神話でなかった古事記

日本の歴史を知るために、いろいろ考えてきました。古事記に残されていることから、思いついた事を書いてみようと思います。

古事記と日本書紀を比べます 出雲風土記(20) 神殿(8)

2015-10-30 03:54:06 | 古事記
 物見やぐらの厖大な写真があります
https://www.google.co.jp/search?q=%E4%B8%89%E5%86%85%E4%B8%B8%E5%B1%B1%E9%81%BA%E8%B7%A1%E3%80%80%E7%89%A9%E8%A6%8B%E3%82%84%E3%81%90%E3%82%89&hl=ja&rlz=1T4GGLJ_jaJP317JP349&biw=1600&bih=765&site=webhp&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=0CDQQsARqFQoTCObC6r6U5cgCFQyflAodEYEH4Q#imgrc=dkkdd-4OVg7SPM%3A

これだけ沢山の写真を掲載されたのですし、「物見やぐら」と書かれたのですから、この上からの写真を取ればどのあたりまで、見えるのか、写真に取られれば良かったと思います。
 三内丸山遺跡とは 書かれた部分がありますが、物見やぐらの事は、一行もありません。

写真の如く、6本の柱の跡がありますが、ここに直径1mの柱が埋まっていたと考えられます。 勘違いかも知れませんが、この近くに、ゴミ捨て場のようなものがあり、谷になっていたと思われます。これから、まだまだ発掘されて、いろいろの物が出るのだなと思いました。 その下は、海に続いていたと思いました。が、波が見えはしませんでした。
  三内丸山遺跡は、結構高い高台のところにあるのだと、現在の青森の先端は、後の世になって、隆起したのだと勝手に空想しました。
 
6本の太いはしらは、建造ぶつではなくて、灯台の役目をしていたのだと考えました。

インターネットで探しましたが、灯台と書いた方は少ないです。
http://inoues.net/ruins/3naitrip.html

参考資料
①真脇遺蹟  http://www.mawakiiseki.jp/woodcircle.html
石川県鳳珠郡能登町字真脇48-100

②チカモリ遺蹟 http://www.ishikawa-maibun.or.jp/sanpo/chikamori.html
③万行遺跡 http://www.ishikawa-maibun.or.jp/sanpo/mangyo.html

④御経塚遺跡  http://www.ishikawa-maibun.or.jp/sanpo/okyouzuka.html

⑤巨大木造建築 
https://books.google.co.jp/books?id=MUp5baL6I54C&pg=PA35&dq=%E5%B7%A8%E5%A4%A7%E6%9C%A8%E6%9F%B1%E5%88%97&hl=ja&sa=X&ved=0CC8Q6AEwAGoVChMI97-W3J3nyAIVRiaUCh3tLw_s#v=onepage&q=%E5%B7%A8%E5%A4%A7%E6%9C%A8%E6%9F%B1%E5%88%97&f=false

⑥北前船の湊めぐり⑧―山陰西部の旅-と、いくつかの話題(上)
http://alzheimer.at.webry.info/201510/article_1.html

古事記と日本書紀を比べます 出雲風土記(19) 神殿(7)

2015-10-28 02:32:26 | 古事記
古事記と日本書紀を比べます 出雲風土記(13) 神殿 に於いて、
 少ない資料から、無理矢理に、出雲はどのような国かを推理しました。

①大陸からやってきた人
②絹を求めてやってきました。 しかし、自分達で、養蚕をすることはありませんでした。
③絹の取扱量は多かったのではないでしょうか。

  証拠としては、式内社が多い。(187社)
 http://homepage1.nifty.com/o-mino/page257.html 

 大陸から、日本を目指しますと、最初の内は、沖へ出ませんと、対馬海流の逆方向へ、流されるのではないかと推理します。
 沖に出ますと、対馬海流が、日本列島に沿って、東から北方向に流れていますからなにもしなくても、早ければ、長崎、福岡辺りに到達するでしょうか。流れに任せますと、隠岐、出雲、鳥取、福井、新潟などに流れ付くのではないかと思います。間違っていませんか。まちがっていたら教えてください。

 北朝鮮を出た船は、新潟辺りに到達したようなニュースを偶に見ます。

 出雲に来るには、大山を目指してくれば良いのですが、どんどん近付きましたら、出雲が見えますと、漕ぎませんと北の方に流されます。
 大山を見てから、どの辺りの所で、漕ぎますと、出雲大社に到達出来るのでしょうか。
 
大山は標高1729mです。三瓶山は1126mです。出雲大社に近いのは、三瓶山の方です。大山は、標高1729mで、高い分だけ、三瓶山より見えやすいです。しかし、読み方は、ダイセンです。 須弥山と同じ様に、山を「セン」と呼ぶのは、仏教と共に、遣って来た人が、「ダイセン」と呼んだのではないでしょうか。 [サン]よりは古くから呼ばれていて、大陸から来た人が、名付けたのではと考えます。ですから、大山を教えてもらって、やって来たかもしれません。 ただ、この場合は、大山の傍までやって来て、出雲大社に行こうとしますと、神殿を幾ら高く建てても、出雲大社は見えないと思います。

地図をご覧ください。
http://www.mapion.co.jp/m2/35.40200762,132.68544104,16/poi=L32203010200000000001
 この地図を見る限りでは、日御碕の辺りに出雲大社を造れば良く見えたと思うのですが、実際には、もっと、南に有ります。稲佐の浜まで行きますと、良く見えます。 と云うことは、三瓶山にどんどん近付きますと、出雲大社は良く見えます。
 因みに、稲佐の浜から、日御碕を回り、どんどん行った所に有る旅館に一泊しましたが、岩場ばかりで、出雲大社を建てる敷地はありません。
 
では、どうして、出雲大社は、現在の地に建てられたかは、次回に書いてみます。

古事記と日本書紀を比べます 出雲風土記(18) 神殿(6)

2015-10-25 02:27:43 | 古事記
 前回、出雲大社の高さが、64丈あったという記録は、作り話かも知れませんと書きましたが、その後、いろいろ書いてあるのを読んでいましたら、奈良の大仏殿は創建の時は、同じ位の高さがあったらしいですから、高かったかも知れません。

 大国主神が、建てて貰うには、高天原の神殿と同じような高さがほしいような記録があります。
 と云うことは、別に無理難題では無かったことになります。

 しかし、高天原の神殿と同じ高さを要求するとは、少し、要求の度が過ぎる様にも思います。
 
大国主神(古事記に書かれた名前)を祀った神社は、余り多くありません。しかし、全国で祀られています。
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page1442.html

大国主神の別名である大己貴命の名で、祀られている神社は、多いです。全国で祀られていると云うことは、全国的に勢力が強かったことになります。天皇と同じだったかも知れません。
 http://www.genbu.net/saijin/oonamuti.htm 

因みに、神武天皇を祭った神社は 

神武天皇を祭った神社  
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page311.html 
ですから、天皇家と同じ大きさの建物を要求したのかも知れません。


古事記と日本書紀を比べます 出雲風土記(17) 神殿(5)

2015-10-25 01:39:23 | 古事記
出雲大社は、何度も 顚倒を繰り返しています。
 祖田浩一著 『古代出雲 巨塔の謎』より拝借して、以下に記します。

 (参考) 垂仁天皇の時(『古事記』に記載あり)
 (参考) 斉明天皇五年の時(『日本書紀』に記載あり)
第1回  弘仁13年 (822) 正殿式
第2回  永延元年  (987)  正殿式
長元4年  (1031)  顚倒
第3回  長元9年  (1036)  正殿式
第4回  康平3年  (1060)  仮殿式
  康平4年  (1061)  顚倒
第5回  治歴3年  (1067)  正殿式
     天仁2年  (1109)  顚倒  3月5日
第6回  永久3年  (1115)  正殿式
     永治元年  (1141)  顚倒  6月7日
第7回  康治元年  (1142)  仮殿式
第8回  久安元年  (1145)  正殿式
     承安2年  (1172)  顚倒  10付き10日
第9回  安元元年  (1175)  仮殿式
第10回  建久元年  (1190)  正殿式
第11回  嘉禄2年  (1226)  仮殿式
     嘉禎元年  (1235)  顚倒
第12回  宝治2年  (1248)  正殿式
     文永8年  (1271)  炎上  正月2日
第13回  弘安5年  (1282)  仮殿式
第14回  正中2年  (1325)  仮殿式
第15回  元中3年  (1386)  仮殿式
第16回  応永19年  (1412)  仮殿式
第17回  嘉吉2年  (1442)  仮殿式
第18回  応仁元年  (1467)  仮殿式
第19回  文明18年  (1486)  仮殿式
第20回  永正16年  (1519)  仮殿式
第21回  天文19年  (1550)  仮殿式
第22回  天正 8年  (11580)  仮殿式
第23回  慶長14年  (1609)   仮殿式
第24回  寛文 7年  (1667)   正殿式
第25回  延享元年   (1744)  正殿式

この後に、補足の文章がありますから、詳細は、『古代出雲 巨塔の謎』 33ページ
をご覧ください。

如何でしたか。
古事記と日本書紀には、次の様に書かれています。

• 大国主神は国譲りに応じる条件として「我が住処を、皇孫の住処の様に太く深い柱で、千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、そこに隠れておりましょう」と述べ、これに従って出雲の「多芸志(たぎし)の浜」に「天之御舎(あめのみあらか)」を造った。(『古事記』)
• 高皇産霊尊は国譲りに応じた大己貴神に、「汝の住処となる「天日隅宮(あめのひすみのみや)」を、千尋もある縄を使い、柱を高く太く、板を厚く広くして造り、天穂日命に祀らせよう」と述べた。(『日本書紀』)

古事記が完成したのが、712年ですから、
712年から1744年迄の間に、25回の顚倒や修理が行われたことになります。
 
 単純に計算しますと、40年に一回です。ここ最近のデーターでは、40年に一回ぐらいは、大きな地震や台風が起っていますから、建物が高いから倒れたとは言えないと思います。

倒れても倒れても、高くする必要があったと考えますと、では、どのような理由が考えられるかです。

次回から、書いてみます。

古事記と日本書紀を比べます 出雲風土記(16) 神殿(4)

2015-10-22 08:50:46 | 古事記
古事記は、 712年に完成。
日本書紀は、720年に完成。

  出雲風土記は、713年に、全国につくるように命じられましたが、出雲風土記が完成したのは、20年後とされています。
  不思議なことに、完全に残っているのは、出雲風土記だけで、逸文の形で、残っているものは、外に4つの風土記が残っています。 それ以外は、残っていません。

    延喜式祝詞に、「宮柱」の事を述べた箇所が一杯出てきます。
 「宮柱」の近くには、石根、岩根、磐根と、漢字は異なりますが、同じ意味の語句が並んでいます。
    延喜式は、927年に完成したことになっています。 

どの部分を見て頂いても良いですが、例えば、平野祭には、次の様な記事が掲載されています。  http://nire.main.jp/rouman/sinwa/norito.htm#05

天皇が御命に坐せ、今木より仕へ奉り来れる皇大御神の広前に白し給はく、
 皇大御神の乞はし給ひの任に、此の所の底つ石根に宮柱広敷き立て、高天の原に千本高知りて、天の御蔭・日の御蔭と定め奉りて、神主に神祇某官位姓名を定めて進る神財は、・・・とあります。

全部、コピーして、検索しますと、全ての「石根」がヒットします。

 それぞれの書物が完成した年を記しますと、
古事記は、 712年に完成。
日本書紀は、 720年に完成。
延喜式は、 927年に完成
出雲風土記は、713年に作るように、全国に指令。----完成は、733年頃。

古事記の後に、完成したのは、全て、藤原氏が製作に関与したと思われます。

その為に、石根と宮柱という共通の言葉が出てきます。

もし、古事記が発見されていなければ、 日本書紀、延喜式、出雲風土記に書かれている言葉は、正しいことになります。

と云うことは、出雲風土記に書かれている神殿の様子は、古事記を真似した可能性が強くなります。
 神殿の高さが、64丈あったという記録は、作り話かも知れません。