神話でなかった古事記

日本の歴史を知るために、いろいろ考えてきました。古事記に残されていることから、思いついた事を書いてみようと思います。

綾部市の物部の集落のこと  神話でなかった古事記

2014-07-31 08:57:06 | 古事記
平成26年7月20日~21日に、一泊で綾部市の12の式内社を全部回る積で、行ってきました。
 なぜ、行く気になったかを記しています。(前回は、その式内社のことを書きました)
 以前から物部の集落が、気になっていたからです。

 何故気になったかは、次の所に理由を書いて残していました。
綾部市に何時行ったかは、すっかり忘れていましたが、次の文章で残していました。

綾部市訪問 
http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page496.html

綾部市は京都府にあります。中央にゆったりと由良川が流れ、西隣の福
知山市で、川は、北に向きを変えて、日本海に注いでいます。西には、変
わった名前の夜久野町、北には鬼で有名な大江町があります。

この町には物部という地名がありますので、物部氏と関係があるかどうか
知りたくて行きました。
地元の方で。立ち話をしておられる年配の方にお聞きしましたら、「関係あ
りません」、郷土資料館を訪ねましたが、特別展を開催しておられて、綾部
市のことは判りませんので、図書館への道を教えて貰っていましたら、学
術関係の方のようでしたので、物部の町のことをお尋ねしましたら、やは
り、関係ないと言われてて、がっかりして帰ってきました。高速から、見え
る京都府下 最大の私市丸山円墳に行ってきました。古墳の上で食事を
しながら、町を眺めゆっくりしてきましたが、豊かな町だと感じました。
 帰宅後、調べたことなど書いてみます。

 これはH17.01.01の日付で、WEBに掲載していますが、綾部市へ行ったのは、その前の年の秋の事と思います。


 行った時に不愉快な思いをしました。
①地元の方で。立ち話-----この時、田んぼの中で五人の人(男性)が話をして居られました。車を止めて、あぜ道を歩いて近づき、この町の物部(ものべ)は、昔の「物部氏」と関係がありますかとお聞きしましたら、悪い雰囲気の間をおいて、「関係ない」と云われました。

 ああ、尋ねてはいけないことを聞いたのだなと思いました。

②郷土資料館を訪ねればなにか判るかなと思って行きましたら、当日は、特別展をして居られて、江戸時代の綾部市の研究リポートの展示だったと思います。私市丸山円墳で発掘された遺物の展示を見たかったのですが、何もありませんでした。図書館に行って調べようと思って、図書館までの道を教えて貰っていましたら、その方は、資料館の方でした。綾部市のことをいろいろお話して戴きましたが、先ほどの「物部町」と「物部氏」の関係の質問をした途端に、来客中で忙しいので、失礼しますと云われました。
 特別展示会は誰も居られませんでしたので、ゆっくり、全部拝見しました。

綾部市 http://homepage1.nifty.com/o-mino/page359.html に調べた事を掲載しています。

綾部市の地名
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page367.html

 これは、色のついた地名は、その内に調べようと思った地名です。

綾部市の遺跡 (この資料は、事務所の前に置いてありましたので、購入した物を掲載していましたが、あまりにも多すぎて、全部掲載出来ていません。この時、先ほどの資料館の方が応対してくださいました。異様な雰囲気でした。この事があって有ってからは、資料館の方でも、自分の町について喋ってはいけない事があるのだと思いました)

 其の後、結構、物部氏のことは、本を読んだり、コツコツと資料を集めましたが、未だに、全体を掴む事が出来ません。

 この度、綾部市訪問するにあたって、もう一度、「物部」も眺める事が出来る様に、「私市」「物部」「金河内」「西坂町」へは行って来ようと思いました。

 ここから出土した遺物があれば、遺跡から馬の骨が出土しなかったかどうか資料館でお聞きするつもりでした。
 多くの古墳が物部氏と関係有るとすれば、馬は、騎馬民族の馬であろう。物部氏は、大陸からやって来た人達ではなかろうかと推理出来るからです。

 資料館は、月曜日が御休みであることが、私市丸山円墳に登りにいって、案内看板に書いてあって、がっくりでした。

延喜式内社とは?

2014-07-28 00:20:55 | 古事記
何鹿郡に延喜式内社が12あって、その数が多いと書きました。このように郡単位での多い少ないは、郡毎に調べませんと判りません。その数は厖大過ぎて、記憶出来ません。

 延喜式内社は、どうやら一度に決められたもので無いらしいです。

延喜式内社とはどの様なものを云うのか、知っていることを書いてみようと思います。

延喜式神名帳と云うものが、残されています。延喜とは、平成と同じに、ある一定の時代の呼び名になります。この時代に、法律書に当る様なものが作られ、
延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十のことを延喜式神名帳と呼ばれています。
 
ここに記載されている神社と同じ名前の神社が多く残っています。
 正確にいいますと、神社の名前が同じと云うだけで、ずっと続いて存続しているとは限りませんが、諸々の研究から、同じ神社であろうと思われる神社のことを論社と呼ばれています。「延喜式の内に記載された神社」の意味で延喜式内社、または単に式内社と呼んでいます。
 
何故か判りませんが、当時「官社」に指定されていたと多くの資料には書いてありますが、そうとは限らない様に考えています。

延喜式神名帳に記載された神社(式内社)は全国で2861社で、そこに鎮座する神の数は3132座であることが分っています。
 詳細は、次をご覧ください。
延喜式神名帳 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%B6%E5%96%9C%E5%BC%8F%E7%A5%9E%E5%90%8D%E5%B8%B3
式内社は、延喜式が成立した10世紀初頭には朝廷から官社として認識されていたと書いてありますが、どのような権限があったのかは、調べて行くほどに、わけが判らなくなる代物の感じを受けます。

延喜式内社の論者と云われる神社を沢山訪れる程に、いろいろのことを感じさせてくれます。このことを書きますと、現在、この神社を中心としてその共同体が、現在もありますから、一言では書けない様に思います。
 一言どころか、幾ら調べて書いても、全ての式内社に共通するようなシステムがあった様には思えません。
 即ち、「官社」ではなかったのではないかと考えます。
少しだけ、私の考えたことを記してみます。

713年に全国に、国のいろいろの様子を報告するように、命じられたことがあります。その一部が、風土記という名で残されています。
 ただ、問題は、完全に残っていると思われるのは、出雲国風土記だけで、後は、残欠という形で一部が残っています。
 
全体に調べたわけではありませんが、出雲国風土記は、残ったではなくて、残されたが、他の国は、抹消されたが、どうにか残っているのではないかと推理しています。

出雲国風土記にも存在した神社の名前が掲載されていますが、延喜式神名帳に掲載されている神社は、4社多いだけです。
ということは、 713年から927年の間に、年月は214年経って居ますが、神社の数は、4社増えただけです。 出雲の地は、この間に、人口は増え無かったことが判ります。別の表現をすれば、発展をしなかったか、天皇の勢力が増えたのかも知れません。
 その一つの証拠は、日本書紀には、大国主命のことは書いていません。
 どなたも式内社の重要性を口にはされませんが、私は、この神社は、「官社」ではなくて、藤原氏の支配下にあった神社だと推理しています。

 このように考えますと、日本の歴史がすっきりします。まだ未完成ですが、次のページをご覧ください。
式内社と祭神】  http://homepage1.nifty.com/o-mino/page257.html

数字の多い所は、藤原氏が支配していた所です。少ない所は、天皇家の勢力の強かった所です。
 712年に古事記が出来てから、藤原氏の日本制覇への日本改造は、気が狂ったように行われたと考えます。

927年にその大事業は完成しました。いかがですか。 

何鹿郡の歴史は12の式内社を回るだけで、ある程度判るのではないかと思いました。
 本当は、式内社以外の神社(式外社)も同時に調べる必要があります。

何鹿郡に鎮座する式内社

2014-07-26 02:46:19 | 古事記
何鹿郡は、かって、京都府綾部市一帯にあった郡名です。歴史と地名は多いに関係があるのですが、厖大な地名を頭に入れていますと、ある日、急に閃くことがあります。
 
何鹿で、イカルガと読みます。イカルガと聞けば、誰でも、奈良の斑鳩の里は思いだされると思います。法隆寺のある町です。
 斑鳩は、まだらの鳩のことです。となりますと、昔、この辺りにまだらの鳩が一杯居たからと考えたくなりますが、まだらの鳩は、現在はそれほど多くありません。
 イカルという鳥はいますが、この鳥が法隆寺の傍にいた記録もありません。

 いかるがと呼ぶ地名は、
三重県四日市市鵤町
揖保郡太子町(旧斑鳩町)鵬。
多紀郡西紀町坂本字イカルカ。
  同 篠山町藤岡奥字 有へんに鳥  
 加古川市野口町長砂字鵤   
 
等がありますが、奈良の斑鳩と関連がありそうです。

 全国にあるイカルガ地名を調べられた辻 保治(故人)が居られます。

大和・いかるが考  辻 保治
http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page259.html
にその成果が残されています。
 辻氏の研究によれば、全国にある「いかるが地名」に共通することは、川の合流する所、即ち、川が「イカル」所の様です。奈良の斑鳩は、奈良の全ての川の水が合流する所です。


何鹿郡の広さは、現在の綾部市とほぼ同じ位ですが、ここに延喜式内社が、12もあります
これは多いです。多いと云う事と、延喜式内社とは、どのような神社かを知っていませんと、式内社を訪ねて行く気になりません。7月20、21日と、一泊で神社全部を周るつもりで出かけました。

何鹿郡に鎮座する式内社
http://ja.wikipedia.org/wiki/Template:%E4%B8%B9%E6%B3%A2%E5%9B%BD%E4%BD%95%E9%B9%BF%E9%83%A1%E3%81%AE%E5%BC%8F%E5%86%85%E7%A4%BE%E4%B8%80%E8%A6%A7

さて、訪問するに当って、綾部市の歴史を知ろうと、綾部市のホームページを開きました。
驚いたことに、綾部市の歴史は、扱っていません。

ウイキペデイアには、【綾部市の歴史】をキーワードで検索しますと、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%BE%E9%83%A8%E5%B8%82#.E7.B6.BE.E9.83.A8.E5.B8.82.E8.A8.AD.E7.AB.8B.E4.BB.A5.E5.89.8D

 驚くほど、歴史が書かれていません。

私は綾部市の歴史は古く、一杯のことが発見出来ると楽しみにして、準備しました。
どのように考えたか、次回から書いてみます。

「造化の三神」

2014-07-25 02:18:31 | 古事記
 古事記の最初に書かれている三人の神 (天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神) のことを「造化の三神」と一般に呼ばれています。
 一般にと書きましたが、調べて行きますと、一部の学者がそのように思っておられる様です。

 「造化」という言葉を辞書でひきますと、カシオのEX-wordには収録されています。ここには、古事記関連ばかりの説明かあります。ということは、歴史に興味のない方は、こんなことどうでも良いと思われることです。

 インターネットで検索しますと、造化の三神ではヒットしなくて、[別天神神]で記述されています。
 リンクは、この記事を書かれた方が付けられたリンクです。


別天津神(ことあまつかみ)は、『古事記』において、天地開闢の時にあらわれた五柱の神々を云う。
『古事記』上巻の冒頭では、天地開闢の際、高天原に以下の三柱の神(造化の三神という)
が、いずれも「独神(ひとりがみ)」(男女の性別が無い神[1])として成って、そのまま身を隠したという。
• 天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ) - 至高の神
• 高御産巣日神(たかみむすひのかみ) - 征服や統治の神
• 神産巣日神(かみむすひのかみ) - 生産の神
その次に、国土が形成されて海に浮かぶくらげのようになった時に以下の二柱の神が現われた。この二柱の神もまた独神として身を隠した。
• 宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)
• 天之常立神(あめのとこたちのかみ)

上の部分に於いて、下線の部分のことは、古事記には書いてありません。

書いてあることは、先ず、最初に高天原に、
天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神の三人の神がやってきました。
次に、二人の神がやってきましたと書いてあります。「海に浮かぶくらげのようになった時」にやって来たとは、書いてありません。
 
原文は、[次國稚如浮脂而。久羅下那洲多陀用幣琉之時【琉字以上十字以音】如葦牙因萌騰之物而。成神名。宇摩志阿斯訶備比古遲神【此神名以音】次天之常立神【訓常云登許訓立云多知】此二柱神亦獨神成坐而。隱身也]です。

翻訳しますと、
国はわかくて、(季節は)浮いたあぶらのように、クラゲが漂うに、葦の芽が萌えあがるように見える時です。そのような時、成れる神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遲神 
次にやってきたのは、天之常立神(テンノトコタチ)。この二人もまた、独神でした。そして、ここを去っていきました。

神とは、書いてありますが、本当は、人間がやって来たのです。

歴史を間違って解釈した国

2014-07-23 16:02:36 | 古事記
前回、日本は、古事記や日本書紀が残っているだけで、素晴らしい国だと書きました。アメリカは、独立宣言をしたのが、1776年です。コロンブスが大陸を発見したのが、1492年です。では、この差である284年は、どうしていたのかは、知りません。
 元々は、イギリスを脱出して新天地をみつけようとされた人達が、アメリカの歴史を作ったことになるのですが、イギリスの支配力から解き放たれたのが、1446年だと思います。

 日本の歴史は、縄文時代があって、弥生時代があって、神武天皇が、日本を征服したのが、紀元元年です。え~そんな馬鹿なと思われるでしょうが、これは間違いないと考えています。
 私が、歴史に興味を持ってからは、まだ25年ほどしかなりません。が、弥生時代は、どんどん古い時代からあったことになっていきます。極端なことを云いますと、新しい遺跡が発見される度に、歴史は書き換えられます。ということは、歴史の本は、どんどん役に立たなくなっています。

 神武天皇が、奈良の柏原の地に宮を定めたのが、紀元元年ということは、2014年前の1月1日と言うことになります。
 この様なことは解っているのは、世界でも日本だけだと思います。これは、すべて、古事記に書いてあるからだと思います。
 古事記が、712年に完成したのであれば、もっと、古い文書を残している中国は、日本より正しい歴史を知っている筈です。イタリアも一時は、ヨーロッパを征服した時代がありました。
 この点を自慢にしているのが、中国です。
自慢するだけであれば良いですが、日本の歴史は間違っていると云いだしたのが、小泉氏が首相をした時からです。
 私は中国の歴史は、このときからはじまったと考えています。貧しかった中国は、あれよあれよという間に、日本を抜き、今では世界第二の国になりました。

現在の共産党政権の前は、毛沢東の時代ですが、この時代も中国だと思うのですが、この時代の歴史を知っている人は、現在の中国にも、日本にも、アメリカにもいません。

 歴史は、戦争をして勝ち残った人が、書き残したものだと考えています。

「毛沢東」をキーワードにして、検索してください。どこから読めばいいのか、誰が書いたのを信用すれば良いのか迷います。

 「毛沢東の犯罪を忘れるなー4000万人以上を死亡させた ...」
http://www.page.sannet.ne.jp/mhvmhv/BunkaDaikakumei.html

このタイトルは過激すぎて、信用できないと思われるでしょうが、疑ってでも勉強する必要があります。

 【新しい日本の歴史】http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2014-07-19 
これからの日本(367)歴史を知らない日本人(594)どう戦うか(573) 認知症(30)

この長いタイトルで、日本の歴史を勉強したことを書いていたのですが、
 ここ一年は、中国とは、100%戦争になると考え、どうしたら、負けないで済むかを考えています。
 どう考えても、100%負けると思っています。

 
古事記の最初の所に、五人の神が登場しますが、この中の一人は、チベットからやって来たと考えています。
現在も、この人達は、住んで居られるのですが、中国では、全員殺されると考えています。ウイグル族という名前を聞かれた事があると思います。この人達も殺されると思います。殺しませんと、折角世界一になった中国が、崩壊するからです。
 
 中国の人は、歴史を知らないから、日本人は、南京で30万人を殺戮したと全員が、信じています。そのように、ここ60年ほど、教育してきましたから、国民は、信じるのが当たり前です。
 
もっと、気の毒なのは、2000年前から、中国の支配下にあった朝鮮半島の人達です。
こちらは、90%以上の国民が、日本人は嫌いだそうです。歴史を知らないと、好きか嫌いかで判断するしか出来ないと思います。
 アメリカと日本と韓国が、同盟国として、北朝鮮に対峙してきましたが、こんな同盟では、韓国を中国から守れないことを朴大統領はよく知っているのでしょう。
 当然、中国は、堂々と韓国を訪問して、韓国を支配下におくことにしました。歴史を知れば、慰安婦で大騒ぎをしているのは、韓国を救うためには、正しいことになります。

 
 紀元前に、チベットの人が、日本にやってきたという話は、古事記に書いてあるということを、次の所に書いていますが、誰も読まれる方はありません。
どれ、読んでやろうかと思われる方がありましたら、どうぞ。

神産巣日神(6) 『古事記を考える』
http://obitikuoosaka.blog.fc2.com/?