜式には、「阿湏々伎神社」と書かれていたことが解ります。
「湏」の字は、どの様な漢字かは、インターネトで調べますと、「湏」は「須」の異体字であると書いてあります。
 ところが、「湏」という漢字は、外の所で調べますと、「ケ」「カイ」と読むと書かれています。
発音は、 huèi と書いてあります。中国では、このように読んだと思われます。

 どちらが正しいかは、調べるのが大変ですから、外のことから考えることにします。
 次の神社は名前に「湏」と「須」が使われています。

須波阿湏疑神社
http://www.genbu.net/data/etizen/suhaasugi_title.htm

この神社の名前を書いた人は、間違いなく、「湏」と「須」を別の字として使っていることになります。しかし、両方とも、「ス」と読み伝えられていることになります。

 もう一つの例を挙げます。
「湏佐之男命の湏賀宮造営記事について」
https://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/36988/1/BungakuKenkyukaKiyo3_57_Akatsuka.pdf
 ここの文脈からは、「湏は「ス」の読み方のように思われます。しかし、そうであれば、延喜式神名帳に、「阿須須伎神社」と記せばよかったことになりますが、阿湏々伎神社と書かれているらしいです。
 これ以上のことは分りません。

 以下は、単なる推測ですが、延喜式神名帳は、日本人と中国人の人が、一緒に作ったのではないでしょうか。


阿須々伎神社に付いて考察

2014-09-13 00:12:59 | 古事記
神社の名前は 〔アススキ〕ジンジヤの様です。
資料によっては、「阿須須伎神社」「阿須須岐神社」「阿須々伎神社」がありますが、金河内の神社では、「阿須須伎神社」が扁額に表示されています。

 丹波国何鹿郡の式内社一覧表
http://ja.wikipedia.org/wiki/Template:%E4%B8%B9%E6%B3%A2%E5%9B%BD%E4%BD%95%E9%B9%BF%E9%83%A1%E3%81%AE%E5%BC%8F%E5%86%85%E7%A4%BE%E4%B8%80%E8%A6%A7
をご覧ください

延喜式神名帳では、阿須々伎神社と書かれているようです。 その他に、判る事は、漢字はすべて濁音がありません。
 読み方は〔アススキノ〕と云う様に、神社の前に、「ノ」の音を入れて読んでいたと思われます。12社が全てそうなのかは、地元の神社や資料で確認する必要があります。
 どうしてかと云いますと、阿須々伎神社の場合は、「岐」と「伎」が使われていますが、漢字の有する意味は、全く異なります。
 〔支〕を含む漢字は、「岐」と「伎」の外に、「妓」「技」「枝」があり、〔支〕の方に意味がありそうです。読み方は、「ギ」「キ」です。

 上記の様なことを考えますと、「阿須須伎神社」の「伎」は、音だけを表し、他の阿、須も、音だけではないかと思われます。
と云うことは、〔アススキ〕で始めて、神社を表す言葉ではないかと想像します。

丹波国何鹿郡の式内社一覧表をもう一度、ご覧ください。12社のうち、神社の名前で、意味が分りそうなのは、 珂牟奈備神社、赤国神社、高蔵神社 の3社だけです。

神社の名前の意味がわからない神社の祭神は、外国からやって来た人ではないかと推察します。

と云う次第で、神社名の「阿須須伎神社」「阿須須岐神社」「阿須々伎神社」は、どれでも良いのではないでしょうか。