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カシミールが目を覚ますと、そこはベッドの上だった。
脳裏にたゆたう夢の残滓が、手のひらに受けた水のように零れ落ちていく。
「……何か、イヤな夢を見たわね……川に落ちて、何かに捕まって……何に捕まったんだったかしら」
カシミールは起き上がると、大きく伸びをした。胸にひっかかっていた毛布がハラリと落ち、覆い隠すもののない美しい上半身が陽光を浴びて白く光る。
「とても寂しい夢だったような気がするわ。何か大切なものを失ったような……ふふっ、幸せすぎてバチが当たったかな?」
カシミールは小さく笑うと、もう一度毛布にくるまった。
「でも、昨日はちょっと疲れたわよ、アインス」
尋ねる声に、しかし応える者はない。
カシミールはその時、初めてベッドにアインスの姿がないことに気がついた。
「アインス……?」
そこはリードランス城下の郊外に建つ、小さなマンションの一室。
アインスとカシミールが共に暮らした部屋。
かねてから王城での暮らしに窮屈さを覚えていたアインスは、放浪の旅から帰還した後、住居を城外に移していた。
カシミールは身体に毛布を巻きつけてベッドを出ると、住居の中を捜した。しかし、アインスの姿は何処にもない。
「何処に行ったのかな、アインス……」
呟くカシミールの胸が、何故か小さく痛んだ。
第18話 幻の島 -囚われた心-
「何故だ! 何故貴様のような奴が死なないんだ! 貴様はハイムを捨て、兵士であることを捨てた。あまつさえ家庭などという足枷まで作っている!」
スケアと激しく斬り結びながら、アートは叫んだ。
「己の国のため、国民のために自らの命さえかえりみず戦いに散る。それが兵士たる者の正義! 俺達クラウンに家庭など、安らぎなど無用だっ!」
「アート君。以前にも言ったが、君の志は決して間違ってはいない」
執拗に繰り返されるアートの攻撃を捌きながら、スケアは静かに告げた。
「けれど、君の言う“正義”にしがみついている限り、私に勝つことはできないよ」
/
「問題はさぁ、ウサちゃん」
グラフは海岸沿いに歩きながら、左手に填めたウサギの人形に話しかけた。
「この世界には正義が多すぎるってことなんだ。そりゃあ一つの正義を信じて戦うのは楽だし、それで得た勝利は嬉しいものだろう。でもさ、もしも相手にも正義があって、守るべきものがあったとしたら……どうする? 自分の勝利は“善”なのか? 自分の戦っている相手は本当に“悪”なのか? 俺達は……」
グラフの声が苦しげに沈む。
「もしかして俺達は、正義なんていうバカげた観念に躍らされている、もっともタチの悪い大量殺人者なんじゃないのか?」
『でも迷ってばかりじゃ何もできないわよ、グラフ』
「わかってるよ。でも、これだけは言えるんじゃないかな」
自問自答の果てに、グラフは呟いた。
「他人から押しつけられた正義は、人が自ら選び取った正義には決して及ばない。俺もいつか、自分だけの正義を見つけられればいいんだけどな」
/
アートとスケアが戦いながら森を抜けると、そこは一面の花園だった。
少し離れた所には、薔薇の花が咲き乱れ──群生する薔薇の中央には、眠り横たわる女性の姿が。
「あれは……カシミール!?」
スケアの注意がわずかに逸れる。
その瞬間、
「バカめ! 食らえっ!」
アートの斬撃がL.E.D.を弾き飛ばし、スケアの周囲に炎の竜巻が巻き起こった。追いついてきたモレロの目の前で、あっと言う間に炎の中に飲み込まれていくスケア。
「スケアーっ!」
「ハハハハッ、女などに気を取られるからだ!」
狂ったように哄笑するアート。
しかし次の瞬間、炎の竜巻は爆発するように四散した。
「忘れたのか? 君の風を操る能力は、元々私から受け継がれたものだ」
炎の竜巻の中から現れたスケアは、周囲に無数の旋風刃を浮かべながら言った。
/
時々カシミールは、アインスのことをとても遠くに感じることがあった。まるでこの世にいない人間のように、その存在が不確かなもののように思えてならなかった。
彼はまた、その時々によって様々に雰囲気を変えた。普段の老成した落ち着きぶりから周囲の大人達よりも遥かに年上に見えたし、色々なことを素直に楽しむ無邪気さは幼い子供のようだった。
そしてまた、彼は怯えているようでもあった。一国の王子として公共の場に出ているときも、一人の住人として同じマンションの人と話をしているときも、一人の男としてカシミールと二人でいるときも……常に何かに怯えていた。
しかし、カシミールはアインスの内面には踏み込まなかった。アインスは自分のことを必要としてくれているのだから、それでいい。そう思っていた。
カシミールは町をさまよい歩いていた。公園、本屋、図書館、学校、市場……アインスが行きそうな場所にはすべて行ってみたが、アインスの姿は何処にもなかった。
いや、アインスだけではない。町には人一人おらず、ただ冷たい風だけが寂しく吹いている。
「アインス……何処にいるの?」
「だから言ったでしょ? アインスなんて信用しちゃダメなのよ」
場所はいつの間にか、メルクの長官室になっていた。長官席についていた若い女性が、仕事をしながら話しかけてくる。
「あいつは何かを愛するということのできない人間なのよ。確かにあいつは優しくしてくれるし頼りがいもあるわ。でもそれだけ……あいつの内面はひどく冷たくて、暗い感情に満ちている」
長官席に座っていた女性が振り返る。それはリードランスにいた頃の、18歳のパティだった。
「貴女は利用されているだけなのよ」
「……そう、なの……かな……」
カシミールが茫然と呟く。
「そうね。あいつの中には闇があるわ」
場面はコンサートホールに変わっていた。客席には誰の姿もなく、ジューヌが一人で舞台に立ち、バイオリンを弾いている。
「気づいていなかったの? あいつの中にある不安を。あいつが抱えていた死への恐怖を」
「そ、それは……」
「姉さんはあいつの内面から目を背けた。あいつを救おうとしなかったのね」
ジューヌは演奏をやめ、ホール全体に響き渡る声で言った。
「そう。姉さんはアインスを救えなかった」
「だって、私は……そんなこと言われたって……」
カシミールは耳を押さえてうずくまった。
「私はそんなこと、知らなかったんだもの……!」
「本当に、そうなのかい?」
次にカシミールがいたのはリードランス王城の一角、騎士団の訓練場だった。目の前では一人の男が激しい剣舞を舞っている。
「アインスに一番近いところにいたのはカシミールだ。彼の生い立ちの複雑さは勿論、呪いの刻印のことだって知らなかったはずはない」
「……リード……!」
「アインスがカシミールにどう説明したかは知らないけれど、それが嘘か本当かを見抜くことくらいはできたはずだよ」
アインスのパートナーであり、カシミールの兄であった男──プライス・ドールズNo.12『リード』は、剣を地面に突き立てて厳しい表情でカシミールを見つめた。
「知らなかったんじゃない。カシミールは、知ってて知らない振りをしていたんだ」
「でも、私は……!」
カシミールはリードに駆け寄ったが、手が触れる直前にリードの姿は消えてしまう。カシミールはその場に崩れ、地面に両手をついて叫んだ。
「私は……認めたくなかった……!」
あれはいつのことだっただろう。
カシミールとアインスは、いつものように同じベッドで眠っていた。
夜中にふと目を覚ますと、アインスは毛布から中途半端に抜け出してカシミールの身体を抱き締めるようにして眠っていた。
カシミールがそっと離れ、毛布をかけ直そうとする。
その時。
アインスは眠ったままカシミールを抱き寄せ、呟いたのだ。
「……母さん……」
と。
「結局、アインスは……カシミールっていう一人の女じゃなくて、母親の温もりを求めていたのかしら……」
その時、カシミールは気がついた。年老いることのないはずの自分の身体が、老女のものになってしまっていることに。
「な、何? 何よ、これ……こんなの、こんなの嫌よ……!」
老女となったカシミールの前に、アインスの姿が現れる。
「アインス……ねぇ、貴方は……私のこと、どう思っていたの?」
動かない身体を叱咤して立ち上がり、カシミールがアインスに近づこうとする。と、誰かがカシミールを突き飛ばしてアインスに抱きついた。
「アインスはお前のことなんか何とも思ってないわ」
「……フジノ……!」
14歳の姿のフジノは、子供と大人の境目に位置する少女だけが持ちうる独特の魅力を漂わせ、アインスにしなだれかかった。
「そうだよね、アインス。あんなおばあちゃんもういらないよね? 元の身体に戻ったって、ただ綺麗なだけのお人形になんか用はないよね」
「そ、そんなこと……」
「カシミール、気にすることはないよ」
言い返そうとしたカシミールに、アインスは優しく微笑んだ。
「君に期待した私が愚かだったんだ。もういいよ、私は同じ闇を背負った彼女と生きていく。君は何処にでも好きなところに行くといい」
絶句するカシミールの目の前で、アインスとフジノは濃厚な口づけを交す……。
/
「動くな! 動けば辺り一帯の植物ごとあの女を燃やすぞ!」
アートはF.I.R.の切っ先をカシミールに向けた。刀身から炎が勢いよく立ち昇る。
要求通りに動きを止めるスケア。その姿から目を離さずに、アートは別の方向に叫んだ。
「そこの貴様、剣を捨てろ! あの女は家族なんだろう!?」
「く……っ」
弾かれたL.E.D.を拾い上げようとしていたモレロが、柄に手をかけた姿勢のまま硬直する。
「どうする、スケア。奴は本気だぞ」
「ああ。やってくれ、モレロ」
スケアの頷きに応え、モレロはL.E.D.を後方に放り投げた。アートの表情が昏い笑みに歪む。
「……堕ちたね。彼はもう、兵士ですらないよ」
スケアは哀れみを込めて呟いた。
「自分の行動を他人に委ねた、ただの……哀れな男だ」
そして周囲に浮かべていた旋風刃をも消し、アートに向かって歩いていった。
「バカめ、あの剣がなければ貴様など……がっ!?」
アートがF.I.R.を戻した瞬間、スケアの拳がアートの腹部にめり込んだ。
「今の君を相手にL.E.D.を使うまでもない。自らの力だけで充分だ」
「ぐ……貴、様……!」
アートがF.I.R.を振りかざすよりも速く、スケアがアートを蹴り飛ばす。
着地の反動で飛び出し、全力でスケアに斬りかかるアート。しかしスケアは避けようともしない。
F.I.R.の刃が目前に迫る。
次の瞬間。
スケアが交差させた拳に、F.I.R.の刀身は真っ二つに折れ、弾き飛ばされた。
「な……バカな……!」
「武器の力に頼ってばかりいる者に、本当の強さなど得られはしない」
スケアはアートの眼前に手のひらを突き出した。
「終わりだよ」
「あ……うわぁあぁぁぁっ!」
スケアの衝撃波に吹き飛ばされ、森の中に消えるアート。
しばらくの後、スケアはモレロに叫んだ。
「さぁ、カシミールを助けに行こう!」
/
いつの間にか、アインスとフジノの姿は消えていた。
カシミールは更に暗く冷たい空間に放り出された。
「もう……嫌よ……」
カシミールの周囲を、これまでの出来事が走馬灯のように流れ、消えていく。
/
「カシミーーーール!」
スケアとモレロが眠るカシミールに向かって駆け出すと、その行く手を阻むように薔薇の大群が押し寄せてきた。
強引に押し退けて進もうとする二人。しかしほとんど手応えがないにも関わらず、払い除けようとした腕には鋭い棘が突き刺さり、幾本もの蔓が足に絡みつく。
どうやら薔薇の幻にカモフラージュされて、本物の攻撃・拘束用ワイヤーが混じっているらしい。L.E.D.や風の魔法で攻撃すれば突破は可能だろうが、カシミールまで傷つけてしまいかねない。
「くそっ、これじゃあ近づけない!」
スケアが呻いた、その時。
眠るカシミールの身体が、にわかに白く輝き始めた。
「……まさか、ツェッペリンが作動しているのか!?」
/
「あらあら、どうしようか? ちょーっとヤバイことになってるわよ~」
玉響が少し困ったように言う。
トトは──いや、“もう一人のトト”は、それまでずっと天井に吊された鳥カゴの中から床のチェス盤を見つめていたが、
『では、私もゲームに参加しましょうか』
と口を開いた。
『私の駒は“トト”と……それからもう一つ』
もう一人のトトが手を開き、その中から一つの駒が落ちる。
「金色のキング……か」
落ちていく駒を見つめながら、玉響がニッと笑った。
「そう、私の出番ですね」
闇から浮かび上がるように現れた何者かが、金色の駒を空中で音高く掴み取る。
「トトさん、歌をお願いします。未来に進むような歌を」
蒼い髪の長身の男は、マントを優雅にはためかせて部屋を出ていった。
「わかりました。では、私の歌を聴いて下さい」
トトは──金色のクィーン“歌姫”は、祈るように両手を組んだ。
/
「どけ、スケア!」
モレロは薔薇の群れに突っ込むと、力一杯大地を殴りつけた。地響きと共に地面が砕け、薔薇の攻撃が止まる。
「今だ、早く行け!」
モレロは振り向き、太い腕を差し出して言った。
「勘違いするなよ、お前を認めたわけじゃない。もう俺は、姉さんが悲しむところを見たくはないんだ!」
「モレロ……」
「姉さんを頼む。お前だったら、きっと姉さんを幸せにできる」
スケアは僅かに涙を浮かべ、心の底から感謝を込めて言った。
「ありがとう、モレロ。カシミールと共に、君のような男に出会えて本当に良かった。この戦いが終わったら、今度一緒に飲みにでも行こう」
そしてスケアはモレロの差し出した腕を踏み台にし、モレロのパワーを上乗せして、薔薇の群れを越えてカシミールに向かって跳躍した。
「……まったく、敵わないよなぁ……あんな目で礼を言われちゃあ……」
やれやれと呟き、モレロは再び起き上がってきた薔薇の群れと向かい合った。
「今度飲みに……か。悪くないな」